>>米国の官僚に対し「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語った。
>>1949年1月5日に朝日新聞を通じた日本への新年メッセージでは過激な反日姿勢を見せてなかった。そこでは「日本の皆さん新年おめでとう。韓国人は日本人が韓国人へ抱いてるのと同様に善良な皆さんに対してては何の呵責もない」、「過去40年、韓国人がうけた痛手は日本の軍国主義者の罪であって、日本人もまた政府の同様に被害をうけた。隣人の両国民はお互いに仲良くしなければならないことを日本人は忘れてはならない」としていた
>>李承晩は25才年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。李康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。
>>李承晩政権期から朴正煕政権期の1970年前後まで、南側の大韓民国よりも北側の朝鮮民主主義人民共和国の方が経済的な体力では勝っていたのである。ただし、そのような状況は、あくまで北朝鮮が日本から受け取った物質的な遺産が豊富だったからだともいわれる。例えば1930年代後半から推進された軍需工業化の結果、解放後の1946年当時、北朝鮮ではおよそ800か所以上の大規模工場が稼働中であり、製鉄、精錬、電気、化学など、当時世界の先端レベルの工場群が存在した。1939年以降に日本からもたらされた電気・化学工業の大規模工場は、従業員数が3000、あるいは6000を超える場合もあり、現在確認されたものだけでも200か所を超える。北朝鮮に敷かれた鉄道網は一人当たりの鉄道の長さでは日本内地より高い水準にあった。一人当たりの発電量も、北朝鮮では日本を凌駕するレベルであった。反面、南朝鮮が日本から引き継いだ物質的な遺産は貧弱だった。南朝鮮で最も大きな産業は米穀の輸出であった。工業施設は醸造所・精米所のような食品加工業か、印刷業・陶磁器業のようなものがほとんどであった。
>>北に残った遺産は朝鮮人には無用の長物!!
南は」(日韓基本条約)で丸儲け
どっちが得か…でもこうなると日本も罪なことをしたものだ
日本人の未来に…莫大な負の遺産を残すことになったのだから・・・
だから家康も、諭吉もかかわるなと言っていたんだ!!