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C♪Garden

あせらず、あわてず、あきらめず

怠惰と無意識と考えるという事。

2013-06-13 22:35:46 | コラム
ここの所、新しい環境には結構飲み会等が多くて既に慣れたのですが
自分でも何だか今までが今までだっただけに少々Lazyな自分がいます。

人生の中で、実際に体調が悪くて仕事や学校を休んでしまった事もある人も
いらっしゃるかと思いますが、何となく行きたくないなぁとかうっかり寝坊
してしまって、どうせだから休んでしまえという経験のある人いるかと思い
ます。

そんな時、なんで自分はそういう行動をしたのだろう?と考えてみると
単純に普段から夜更かしをしていて起きれずに…という場合でもそれに
至る理由はあるかと思うんです。

それまで真面目にしていた人が、ある日を境にそうでなくなってしまう。

これについては本来期待していたものに裏切られたり、手にする事が当然の
事として認識されていたものがそうでなかった。根源に「失望」という要素
がわずかでも存在していたのではないか?と思うんです。

そうだとしても反社会的行動や非社会人的行動は、理由はどうあれ良い訳
にしかならないのもまた事実であり甘えだと言わざるを得ない。


けれども、このストレス社会と一口に言ってしまうのは簡単ですが、過去に
書いた様な覚えがなくはないですが、人はそれぞれ走るペースは違うものの
時に走り続けて、走り疲れている事に気付かせる為の潜在意識からのSOSで
ある可能性もまた否定出来ない事と思います。

よく言われれる五月病が良い例でしょう。

私も、過去にハイペースで走ってきて環境が変わってもそれを感覚的に変える
事が、どこか手を緩めるような気がしてしまって自分自身を休ませてあげたり
いわゆる「ぼーっとする時間」を持たず、自己を省みる時間すら惜しむように
仕事、趣味、勉強とどこか悪い言葉のように聞こえるようになってしまった
「ゆとり」というものがみな必要な気がします。

言い方を変えれば「余裕」がなければ、いつも張りつめていて誰かを許す所か
自分自身すら許せなくなってしまう危険な感じすらします。

それはいつも100点でなければ意味がない、100点でなければ価値がないと
思い込んでいる完璧を求める自分がいるからなのでしょう。
誰が何と言おうとこの世の中は(日本だけでなく)紛れもなく競争の世界です。

だけど、そんな世の中でも自分はたった一人ですし、今は見えなくても手にして
いなかったとしても大切なものきっとあると思います。

だから、たとえ自身が冒頭に述べた様な状態にある時というのはきっと考える
時間をもって自己を省みたり、これからを考える必要がある時なのではないか
と思えるんです。

人は何の為に生きているんだろう

2011-06-19 21:50:57 | コラム
ここの所、平日は仕事して土日はだらだらしたりゲームしたり走ったりと
疲れてたりすると何か仕事も行くのがかったるくなって来たりというか
むしろ行きたくないなぁ。休みたいなぁなんて思ったり。

仕事があってそれに従事できて、普通に生活がおくれているっていうのは
それは人それぞれに大変な事も抱えているかと思うんだけれども、そうして
同じ様な生活を繰り返して、自分の意識の高さに負けそうになって精神的にも
疲れてしまう様な感じになっていると、何の為に生きているのかなぁ?って
思ってしまいます。

社会人として生活するようになって、私はもう10年超えていますけど転職した
事もあって色々と辞める前に思っていた事や、新しい所に入ってから思う事
様々にあります。

だけど、そうやって気持ちがなんだか落ち着いていなくて、わさわさしていると
自分との会話が足りてないんだなぁと思うんですよね。
自分の事を考えて、今の気持ちだったり心の状態、自分をとりまく環境の状態
そのなかにいる自分はどういう状態なのか?
心も体も含めて、メンテナンスって言うとちょっと違うのかな。

これからこの先の、、、なんて事を考える前に今の自分。だけど、今の自分から
続くこれから先の、、、な訳だから他人は関係ないんですよね。

時折、あの人はこうだけど私は?とか、あの人はこうだけど私はまだ大丈夫とか
結局そういうのは関係ないんですよね。他人と比べてそれに憧れてなりたい物を
発見したり、気づいたりして答えをみつけるきっかけにするのは良いのだけれど
何だか前にもこれにも似た話をしたような気がしなくもないけど。。。

そうそう、ちょっと書きたいテーマと自分の気持ちとがまざった文章になって
しまいましたが、人は幸せのために生きてるって聞きますけど、確かにそうで
生まれて来たからには幸せになりたいですもんね。

だけど、この幸せっていう表現が私的にはどうにも生きていくのにぼやけた
ニュアンスの言葉であると共に、意味合いがちょっと都合よくとらえられがち
なので、だって傍からみたら幸せそうなのに本人はそうじゃないってあるじゃ
ないですか?高校生の時に、学校の先生から「結局人間は幸せになる為に生きて
るんだ」って話を聞かされた時は、なんだか答えを先に言われてしまった気がして
ちょっと残念気味に思ってたんですけど、最近になってちょうど私がその当時の
先生と同じ年齢になって、確かにそうだけど私なりの言葉にするとこうかなって。

人間は自己満足の為に生きてるんだなって。

こうすると幸せって言葉がはっきりすると思ったんですよね。そもそも幸せって
海の幸とか山の幸って事って話も聞いた事があるし、でも幸せっていうと感謝が
あって始めて完成される瞬間だと思うんですよね。

この自己満足っていうのも瞬間的なものなんですけど、何かを達成した時、他人に
認められた時、誰かに喜んでもらえた時。あくまでそれは長く続くものじゃなくて
瞬間でしかないんですよね。それで、その瞬間を味わいたくて色々な事をしている
んじゃないのかなぁって。

利己的であろうと、利他的であろうと、幸せという言葉を使わなければとても範囲や
その深度は違うけれど、人は自己満足の為に生きていると言える気がします。

幸せってほら、こういう状態は幸せなんだって思い込まされちゃってる部分て結構
あると思うから、だから自分にとってその瞬間を感じられるのはどういう環境で
どういう事なのかっていうのを知る事が、その「幸せ」っていう触れる事の出来ない
青い鳥なんじゃないですかね。

だから、私はやっぱり週に一度部屋を掃除するように、週に一度とは言わなくても
時々こうやって自分と向き合って、何かをするんじゃなくてゆったりと好きな音楽を
かけながら自分の心の声と、迷ったときはお腹の声を聞いて、続く明日へと進む為の
物思いにふけったりする時間と、考える時間と、ぼーっとする時間が大切なんです。

恋の3K

2010-07-17 22:29:55 | コラム
最近、ブログのネタを思いつくものの、書きたいテーマがあるけど
書いている時間もそうだけど、書こうという気分にならないでいると
あっという間に更新が滞ってしまいます

それで、本題なのですがちょっと「恋愛」について書いてみようかと。

私自身、大層な事が言えるほど経験値は多くないのですが、ここの所で
感じた事思った事があります。

恋愛におけるというか、普段の事にも言えるのかもしれませんが、人と
会う時って言うのは初対面の時はもちろん、異性と会う時っていうのは
人間多少なりとも(無意識にも)緊張する人が多いと思います。

そうした時に、人は多少本当の自分はある程度に抑えて程々に振舞うか
完全に演じて本来の自分とは別の人間を演じてしまう方もいらっしゃる
のかもしれません。

もし、演じたり、相手の好みに合わせて振舞ったりしているのは流石に
いつか限界がくると思うので、徐々に本来の自分を見せて行くのだと
思いますが、それっていうのは誰しも自分の事を好きになって欲しいと
言う所から来る行動な訳ですよね?

つまりは本当の自分を好きになってもらいたいから。

であれば最初から素直にありのままの自分でいた方が、変に演じるよりも
きっと本当の自分を見てもらえるんじゃないかなって思うんですよ。

本当の自分でいて合わない人は結局合わないし、演じて上手く行って付き
合えたとしても、結局疲れてしまって、すぐに終わりが来てしまうような
気がします。

そこで考えついたのが「飾らない」「気取らない」「格好つけない」の
三つのKです。

ありのままで、素直な自分で、無理をしないという、ごくごく単純な事です。

単純と言いつつも、意外と難しかったりするのかもしれませんが、これは
精神的な意味合いであって、ファッションを気にしないとか、スマートさが
無くても良いとか、気遣いが無くても良いとかそう言った事ではないので
誤解の無い様に。

けれど、こうやってこの3つのKが出来る人間でいて、人間的な魅力が
あれば(ルックスだけじゃないく、何かに打ち込んでいたり、頑張っている
何かがある姿という意味で)良い出会いがあった時に、上手く行く可能性が
高いんじゃないのかな?っと思うのですが、みなさんはいかがですか?

「純」という事

2010-06-26 23:09:43 | コラム
ここの所、友達と相談したりしている中で「純」でいる事、それを
私なりに考えてみました。(ここで言うのは純粋って意味です)

大人になる事と、純でいる事っていうのは中々難しい様に思えるんです。

いわゆる大人になるって言うと変にドライになってしまって、あまり感情に
振り回されないという意味では非常に楽だと思います。かといってそれが
いけないという訳でもないんですよ、むしろ場面によっては感情を抑えて
冷静になって判断したり、行動しなければならない事がありますけど、何と
なくですが、そういった大人の行動と純とはまた違うなと。

純でいるって事は、ある意味で自分の気持に素直でいるって言う事だし
我侭とは違うんですよ。だから時として非常にしんどかったり、総じて
生き辛いと思います。そういう人にとっては形容すれば生きるのが不器用
だったりするんじゃないでしょうか?

だから傷つく事も多いと思いますし、吉行淳之介さんていう作家さんが
言っていた言葉ですが「それは激しく傷つくという事は、傷つく能力が
あるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と
鋭い感覚である」

だから、そうでない人はきっと同じ事でも何も感じないのかもしれません。
逆に、色々な事で傷ついたり、辛さや痛みをしるからこそ心豊かな人間に
なれると思いますし。乗り越えた数だけ、なによりもの凄く魅力的な気がします。
だから些細な事にとらわれるのではなく、些細な事でも幸せを感じられるという
事が大切なんじゃないかなって思います。

ともすると、自分を責める方向にそれが向いてしまうと危険ですけど
美輪明宏さんの言う「頭は冷たく、心は熱く」と言った所でしょうね。
(頭は冷静でいて、心はぬくもりを忘れないといった意味だったと思います)

本当はきっと誰もが心の中に純粋な部分を持っているはずなんです、だけど
それを表に出してしまったり他に見せてしまうのは、時として弱い人間だと
思われてしまうから難しいんですよね。

けれど、私は私っていう人間を諦めるっていう事はできないじゃないですか?

だって、今辛い状況にあったとしてもそれが永遠に続く訳ではないですし
嫌だったら一旦、置いても良いと思うんです。それで客観的に感情を無しにして
難しいけど自分がどうしたいのか、どすうるのが自分が後悔がないのか。
そういう風にして純粋な部分を無くさずに生きて行けたらきっと大きな喜びが
待っていると信じて生きて行きたいと思いませんか?

「いい歳して」とか、「もう○○なんだから」と大切な何かを手放して
しまうのは、気恥ずかしさだったりするのかもしれませんが、自分の中の
純粋な所、きっとしなやかに強くなれるはずです。

だからこそ、私自身も変に大人になってしまいませんように。
辛いのやしんどいのは、人それぞれ誰もきっとそうなんですから。

「静」の時期と「動」の時期

2010-06-08 22:56:39 | コラム
考え過ぎる性格そういう私と同じ様なタイプの人っていると思います。

学生の時、特に高校生や専門学生、大学生、大体16歳位から22歳位の間って
私にとってはものすごく色んな事を考える時期でした。

初めは「考える」って事自体がなかなか良く分からず、とにかく迷って悩んで
答えを求めるでもなく、今思うと、ただ自己中心的な想いだけにとらわれていた
様な気がします。

だけど、少しずつ少しずつ大人になって行く内に、「強さ」ってなんだろう?
「優しさ」ってなんだろう?って、そういう事に疑問を持つようになって
「人生」ってなんなんだろう?「大人」って何?

本当に色々な事を考えて来たなと思います。

それぞれに、その時々で自分で考えたなりの答えは見つけられたんだけど
未だに分からないというか、「大人」っていったいなんなんだろうねぇ?
誰もがそんなに立派な訳ではないという歌の歌詞もあったりしますし
詩人の中には、人は大人になりつつある存在だと言う人も在りました。

だけど最近思うのは、悩んで考えすぎていたからと、社会に出てからは
あえて考え過ぎない様にその時々で考えて、普段はあまり考えない様に
して過ごして来たんだど、それもちょっと違うのかな?と思うんです。

確かに、誰だって考えながら生きているし、生きている以上は悩みの無い
人間なんていない訳でね。

それでもやっぱり「考えなければならない時期」っていうのがある様な
気がします。例えて言うなら「静」の時期と「動」の時期っていう風に
分けるなら「静」の時期がそれにあたるんじゃないのかなとね。

これっていうのは、仕事の悩みだったり、プライベートな事だったり
様々なんだけれど、私がここで言いたいのは「自分自身を考える」って
いう事なのね。昔聞いていたラジオの中で「人はどこにいたとしても
ともすれば惰性に陥ってしまう」仕事を変えても、新しい事を始めても
それはきっと誰しもに言える事で、だからこそ「静」の考える時期って
言うのが必要なんだと。

今はこういう時代だからと、環境や誰かの所為にしてもなんの意味もないし
やっぱり自分に厳しく生きて行かなければ、自分を好きにはなれないし。

誰かの評価や社会的に評価される事も大切かもしれないけど、自分の中で
何をしたいのか、何をモットーとして生きて行くのかそういう事をここで
社会に出て10年ていう月日が経ったのだから、これから先の5年、10年を
生きていく為にも、20代の不器用さとは違う良い意味での30代の器用さと
もちろん忘れてはいけない自分の中の変わらない想いというのが、きっと
あるはずなのだと思うしね。

こういう、いわゆるクサイという様な事を言える風潮が希薄になっている
時代だからこそ、あえてね自分自身の為にも声にだしてみるんです。

私が高校生の頃には、ハートビートナイトっていう素敵なラジオ番組が
あって、そこではこういった心の声がいつも届いていたんですけどね。
ただ面白ければ良い、数字がとれれば良いっていう会社の流れに流されず
もちろん、特色はあるだろうけれどポリシーをもったDJの方の、あの時の
様な番組、こういう時代だからこそ必要なんじゃないかなって思います。

最後ちょっと脱線しちゃいましたね。

社会の中で流されずに生きていくって、もの凄く大変な事だし本当に
覚悟のいる事ですけど、せっかく生きているんですもの自分らしい
生き方して行きたいですよね。そんな自分は今は「静」の中に居ます。