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大阪の街の歴史は本願寺の歴史_北御堂ミュージアム 1/9開館

2019年01月15日 | お寺・神社・特別公開

西本願寺(浄土真宗本願寺派)の大阪の拠点寺院である北御堂(きたみどう)に、大阪における本願寺の歴史を紹介する北御堂ミュージアムが2019年1月9日にオープンしました。

  • 日本史形成に多大な影響を与えた本願寺の歴史を40mの歴史絵巻(ガイドウォーク)で徹底解説
  • 現在の大阪の街の原型となった石山本願寺の寺内町をパノラマ模型でリアルに復元
  • 築地本願寺と並ぶ近代名建築の北御堂の魅力も存分に体験


大阪のど真ん中、メトロ本町駅の真上にあります。ちょっとした仕事の空き時間にも瞬間的に立ち寄ることが可能です。大阪の歴史はまさに本願寺の歴史です。



現在の大阪の中心部は、飛鳥時代に四天王寺、奈良時代に難波宮が設けられましたが、その後は都市として大きく発展することは永らくありませんでした。京都や奈良の外港としての機能は、永らく現在の神戸・福原や堺が担っていました。大阪の中心部は京都府・滋賀県・奈良県をつらぬく大河が一斉に海に流れ込む巨大な湿地帯で、土木技術の発達していなかった古代は使い勝手が悪い土地だったのです。

そんな大阪の街に大きな転機が訪れます。本願寺の中興の祖・蓮如(れんにょ)が1496(明応5)年に、隠居所として石山御坊の建設を始めます。現在の大阪城のある上町台地の先端の高台です。御坊の周囲には続々と門徒(もんと、信者)が集まり、寺内町が形成されていきます。1532(天文元)年の山科本願寺合戦で法華宗徒に敗れ京都を追われると、石山御坊を本拠地とし、石山本願寺が成立します。

その後も戦国大名の細川氏・三好氏との抗争は続きますが、それに耐え抜き石山本願寺と寺内町を着々と要塞化していきます。1570(元亀元)年に信長から石山本願寺の明け渡しを要求され、10年続いた石山合戦が始まる頃には日本トップクラスの難攻不落の要塞になっていました。

これが実現できたのは、本願寺が多くの民衆から絶大な支持を集めていたからにほかなりません。全国から続々と人・富・物資が集まり、大阪が巨大都市になる礎を築きます。浅井・朝倉から武田まで、次々と有力大名を勝ち滅ぼした織田軍団は、10年かかっても石山本願寺を落とせませんでした。石山本願寺の実力は普通の戦国大名を上回るようなレベルだったのです。

蓮如は戦国大名や多宗派との抗争に備えて、天然の要害である石山の地に目を付けたと思われます。同時に畿内各所や西国との水運の便が良いことにも気づいていたように思えてなりません。寺内町が急速に発展できたのは、物流の便が良くないと不可能だからです。

大阪の持つこうした地政学的な重要性には、信長や秀吉も早くから気付いていたでしょう。だからこそ強敵との全面戦争のリスクを冒してまで、明け渡しを要求したのだと思われます。その後の大阪の発展の礎は、ひとえに蓮如による”発見”に他なりません。


右側の壁が40mの歴史絵巻

石山本願寺は1580(天正8)年に信長に明け渡され、その後秀吉の命で京都の現在地に本拠を設けます。その後の本願寺の大阪の拠点は、1592(天正20)年に現在の天満橋付近に設けた集会所を始まりとし、1597(慶長2)年に現在地に移転して本格的な伽藍を形成します。北御堂、すなわち津村別院の成立です。この移転は大阪城の拡張のためで、町人地もあわせて移転します。大阪の中心商業地である船場(せんば)の始まりです。

北御堂は通称で、本願寺津村別院が正式名称です。教団が東西分裂したため、互いを区別しやすいよう通称の方が一般的になりました。南北両御堂が同じ道沿いに位置したことから、この道が御堂筋と呼ばれるようになったことはよく知られています。

【公式サイト】 ご紹介した歴史絵巻やパノラマ模型の画像が掲載されています

細長いミュージアムの館内は、右側の壁に延々と、親鸞から現在に至るまでの教団と北御堂の歴史が豊富なビジュアルを交えて解説されています。この歴史絵巻を見ているだけでも大河ドラマを見ているように濃厚です。

中央には石山本願寺と寺内町の復元パノラマ模型があり、戦国時代の大阪の街の様子がとてもよくわかります。大阪は江戸時代までは”大坂”と異なる漢字があてられていました。上町台地に上る坂がその名の由来です。”坂”と言えば江戸、大坂は”橋”というのが、現代にのこる地名からは一般的なイメージです。意外な由来です。

江戸時代から現在に至る北御堂の歴史をほとんど知らなかったこともあり、展示解説は斬新でした。北御堂は、江戸時代には京都の本山に匹敵するほどの大伽藍でした。経済の中心が大阪に移り、参拝する門徒の数は本山並みに多かったことが想像されます。江戸時代を通じて行われた朝鮮通信使の一行の宿舎としても使用されていました。800人が宿泊したということから、伽藍の存在感がよくわかります。

浄土真宗寺院なので塔はありませんが、本堂の巨大な屋根が大阪の街のどこからでも見えていたことでしょう。大阪城の天守閣は1665(寛文5)年に落雷で焼失して以降、昭和まで再建されていません。北御堂と南御堂の巨大な本堂は、江戸時代の大阪の街のランドマークになっていたのではと仮説が膨らみます。

そんな大伽藍も2度、全焼の憂き目にあっています。一度目は1724年の享保の大火です。大阪の街の2/3を焼き尽くした、戦災を除く史上最悪の大火です。10年後に再建された伽藍は引き続き壮大でした。1937(昭和12)年に完成した御堂筋から眺望する伽藍の写真を見ると、現在の京都の本山を堀川通りから眺望する姿に重なるほどの壮大さです。

そんな伽藍も、第二次大戦末期の空襲で二度目の焼失の憂き目にあいます。1964(昭和39)年に再建された現在の本堂は、丹下健三の師で、東大安田講堂を設計した岸田日出刀(きしだひでと)の作品です。築地本願寺のように、オフィス機能を兼ね備え、かつ異国の建築デザインを踏襲した現代建築です。常に時代の波を察知して活動を行ってきた本願寺教団を象徴するデザインです。

北御堂は、大阪の都心のど真ん中にありながらも、見過ごされがちであったことは否定できません。築地本願寺と同じく、北御堂も”すごい”スポットです。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



本願寺からの視点で見た、信長が石山本願寺を落とせなかった理由

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北御堂ミュージアム
【公式サイト】 https://www.kitamido.or.jp/kitamido/kitamido-museum

原則休館日:なし
入館(拝観)受付時間:10:00~16:00



◆おすすめ交通機関◆

大阪メトロ御堂筋線「本町」駅下車、2番出口から徒歩0分
大阪メトロ四つ橋線「本町」駅下車、25番出口から徒歩5分
JR大阪駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:10分
大阪駅(梅田駅)→メトロ御堂筋線→本町駅

【公式サイト】 アクセス案内

※この施設には駐車場はありません。


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