昨年の2月に主人が義父をAEDで救命しました。
その時の様子を、大阪ライフサポート協会の会報に寄稿しました。
読んで頂けると嬉しいです。
救命の現場で学んだ事
「心臓突然死は救える命です。そしてそれは決して他人事ではありません」と伝え続けながら、まさか私自信がAEDのボタンを押し救命の現場に立ち会うことになろうとは思ってもいませんでした。
今年の、2月23日、数日前から体調のすぐれなかった91歳の私の父は、かかりつけのクリニックで診察を受けた後、クリニックの前で家族の車に乗り込んだところで心停止となりました。急を聞いて駆け付けた医師の指示で私の姉が胸骨圧迫をはじめ、医師がマスクを使って酸素を送り始めました。
会社で仕事中だった私達夫婦も、父が急変したという知らせを聞いてクリニックの前へ駆けつけ(会社からクリニックまでは約200mの距離です)私が姉と交代して胸骨圧迫を行い、間もなくして到着したAEDで除細動を行いました。1回目のショックの後、数回の胸骨圧迫で心拍が戻った事を医師が確認しました。しかし、父の意識は回復せず、その後到着した救急車で急性期病院へ搬送されました。
後日私は、クリニックの医師や看護師に会い、その時の時間の流れをまとめてみました。
AM 11:03 父の急変を感じ呼びかけるが反応なし。
医師を呼びにクリニックへ戻る。
11:04 クリニックの医師が意識の確認を行う
119番通報を指示
11:05 気道確保、胸骨圧迫を始める、AEDを取りに行く(クリニック事務員)
胸骨圧迫を交代・BVMで酸素を送り始める
11:06 私が現場へ到着、胸骨圧迫を交代
11:07 AED到着
一回目の除細動 直ちに胸骨圧迫を行う
11:08
医師により心拍が戻った事を確認
11:09
11:10 救急車到着
時系列を作成しながら、同時に私自身の行動を振り返ってみました。
◦ AEDが到着し蓋をあけた後、日本光電のAEDにもかかわらず、電源ボタンを探した。
◦ 自分がAEDのパッドを装着している間、胸骨圧迫の交代を頼まなかった。
胸骨圧迫が止まってしまった。
◦ 通電ボタンを押すタイミングを逃した。
離れて下さいと声をかけた後も体に触れている人がいたので、一度目の音声でショックボタンを押すことができなかった。すぐに二回目の音声が流れ、ショックボタンを押す。
周りにいる人達に離れてもらうことを徹底することはとても大切なことだと実感した。講習のように一度声をかけただけで、皆が離れてくれるとは限らない。
◦ AEDパッドの粘着力の強さに驚いた。
体にパッドを貼った後も「パッドを装着して下さい」という音声が流れたのでパッドをもう一度押さえ直す。
現場では落ち着いて対処したつもりでした。しかし、上のような反省点もあり、実際の救命の現場と、講習とは違うものだということを実感しました。そうであるからこそ、誰もが一度は救命講習を受講しておかなくてはいけないと思いました。そして、そこで学ばないといけない、救命の現場で最も必要な事は「胸を強く押す」事と「落ちついてAEDのボタンを押すこと」だと思いました。
私は以前から、実際の救命の場面では、家族はもちろん救助者や現場に居合わせた人にも、何らかのストレスが生じるのではないかと考えておりました。実際、父の胸を押し続けている時の恐怖にも似た不安な気持ちは、言葉にすることができません。病院に運ばれた時点では「もう意識は戻らないと思って下さい」と言われ、たくさんの管と機械に囲まれ、胸が大きく波打つ父の姿を見た時には、「本当にあの時AEDをかけて良かったのだろうか・・・」と重い気持ちになりました。元気になって「生きていてよかったよ」と笑ってくれる日が来なければ、私はずっと後悔をするのではないかと思いました。
その後、3月4日のセミナーで「救助者の精神的ストレス」について講演された、明石Drの「心肺蘇生の成功とはその人の生死のみで評価されることではない。救助者にとって心肺蘇生の成功とは、行動を起こして努力した対応をしたということが成功である。」という言葉が強く心に残りました。「命を繋げたい」と思う気持ちで行う救命行為には、成功や失敗という言葉はないのです。
それでも救助者は、気持ちが沈んだり、眠れなくなったり、罪の意識を感じたりするかもしれません。そのことを考えずに「バイスタンダーになって命を救って下さい」とだけ伝えるのではいけないのだと思いました。今はまだ、救命のほとんどが成功しないことを伝えれば、みんな一歩引いてしまうかもしれません。しかし、それでも命を明日につなげるためには、「勇気を持って一歩踏み出してほしい」ということを話し続けようと思っています。
心停止から5か月半がたった現在、父は退院し社会復帰をいたしました。脳へのダメージも後遺症も全くなく、倒れる前以上に元気になっております。
急性期病院の医師も、父の奇跡的な回復に「早い時期からのCPRが功を奏したのでしょう」と言って下さいました。それは私たち家族にとっては、とても嬉しい言葉でした。
そして、私にとって何より嬉しかったのは、「生きていて良かったよ」と言ってくれた父の言葉でした。たくさんの方々のそんな言葉が聞けることを願い、今後も活動を続けていきたいと思っております。