【ディオニュソス】
ニーチェは、無神論ではありません。古代ギリシャの神ディオニュソスを崇拝していたからです。ディオニソスは、従来の価値観を破壊するニーチェ哲学のシンボルでした。ギリシャ神話では、酒と舞踏の神とされています。そのため、道徳的な神ではありません。ニーチェは、凝固した人間的な道徳を否定するために、ディオニソスという用語を使うようになりました。ディオニソスは、自然の生成そのものを象徴する神であり、自然の総体的な性格を表現しているとされています。例えるなら、自然の根底に流れる永遠の音楽のようなものです。その音楽は、始めと終わりがない繰り返しだとされています。
【演劇の神】
ディオニソスの創造力は無尽蔵です。その力によって、全ての現象を紡ぎ、それを全面的に肯定する者とされています。ディオニソスにとって、世界は舞台のようなものです。その舞台上の全てのものは、仮象に過ぎません。仮像とは、幻想のことです。しかし、幻想に対する現実は、存在していません。なぜなら、全てが幻想だからです。通常、ディオニソス的世界は、仮象のヴェールに隠されています。そのため、普段は、その姿を見ることが出来ません。ディオニソスは、幻の中心点にいる真に実在する唯一の主人公とされています。舞台の登場人物たちは、仮面をつけてディオニソスの言葉を語っているにすぎません。この世界は、常に移り変わるものです。その中で、変わることがなく常に等しいものは、ディオニソスだけだとされています。
【酒と舞踏】
ディオニソスは、舞踏の神です。その全身を使って世界の生成を表現しています。ディオニソスの舞踏は、無節度で衝動的な遊び戯れるような輪舞でした。その舞踏には、意味や目的はありません。 また、ディオニソスは、人々を陶酔させる酒の神です。ディオニソス的陶酔は、個人を束縛から解放するとされています。人間は、生きている限り、自分自身から離れることが出来ません。苦痛の原因は、自分自身が存在しているからです。そもそも、自分自身がいなければ、何も感じません。酒による陶酔は、自分自身を忘れさせてくれます。それは、苦しむ人にとっては、一時的な救済でした。
【全一者と合一】
ディオニュソスは、唯一無二の「全一者」です。全一者でありながら、自分自身も個体化の苦痛を我が身に経験します。しかし、この苦痛の克服こそが、真の快楽でした。ディオニュソスにとって、苦痛は、ただの刺激剤にすぎません。なぜなら、苦楽は一体だからです。個人は、陶酔による一体感によって、全一者と合一します。それは、個人が全自然と融和することです。同一化への衝動は、個人を解体させ、生成の快楽そのものになろうとします。全一者こそ、個人的な生を死から救う者です。 しかし、個我に固執するものにとっては、それは厭うべきものでした。
ディオニソスは、力の充溢から破壊と再生を楽しみます。それは、一種の神聖な遊戯だとされています。ディオニュソスは、自分自身を解体して、再び死から立ち帰る者です。その死は、一時的なものにすぎません。そのため「不死のために死せる神」と呼ばれました。この世界にあるのは、唯一のディオニソスだけです。それ以外の何者でもありません。