「察しろ」と言うにも、限度はある。
二人は、兄と妹である、と言う単純な関係にも、色々と混沌はある。
兄は結婚し妻が居るが、その家では妹も未婚のまま暮らしてて?何故か子供は居ない。
兄はやがて、作家として成功した、が。
しかし作家として名声を得ていく時、周囲の視線は、この辺の混沌にも…何故か意識を向けてしまう。
この家庭には一体、何が有るのだろう?
「プライバシーです」と、ここから先に踏み込んではいけない、が今の”雅”市場、そのルールではあるのだけど。
昭和の頃も?と言うと、そんな事は無い訳で。メディアに出たら私生活から何から暴露されても文句を言わない、のが何かの暗黙の了解だ。この時、彼らはどうなるか。
”彼ら”は当時、そのまま、作家を続ける事は…出来ただろうか。
不意にある、奇妙な妄想?と言うか悪夢と言うか、だ。無念さや理不尽さが、少しこの領域に残っていて、触れては行けない古傷の様なモノ、それを残している感じはある。ただ、その「常識」の基幹に有るのが、或いは「朝日新聞社」かもしれない。ビートたけし氏も襲撃した位で、そのスタンスには如何に芸能人で有っても憤怒せざるを得ない部分はあったにしろ、それは今もまだ、テレビを基幹に何かの中心としては続いている。
もちろん、逆説的にか、”これ”は一つの「期待された一つの帰結」だ。ここに至る事を彼らが選択した時、朝日新聞の創っていた「良識」は、それをどう見るか、兄は成功した作家である。その私生活にはこの時、謎が多い。
当時の状況は解らない。今の自分の感覚としては「どうでも良い」そこは見ない、しかし。現在、”そこ”にさえ至らなかったか、そう言うしかし「被害者でしか無かった」無念が、自分の意向より前に、その願いか無念を晴らすよう、要求されている感覚はあり。
或いは自分の現状が今の状況である事も、それが原因かもしれないのだけど。
不意に、自身の絶対性?それが失われた感覚は、有る。
何かの”戦争”前は大概はそうだ、これもそうだろうか。
結果は、果たして。
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