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私の頭の中の鉛筆

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ちょっとアメリカさん!  今うるさい銀バエいっぱいでしょう?

2015-07-24 12:38:18 | 日記

韓国の本当の歴史の報道は、NHKなど、日本の大手マスコミでさえ、タブーとされている。

19世紀の朝鮮での「白人宣教師」の報告書によると,ソウルにはトイレが無く、糞尿を周囲にまき散らし、
また韓国人は人糞を食べる習慣があるので、家中が悪臭と不潔で耐えられなかったと記している。

また新渡戸稲造や福沢諭吉でさえ、明治維新に韓国を訪問して「朝鮮人は付き合えない民族」と看破している。
李朝末期には、「清」の影響で国民はアヘンに耽り、主な土地は欧米列強の借金の抵当に入り、破綻した。

1910年の日韓併合では、これまでの朝鮮人の悪習である「労働を軽蔑する風習」「奴隷制度」,[父と娘や
兄と妹などの近親相姦の風習」などを禁止し、また「物々交換」の生活も、お金の流通する制度にさせた。
さらに、李氏朝鮮の抱えていた膨大な借金も、日本政府が肩代わりして全額返済した。

また朝鮮全土には、まともな道が 無かったので、大規模なインフラ整備を行い、たった35年の短い併合期間
ではあるが、朝鮮半島全体に道路網や鉄道を建設し、更には水道が無かったので、それも全土に普及させた。
さらには、韓国には、もはや禿げ山しか残されていなかったが,植林で緑の山に変えてやり、荒れ地も
豊かな水田にしてやった。そのため生活も改善され、韓国人の平均寿命も2倍に増えた。

また朝鮮人の90%以上が、字の読み書きが出来なかった(文盲)ので、「義務教育」を導入した。
しかし朝鮮人は「朝鮮国民に圧政と奪略の限りを尽した李氏朝鮮一族」はとがめずに「救い主」の日本人を、
陰では「いまわしい倭猿」呼ばわりしてあざ笑い、さらに逆恨みした。

また日本に来た韓国人は、主に貧困の「済州島」からの密航者であるが、強制連行されたとウソづいている。
当時の朝鮮人は不潔で、風呂の習慣がなく、ニンニク臭と悪臭が強烈で、清潔好きな日本人からは嫌がられた。




1945年、日米大戦で無条件降伏した時、日本中が無法地帯になり、5年間のアメリカ占領期間中、それまで
乞食同然の姿の在日朝鮮人たちは豹変し、 徒党を組んで日本人を襲い、強姦や強盗惨殺をし、土地家屋や
日本戸籍まで奪い(背乗り)、急に財をなした。
更には、その資金で独占的なパチンコ経営や「民団」「朝鮮総連」など在日朝鮮人を守る活動団体を結成した。

アメリカは自分の国益のため「軍事国日本」を解体し、在日朝鮮人の凶悪犯罪を捜査や逮捕もせずに黙認した。
今の韓国では、子供たちは捏造歴史による反日教育で洗脳され、親日家は袋叩きにあい、一人も生き延びれない。

これは・・何新聞ですか?

2015-07-24 12:27:59 | 日記




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朝鮮は人並みになったが、東北は見放されていた。と聞いた

2015-07-23 22:51:02 | 日記



>>「支援しても感謝はなし」 韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”

そもそも1965年に日本と韓国の間で日韓基本条約を締結した際に、「解決金」という名の莫大な賠償を求められた。
日本の植民地支配による個人の未払い賃金を含む一切の対日請求権を放棄する代わりに、無償で3億ドル、有償で2億ドル、
民間借款3億ドルの総額8億ドルの資金援助を提供した。




>>2015年4月21日

 日本のチベットと言われる岩手県の…。

 こんな言葉から始まる大牟羅良(おおむらりょう)(1993年に83歳で死去)の「ものいわぬ農民」(岩波新書、58年)は、戦後岩手の貧しさと後進性を全国に知らしめた。地元には批判も多い「名著」だが、農村の人々と共に新時代をつくり出そうとした大牟羅とその仕事に、東日本大震災後の今、再び光が当てられている。

 戦後、満州から復員した大牟羅が生活のために始めたのは古着の行商だった。そこで出会ったのは、「家制度」の下で声も出せない農家の嫁や、結婚できない次男、三男。「死ぬのを待っているばかりでがんす…」。こう嘆く老人たちだった。


>>昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した[要出典]。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。[



>>    真下紀子視察レポート

戦後になっても、豪雪のため冬期交通は確保できず、老人は健康を壊してもお金がかかるため医療を受けられず、昭和30年には赤ちゃんが1,000人生まれたうち70人の割合で死ぬという、乳幼児死亡率が最も高い地域でした。生活扶助率は10%を超えていました。

豪雪・貧困・多病で苦しむ沢内に昭和32年(1957)に誕生した深澤晟雄村長が住民の命を守る行政の実現に尽力しました。

深澤村長は「いまの世の中は生命さえ商品扱いであります。生命の商品化は絶対に許されません。人間尊重、生命尊重こそが政治の基本でなければなりません。
 沢内村の野蛮条件の解消こそが、すべての行政に先んじて行われなければならない。生まれた赤ちゃんがコロコロ死んでいく。月ロケットが飛ぶ時代に雪道をテクテク歩かねばならんなど全くの時代錯誤」とのべ、国の圧力にも負けることなく「本来命を守るのは国の責任です。