ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

従者ヨシュアの弟子訓練

2020-02-04 13:27:26 | 通読・出エジプト記
出エジプト記24章で、ヨシュアのことを「従者」と呼んでいるのが気になっていた。
山に登るのに、モーセ、ヨシュア、そしてアロンと息子たち、千人の長、百人の長たちはどうしたのだろう・・1月30日「モーセのマネジメント」

32章17節で、「従者」の意味が読めた。
モーセが山で40日40夜神様と話している間、ヨシュアはモーセの言いつけを忠実に守って、山の中腹にとどまっていた。
ヨシュアは、山上の様子は見えず、いつまで待つのはもわからず、一方、山すその民叫ぶ声を聞いて、いくさの声だと思った。アマレク人か誰かと戦っているのかと気が気ではなかっただろう。自分も行って戦うべきかと、その情勢を心配をしながらも、一人でそこにいた。


下って来たモーセは戦いの声ではなく「歌を歌う声である」と言った。モーセはヨシュアよりもはっきりと声の意味が理解できて、ヨシュアの聞き違いを指摘した。
知恵という意味では、ヨシュアはまだ未熟だったと言える。


人の騒ぎを聞き分けることの知恵よりも、神のみこころを聞いて従う従順を選ぶ人が、将来のリーダーに成長していく。そのことをモーセはわかっていて、ヨシュアをリーダー訓練していたのだろうと思われる。
神と人との間に立つ人。リーダーと民との間に立つ人には、不安や苦しさの中でも、そこにとどまって神の時を待つという忠実性が重要なのだと学んだ。


一方、モーセ自身も神からの訓練を受けている。
教会でもどこでも、リーダーは自ら訓練を受けながら、次世代のリーダー訓練をしていると言える


「従者」という言葉を出エジプト記の中で検索したら次の33章に出てきた。
民はみな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見て、その場を離れて自分の天幕の入口で伏し拝んでいたが、ヨシュアだけは違った。幕屋を離れないでいた。
忠実であり、勇敢な若者だ。
33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿