>>国民洗脳に果たした役割
前出の稲垣氏によれば、「朝日新聞は、読者に募金を募り、そのお金で軍用機を買い、軍部に献納するというキャン
ペーンまで始めます。朝日はこれを”銀翼基金”と名づけ、”千機、二千機われらの手で”というスローガンの下、まず朝
日新聞の社長・会長が率先して1万円の募金をおこない、この基金にお金を出した読者の名前を紙面に掲載しつづけ
るのです。そのほか、軍国歌謡や戦争スローガンの募集、そして慰問金の募集など、次から次へと戦争遂行のために
積極的な活動をおこなっていくのです。」
たしかに昭和16年12月12日に掲載された。
<軍用機献納運動の強化>
と題された社告は面白い。
<大東亜共栄圏確立の聖業に邁進しつつある戦況にかんがみ、本社はこの歴史ある国民運動をこの際、更に
更に強調し強化して『千機、二千機われらの手で』の目標を達成したい念願に燃ゆるものであります。国民各位
はこの愛国機献納運動の主旨に賛同され、さらに強力無比の大空軍建設に資するため一層のご協力を賜らむ
ことを切望する次第であります>
と、本社が10万円、社長・会長がそれぞれ1万円を献金したことを宣言しているのである。これはもはや当時の体制
に責任を転嫁できるレベルの関与の仕方ではない。
「それだけではありません。朝日は積極的に”記者報告会”という後援会を各地で開催し、戦地から戻った特派員たち
に直接、軍部寄りの意見を述べる講演をさせて、大衆感化の重要な役割を果たすのです。紙面だけではなく、あらゆる
意味で朝日は国民を戦争に駆り立てる重大な役目を果たし続けたことになります。」(同)
その軍国主義翼賛姿勢にかかっては、朝鮮半島で実施された徴兵制についても、こんな礼賛記事になる。
<朝鮮に徴兵制実施 澎湃たる民意に応ふ>
<多年の念願実現 半島同胞徴兵制施行に歓喜>
<朝鮮・徴兵制に感激の波高し 上京して宮城奉拝 一死応へ奉らん>
と繰り返し大報道し、
<「今こそ真に日本人」 朝鮮の徴兵制に血書の感謝状>
という見出しのもと、
<ああこの日本帝国に生れ合はした幸運、朝鮮人も祖国日本のため米英撃滅に参加出来る喜びをお察し下さ
い、今こそ靖国の英霊の仇を討って見せます、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳>(昭和17年5月15日)
と、朝鮮人の手によるとされる手紙まで紹介するのだ。
まさに軍国主義政府が感謝してもし足りないほどの強烈な報道を朝日は展開しつづけるのである。
もちろん、戦況が不利になっても、その驚くべき報道は衰えを知らない。
朝日の米軍への憎しみを煽る記事が目立つようになるのは、サイパン島陥落以降だ。
米兵が、日本兵の髑髏を記念品として少女に送ったという記事を写真と共に米誌『ライフ』が掲載したとして、こんな
記事を書いている。
<屠り去れこの米鬼 仇討たでおくべき>
の見出しのもと、
<これこそ肉を食い骨をしゃぶる米鬼の小弟をむき出した問題の写真である。(略)われわれは怒りの眼をかっ
と見開いて野獣の正体を正視しよう。(略)この野獣性こそ東亜の敵なのだ。敢えてここに掲げる英霊の前にわ
れわれは襟を正して”米鬼撃滅”を誓おう>(昭和19年8月11日)
さらには、
<我が勇士の遺骸が、こんな姿で我々の目に触れようとは夢想だにしなかった。必ず、この仇討つぞ。
こんな手合に人道だ何だといっても始まらぬ。もう米英に関する限りそれこそ徹底的に報復を加えねば止ま
ぬぞ。
支那事変を速かに処理し、全力、全憎悪を米国に向けよ。米兵に対しては、もはやなんら仮借する(許す)必
要はない>(同年8月13日)
という具合だ。
そして、朝日新聞の常軌を逸した軍国報道は、終戦が近づくとさらに激しさを増す。
敗戦がわずか3週間後に迫った昭和20年7月25日に至っても、
<本土決戦必ず勝つ 敵近づけば思ふ壺 その機掴んでわが戦力爆発 特攻隊に学ぶ>
と、この期に及んで特攻を賛美・推進している。その欺瞞の姿勢は、終戦を察知しながら、終戦前日の8月14日に、
<敵の非道を討つ>
と題する社説を掲げ、
<いかに敵が焦慮の新戦術を実施しようとも、一億の信念の凝り固まった火の玉を消すことはできない。敵の謀
略が激しければ激しいほど、その報復の大きいことを知るべきのみである>
と戦争継続を主張するところにも現れている。
いまだ戦争責任を取らず
その徹底した紙面は見事というほかないが、朝日と覇を争って軍国報道に血道を上げた毎日新聞が、終戦直後に社
長以下、有力幹部が責任をとって続々辞任したのに比べ、朝日は、社主の村山派と反村山派の権力抗争が繰り広げ
られ、実に3カ月を経た11月に両派が退陣するまで、すべてが曖昧にされるのである。
稲垣氏(前出)がいう。
「前述したように、その末に出された『国民と共に立たん』という宣言さえ、軍部に責任を転嫁したものに過ぎませんで
した。そればかりか朝日は戦後今度はGHQに擦り寄り、持ち上げ記事を掲載するようになり、事前に是非読んでくれ
と、GHQに掲載前に記事を持っていくことまでしていたことが、米の公文書に記されています。要するに朝日は、戦時
中は軍部に擦り寄り、戦後はGHQ、そしてやがては中国やソ連という共産勢力に擦り寄って、時代時代に現われる強
い相手を礼賛する報道を続けるのです。変わり身の早さと、強い者にはとことん擦り寄るその姿勢は戦前から一切変
わっていませんね」
元日経新聞記者でコラムニストの井尻千男氏(拓殖大学日本文化研究所長)もいう。
「戦後の朝日にとっては、結局GHQが大本営であり、占領期が終って以降は、中国が大本営になったんです。朝日
はセンチメンタリズムというか感情論だから、GHQや中国の言うことを聞いている方が大衆受けすると思ったんだろう
ね。やがて北京政府や韓国政府の言いなりになり、反日・自虐史観を前面に押し出すようになるんです。そして少しで
も日本の政府要人が北京政府の気に障ることを言おうものなら、すぐにご注進して問題化するという”ご注進ジャーナリ
ズム”を作りあげた。自ら戦争を煽り、礼賛した朝日は日本の近代史を断罪する資格などないはずなのに、GHQや中
国に擦り寄ることによってこれを断罪する側に回ったのです。その無定見さ、臆面もない大衆迎合ぶりは見事というし
かありません」
さて、朝日新聞の言い分も聞こう。
「朝日新聞は、自らの戦争責任を明確にするため、社長以下の役員、編集幹部が退陣し、1945年11月7日の1面
に宣言『国民と共に立たん』を掲載して、国民の側に立った新聞社になることを誓い、以来それに沿った新聞づくりを進
めてきました。戦前の小紙の振る舞いについては、ひとことで総括できるものではありませんが、戦後50年にあたる1
995年の2月以降に連載した、自らの戦争責任を検証する企画記事をはじめ、折々に、検証記事を載せています」(広
報室)
それらが姑息なすり替え記事に過ぎなかったことは前述の通りだ。戦後、日本人としての誇りや気概を失わせること
にひたすら邁進してきた朝日新聞のこれが正体である。
「週刊新潮」平成14年8月29日号より抜粋
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