まあまあと、エクセレント
「もうかりませんな」「あきませんな」というのが、問屋や小売店の挨拶になっているらしい。こんな挨拶がどこまで本音を言っているのか、日本は、その辺がどうも曖昧なのだが最近はかなり本音に近づいていることは確かである。
なにかに日本人と西洋人の表現の違いを書いていたのをメモしてあったので紹介する。
日本人が「まあまあです」という場合は、西洋人なら「エクセレント」と言う。
エクセレントは、卓越した、すばらしい、優れた、と言った意味がある。
「まあまあ」は、優れた成績であることを、あからさまに言わず、謙遜したものであるが、言葉の裏に、十分な満足感がある。
「なんとかやっています」になると、優秀ではないが、そんなに心配するほどのことはないと言う意味になるが、やはり「普通以上の成績は上がっていますよ」的、含みを感じさせる。
西洋人は「ベリ-グッド」と言う。
この2例でみると日本人は必要以上に事実をひかえて言い、西洋人は逆に誇張するらしい。
「さっぱりです」は「グッド」であり、「とてもあきません」は「ファイン」である。日本人の間だと「うちはすごく好成績だ」などと言えば、すぐ「あの野郎、いい気になりゃがって」と反感を持たれるのがオチだし、あるいは「あんなことを言うのは危ないからじゃないか」と疑われかねない。
西洋人だと「あきません」と言おうものなら額面通りに解釈されて、誰も相手にしなくなるのだそうである。
それにしても、最近の「もうかりません」「もうからなくなった」を額面通りに受け取るか、謙遜と取るか、その辺の境界が、だいぶんあやふやになったことは認めざるを得ないが、それよりも「もうかりません」とか「もうからなくなった」とか自分の責任ではないような言い方をするのが納得できない。
自分の経営のあり方に対する反省が、もっと強烈になったら、もうからぬ理由を他人のせいにはするまい。
「ろくに従業員の教育もしないでいて、得意先を取られると、すぐ値引きで負けたようなことを言う。値引きを理由にするのが一番やさしい。
それだけならその店だけのことだが、間抜けな経営者はそれを真に受けて、公式の場で問題にしようとするから、ややこしくなる。」
断っておくがこれは私の野次馬的評言ではない。
「物を売る前に自分を売れ」と言う。
ところが、たいてい、自分の売り方を知らない。
逆に、買い方を心得ぬ人もいようが、ともかく、売り方を知らないのでは話にならない。
自分の売り方を知らない分だけ、値引きが多くなるという図式も成り立ちそうである。繰り返すが、そのようになる原因は、経営者の無能であり、教育力不足である。
国は外敵によって滅ぶことはない、内部から崩壊するものである。と言うが、
過去の企業倒産も、ほとんどすべてがそうである。
この辺で、もっと己を見直してはどうだろう。
さて、非価格競争の知恵とは?
物には価値があり、その対価を払い自身の所有にした時、満足するか否か。
物を買うのは、どこでも自由だしいくらで買うかも買い手の自由。
こんなに物があふれかえっている世の中で、また社会も複雑多岐に渡っていて
1人10色(1人の人間がその時々により,変わった価値観を持つ)の時代に、いかに商品に付加価値をつけるかが問われている。
「品を売る前に自分を売れ。
店(おたな)はお客様からの預り物だよ。
お客様に自分で品の良し悪しを判断して頂くためのお手伝いをしなさい。」
今は無き、祖父の声が聞こえてきた。
「もうかりませんな」「あきませんな」というのが、問屋や小売店の挨拶になっているらしい。こんな挨拶がどこまで本音を言っているのか、日本は、その辺がどうも曖昧なのだが最近はかなり本音に近づいていることは確かである。
なにかに日本人と西洋人の表現の違いを書いていたのをメモしてあったので紹介する。
日本人が「まあまあです」という場合は、西洋人なら「エクセレント」と言う。
エクセレントは、卓越した、すばらしい、優れた、と言った意味がある。
「まあまあ」は、優れた成績であることを、あからさまに言わず、謙遜したものであるが、言葉の裏に、十分な満足感がある。
「なんとかやっています」になると、優秀ではないが、そんなに心配するほどのことはないと言う意味になるが、やはり「普通以上の成績は上がっていますよ」的、含みを感じさせる。
西洋人は「ベリ-グッド」と言う。
この2例でみると日本人は必要以上に事実をひかえて言い、西洋人は逆に誇張するらしい。
「さっぱりです」は「グッド」であり、「とてもあきません」は「ファイン」である。日本人の間だと「うちはすごく好成績だ」などと言えば、すぐ「あの野郎、いい気になりゃがって」と反感を持たれるのがオチだし、あるいは「あんなことを言うのは危ないからじゃないか」と疑われかねない。
西洋人だと「あきません」と言おうものなら額面通りに解釈されて、誰も相手にしなくなるのだそうである。
それにしても、最近の「もうかりません」「もうからなくなった」を額面通りに受け取るか、謙遜と取るか、その辺の境界が、だいぶんあやふやになったことは認めざるを得ないが、それよりも「もうかりません」とか「もうからなくなった」とか自分の責任ではないような言い方をするのが納得できない。
自分の経営のあり方に対する反省が、もっと強烈になったら、もうからぬ理由を他人のせいにはするまい。
「ろくに従業員の教育もしないでいて、得意先を取られると、すぐ値引きで負けたようなことを言う。値引きを理由にするのが一番やさしい。
それだけならその店だけのことだが、間抜けな経営者はそれを真に受けて、公式の場で問題にしようとするから、ややこしくなる。」
断っておくがこれは私の野次馬的評言ではない。
「物を売る前に自分を売れ」と言う。
ところが、たいてい、自分の売り方を知らない。
逆に、買い方を心得ぬ人もいようが、ともかく、売り方を知らないのでは話にならない。
自分の売り方を知らない分だけ、値引きが多くなるという図式も成り立ちそうである。繰り返すが、そのようになる原因は、経営者の無能であり、教育力不足である。
国は外敵によって滅ぶことはない、内部から崩壊するものである。と言うが、
過去の企業倒産も、ほとんどすべてがそうである。
この辺で、もっと己を見直してはどうだろう。
さて、非価格競争の知恵とは?
物には価値があり、その対価を払い自身の所有にした時、満足するか否か。
物を買うのは、どこでも自由だしいくらで買うかも買い手の自由。
こんなに物があふれかえっている世の中で、また社会も複雑多岐に渡っていて
1人10色(1人の人間がその時々により,変わった価値観を持つ)の時代に、いかに商品に付加価値をつけるかが問われている。
「品を売る前に自分を売れ。
店(おたな)はお客様からの預り物だよ。
お客様に自分で品の良し悪しを判断して頂くためのお手伝いをしなさい。」
今は無き、祖父の声が聞こえてきた。