★★ソロモンは立派な人かと思っていたが、違った。
ソロモンが建てたピカピカの主の宮や、宮殿、その他のものは、ソロモンが造りたいと望んでいたものであった。と9章1節にあり、またエルサレムやレバノンや、すてべの領地に建てたいと切に願っていたものを建設したと9章19節に書かれている。
神に聞かないで、自分の欲望のままに何かをする時は、祝福されないことを私は経験して知っています。同じように奉仕をしていても、神様はその動機のところから見ておられます。自己中心から始めた奉仕はだんだん疲れて来て、上手く行かないで、祝福されません。
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★★心配になったのは、現れてくださった主が、「もし主の命令とおきてを守らなかったら、他の神々に仕え、拝むなら・・・」と恐ろしい預言をしておられるのに、ソロモンがその言葉に対して、何の応答もしていないことです。
教会で恵みの約束が語られる時には、熱心に良く聞こうとしますが、警告が語られた時には、耳を閉ざたくなったり、ぼーっとして聞く耳を持たなくなって、悔い改めたりして応答しないところがあります。祝福されているのも事実なら、さばきがあることも事実なのですから、説教の聞き方にも、聖書の読み方にも注意をしなくてはなりません。
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★★9章25節では、「主のために建てた祭壇の上に、一年に三度、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、」とありますが、あれっ、神殿が建った時には数えきれないくらいのいけにえをささげたのに、その後は年に三度だけ? ソロモンは礼拝行為よりも、政治・経済・軍事などを優先して、主の命令とおきてをすでにないがしていることが、ここで書かれているのでしょうか。
私達は受洗した時は、生き生きとして喜んで祈り、聖書を読んでいますが、しばらくすると、仕事や学校やこの世のことで忙しくなっているのでしょうか、礼拝に来なくなる人がいます。礼拝をさざげて説教も聞いているけれども、霊的な力を失ってきている人もいます。ますます瑞々しい思いで、礼拝と讃美と感謝をささげ続けたいと願います。
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希望が見えました。ガリラヤ
ソロモンがヒラムにガラリヤの20の町を与えたが、ヒラムは気に入らなくて、それ以来、ガリラヤは「カブル」「ないのもおなじ」と呼ばれた。
そのように、全く価値のない、魅力のなかったガリラヤ。そのガリラヤ地方のナザレでイエス様は育ち、ガリラヤから宣教を始めたのでした。
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