今日は、信徒メッセージがなされました。
外側から整えて、形式的な信仰生活にならないように、気をつけようと思いました。
イエス・キリストが、内に入って、ともにいて内側から導いておられるのだから。
何をするにしても、その動機の部分から、いつも点検する必要があると思いました。
ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめらる必要がありました。
しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなくてはなりません。 へブル9章23節
モーセが山で神に示された型に従って作られた天幕では、動物の血を注ぐ儀式によって外側からきよめられる必要があった。
天にあるもの自体=聖霊の宮=救われたクリスチャンの内側は、イエス・キリストの十字架上の血によってきよめられる。
聖餐式で、ぶどう酒を飲むのは、キリストの血を飲んで、内側にキリストに入っていただくことを意味する。
全知全能の神の御前で、どう歩むのかを考えないで
人からどう見られるかを、あるいは見られていないを、気にしていることが多い私です
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