ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

ヨハネ17:20~の予習

2021-04-17 11:03:56 | ヨハネの福音書

 17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

使徒たちの書いた聖書のことばによってイエス・キリストを信じて弟子となった私のためにもとりなして祈っていてくださいます。自分のことで満足するだけでは足りません。イエス様の弟子として、教会の弟子たちのためにも、また今後、みことばによって弟子となっていく次の弟子たちのためにも、とりなして祈ることが求められている。何をどう祈るのかを、ここでも学ぶ必要があると思います。

 17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

「ためです」という言葉が21節に3回。「一つ」が、21節に1回、22節に2回、23節に1回出てきます。この二つの言葉をキーワードにして、注意深く読みたいです

イエス様のとりなしの祈りには目的がはっきりとあります。その目的が自分の望む方向とズレているなら、的外れになってしまい、祝福と喜びのないものとなってしまいそうです。

 17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

2回書かれている「与えました」は完了形であることに注目しました。

私たちに与えられた神の栄光をほめたたえる讃美を教会でささげている時、それがリモートであっても、最高に喜びを感じて、とても心地よいものです。


 17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

「愛された」は2回書かれています。どちらも能動系のアオリスト。現在形ではないことに注目しました。

イエス・キリストの十字架の贖いのみわざが、たった一度、世に示された神の愛の現われであり、神の意味であることを、イエスはまだ十字架にかかってはいないけど、そうなることを見越して、アオリストで書かれているのでしょうか


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