本を読んでも、なにを書いてあったか、すぐ忘れてしまうが、それでも、なにかは残るだろう、とあまり頼りにならぬ事を当てにしているが、なにかの拍子に、その断片のようなものを思い出すから、まるまる無駄でもないらしい。
いま不意に頭に浮かんできたのは、中国料理に蚊の目玉料理があるという話。
書いた人も食べた事がないらしいから、真意のほどは分らないが、蚊の目玉をどうして集めるのか、おそらく1コが○コンマ何ミリしかないであろう蚊の目玉を、食膳にのせるだけで集める、気が遠くなるような話ではないか――と誰しも考える。ところが、案外簡単なのだそうだ。
人間の手で蚊を捕え、1匹づつ目玉を採るなどは、到底できることではないが、その作業をやってくれるのがコウモリで、夕方、コウモリを捕えて腹を割くと、消化されぞこなった目玉がごっそり採れるのだ、と書いてあった。
この話、うまい手段が見つかれば、不可能を可能にすることを教えてくれているようで面白い。少なくとも、出来もしないことを出来るような顔をして、真面目くさって論議する人達よりも、蚊の目玉のほうがずっと現実的である。できもしないことを、と書いたのが書きすぎだとすれば、やろうと思えば簡単にできるはずのことが、と訂正してもよい。ただし、それがなぜ出来ないのか、と付け加えなければなるまい。
たいていの場合、本音と建て前は相反するが、建て前はいつも本音を隠すために持ち出される。建て前に最大公約数的普遍性があるのがくせ者で、これを持ち出されると、もはや反論の余地はない。逆に、本音は1とか3とか5、7のような公約数の求めようもない性格をを持っていて、いくら議論しても噛み合わない。
これでは、たとえ建前論で合意しても、本音つまり実行につながらない。それが分っているから建前論を振り回すのであろうが、なぜもっと本音をさらけ出さないのであろう。本音をさらけ出して、噛み合わない部分をはっきりさせなくては、問題解決への前進はあるまい。
こうすべきだから私はこうする、というものをなぜ出さないのであろう。こうすべきだ、というのは本音であるし、また誰しも本音を持っている以上、私はこうするという方針がついてくるはずだが、なかなかそれが出てこない。これは本音なり方針なりが、目先だけのもので、その上に絶対に「長期」なり「大」なりの文字が付かないものだからだと言って良い。
これでは建て前を出すほかはない。それに、ほとんど誰にも共通して、会場の空気を乱すまいとする性癖がある。会議を紛糾させることは悪であり異端者だとされる。そればかりではない。大勢に随ってさえいたら、どんな結果が出てきても、それに対して責任を感じる必要はない、というずるさがある。
自分自身も、会議では建て前での参加で臨むことが多い事を猛省させられる。
ふと恩師の言葉が降りてきた
「君子は和して同せず 小人は同じて和せず」
いま不意に頭に浮かんできたのは、中国料理に蚊の目玉料理があるという話。
書いた人も食べた事がないらしいから、真意のほどは分らないが、蚊の目玉をどうして集めるのか、おそらく1コが○コンマ何ミリしかないであろう蚊の目玉を、食膳にのせるだけで集める、気が遠くなるような話ではないか――と誰しも考える。ところが、案外簡単なのだそうだ。
人間の手で蚊を捕え、1匹づつ目玉を採るなどは、到底できることではないが、その作業をやってくれるのがコウモリで、夕方、コウモリを捕えて腹を割くと、消化されぞこなった目玉がごっそり採れるのだ、と書いてあった。
この話、うまい手段が見つかれば、不可能を可能にすることを教えてくれているようで面白い。少なくとも、出来もしないことを出来るような顔をして、真面目くさって論議する人達よりも、蚊の目玉のほうがずっと現実的である。できもしないことを、と書いたのが書きすぎだとすれば、やろうと思えば簡単にできるはずのことが、と訂正してもよい。ただし、それがなぜ出来ないのか、と付け加えなければなるまい。
たいていの場合、本音と建て前は相反するが、建て前はいつも本音を隠すために持ち出される。建て前に最大公約数的普遍性があるのがくせ者で、これを持ち出されると、もはや反論の余地はない。逆に、本音は1とか3とか5、7のような公約数の求めようもない性格をを持っていて、いくら議論しても噛み合わない。
これでは、たとえ建前論で合意しても、本音つまり実行につながらない。それが分っているから建前論を振り回すのであろうが、なぜもっと本音をさらけ出さないのであろう。本音をさらけ出して、噛み合わない部分をはっきりさせなくては、問題解決への前進はあるまい。
こうすべきだから私はこうする、というものをなぜ出さないのであろう。こうすべきだ、というのは本音であるし、また誰しも本音を持っている以上、私はこうするという方針がついてくるはずだが、なかなかそれが出てこない。これは本音なり方針なりが、目先だけのもので、その上に絶対に「長期」なり「大」なりの文字が付かないものだからだと言って良い。
これでは建て前を出すほかはない。それに、ほとんど誰にも共通して、会場の空気を乱すまいとする性癖がある。会議を紛糾させることは悪であり異端者だとされる。そればかりではない。大勢に随ってさえいたら、どんな結果が出てきても、それに対して責任を感じる必要はない、というずるさがある。
自分自身も、会議では建て前での参加で臨むことが多い事を猛省させられる。
ふと恩師の言葉が降りてきた
「君子は和して同せず 小人は同じて和せず」