国を思うて何が悪い

国を愛することはなにもはずがしがることではないはずです

日教組VSプリンスホテル

2010-08-17 08:21:02 | 日記
平成20年の日教組の教研集会が中止になった出来事である。

当時マスコミで騒いだので詳しい説明は省略させていただく。


日教組の当時の言い分は以下のとおりである。

今回のグランドプリンスホテル新高輪の会場使用拒否は、
1 主催者日教組と集会参加予定者の憲法で保障する「集会表現の自由」を蹂躙し、理不尽な右翼の策動が目的を達したことになったばかりでなく、
2 今後も同様な裁判所の命令を無視して会場使用を拒否する事例が増え、会場使用契約自体を拒むという最近の重大な傾向と相まって、右翼に睨まれるものは集会を一切開催できないという、表現の自由なき社会が招来されかねず、
3 事態はこれに止まらず、どんなことでも「裁判所の命令を無視して構わない」という風潮作出を助長し、現代社会における「司法によって紛争を解決する」という最低限の社会的ルールが破壊される恐れすら出てきます。

 よって、私たちは今回のホテル側の態度を許すことは決して出来ません。
 私たちは、ホテル側に対し、
・主催者日教組と参加予定者および社会に謝罪すること
・日教組より次回の会場使用申込みがあったときには受諾すること
・日教組と参加予定者に対し今回の事態に対する十分な償いを行うこと
・表現の自由を尊重し今後同ホテルはもちろん全国の系列「プリンスホテル」において二度と同様の態度を取らないこと
・この申し入れに対し誠実に回答すること
以上を要請します。

なお、誠実な回答がない場合には、今後、同「東京品川のグランドプリンスホテル新高輪」はもとより、全国の系列「プリンスホテル」での宿泊・使用を止めるよう日本と世界の民衆と企業・団体に呼びかけることも辞さないものです。

上記の文面これじぁただの脅しであり、やくざや街宣右翼、極左過激派やエセとなんら代わり映えが無い。

本当に教育者なのかと思わせる、脅迫文である。このようなチンピラ教師に教わる子供たちの未来はどうなってしまうのであろう。

この事件はまだ続いていたようで、今朝の読売に掲載されている。

日教組の教師たちを宿泊させなかったことに対してプリンスの経営陣2人は不起訴となった。その判決に対して日教組は東京第一検察審査会に6日付けで審査の申し立てを行い受理された。

日教組も全教もどちらの教師たちは自分たちが教研集会を開催すれば右翼団体の街宣車が多数くることは分かっているはずだ。それなのに自分たちの主義主張のためならば近隣に迷惑を掛けてもいい。もっと言えば集まる右翼が悪いと言っているようだが、小生からすれば街宣車の音を無くすのは、授業を自習に変更して、毎年各地の観光地で教研集会という名の観光を楽しんでいる教師たちのほうがどうなのかと思う。

駐韓日本大使に投石した市民団体代表、懲役4年求刑

2010-08-17 08:01:50 | 日記
(ソウル=聯合ニュース)イム・スジョン記者=ソウル中央地検刑事3部は16日、重家俊範駐韓日本大使にコンクリート塊を投げつけた容疑で拘束起訴された「私たちの広場(ウリマダン)・独島守護」代表金基宗(キム・ギジョン)被告(50)に懲役4年を求刑した。

検察はソウル中央地方法院刑事合意35部審理で開かれた公判で「キム被告が特別講演会中、
資料を渡すふりをして壇上に接近し、重家大使にコンクリート塊2個を投げた行為には重刑求刑が避けられない」と明らかにした。

キム被告は「'竹島'表記を削除してくれという内容等を含んだ文書を渡すために大使のそばに出て行く途中、進行要員の過剰鎮圧によって阻止されたので、すぐに偶発的に壇上に向かって投げただけで大使を狙ってはいない」と述べた。

キム被告は先月7日午後7時20分頃、ソウル中区プレスセンターで開かれた日本大使招請特別
講演会の途中、重家大使に直径約10㎝と7㎝大きさのコンクリート塊2個を投げた容疑(外国使節暴行)で拘束起訴された。

キム氏に対する宣告公判は30日午後2時に開かれる。

海外在任の日本の大使館員に対しての野蛮な行為、いくら国が違い文化が違っていても人に対して物を投げるのは卑劣な行為であるには違いない。もしこれが日本での出来事で駐日韓国大使館員に同じ事をしたならばどうなるのか?韓国は騒ぎ立て駐韓日大使館にデモや投石などをするのであろう。
主義主張をとおすのは良いが、これでは過激派となんら変わりないのではないのだろうか?

終戦記念日:話すことが責任 中国人捕虜刺殺、私が命じた

2010-08-17 07:58:13 | 日記
終戦記念日:話すことが責任 捕虜刺殺、私が命じた 90歳元日本兵、口開く

 ◇無知で理性失った 伝えておかないと再び戦争に向かう

 終戦から65年を迎えた15日、和歌山県の元日本兵(90)が、中国人捕虜を刺殺するよう 部下に命じた経験を初めて語った。兵隊の訓練のためにやむを得ないと自分を納得させてきたが、「むごいことをした」との思いが消えなかった。90歳の今、「人に伝えておかないと、世の中が再び戦争に向かう恐れを感じる」と、取材に対し口を開いた。【久木田照子】

 20歳だった1941年3月、中国南東部の江西省に出征した。進軍する中で、現地住民らにニワトリや卵の提供を強いたこともあった。「中国の人を救うための聖なる戦争と教えられてきたが、本当にこれでよいのだろうか」。疑問を感じながら、銃撃戦をしたり、上官に素手や革ベルトで殴られる日々を過ごした。

 伍長だった43年春、新たに兵役に就いた5人ほどの部下に25歳ぐらいの捕虜の男性を
銃剣で刺すよう命じた。戦闘で度胸をつけるために必要だと考えた。捕虜の処遇を定めた国際法の規定も教えられていなかった。

 捕虜は後ろ手に縛られて引き出された。部下は1人ずつ約10メートル走って胸を突き刺した。殺されると察知した捕虜の男性は「あー」と大声で叫び続け、刺されて息絶えた。

 帰国後、このことは家族にも話せなかった。「(国際法に対する)自分の無知があの命令を下させたと思う。殺し、殺されるかもしれない戦争で理性が失われていた」と振り返る。08年と今年、市民団体の催しで出征体験を話した。ただ、捕虜を殺させたことについては語らなかった。

 国のため、家の名誉のため、赴いた戦争。「批判する力を持たず戦争に加担した一人として、多くの人とともに反省し、他国との友好関係を築く責任がある」と語る。
成人した4人の孫らにも、体験を語るつもりでいる。

毎日新聞の記事である。

もしこの話が本当ならば、とても残念な話である。
何故なら、伍長とは次に書くような立派な人達と小生思っていたからだ。

明治32年10月25日勅令第411号(同年12月1日施行)により、陸軍武官官等表が改正されて、旧「2等軍曹」が「伍長」と改称された。
伍長(判任官四等)になるには次の3つの過程があった。

次のような経歴を経て兵から進級した者。

 一等卒(昭和6年11月10日以後は一等兵)の中から選ばれて上等兵候補者特別教育を受ける。

 上等兵候補者特別教育を受けた者のうちで適任と判断された者は、上等兵になった。

 上等兵で除隊後も勤務を希望した者は、隊内で1年間教育を受けた。

 更に1年間陸軍教導学校で教育を受けた。

 伍長に進級。進級後は最低4年現役を続ける義務があった。4年間伍長を務めると、軍曹に進級した。

 このような方達が厳しい訓練や次に書く内容のことを教育されているのだ。

上等兵候補者特別教育とは

幹部候補生や士官学校予科修了者は別にして、この課程を経なければ、一般の兵が上等兵になるのは、極めて難しかった。
二年兵以上の者が、内務班長や特務曹長(後の准尉)の推薦を基に中隊長から候補に指名され、上等兵候補者特別教育を受けた。通常より厳しい訓練を受け、普通の兵士には受けられない法規などの学科を学び、修得した。この上等兵候補者からごく一部の試験合格者が、3ヵ月後に上等兵になることが認められた。実際は上等兵の権威付けのために候補者選びの段階では多めに選んだといわれている。
上等兵候補者に選ばれても体力・知力・暗記力に加え「将来は下士官になる」という上昇志向が強くないと、合格者となり上等兵になるのは難しかった。

 1927年以後は幹部候補生、中学校卒業者で乙種幹部候補生の教育を受けた者。平時はそのまま除隊し、予備役に編入された。

 陸軍士官学校予科(後年「予科士官学校」)を修了した士官候補生。士官学校生徒は本科進学の前に6ヶ月間(太平洋戦争末期は2ヶ月間)隊付を経験する義務があった。

 大日本帝国海軍では三等兵曹(1942年からは二等兵曹)がこれに相当した。

以上のような内容から見ても、無知で捕虜を殺したり、理性を失ったりしていたは理由にならず只単にこの老人は当時の自分の犯罪の言い訳をしているとしか思えない。
もしかして、この老人はあの悪名高い「中帰連」かと思うのは小生だけだろうか・・・