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西洋、東洋哲学
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西洋神話

ニーチェの「ディオニソス」

2023-12-12 19:56:00 | 西洋哲学

【ディオニュソス】

 ニーチェは、無神論ではありません。古代ギリシャの神ディオニュソスを崇拝していたからです。ディオニソスは、従来の価値観を破壊するニーチェ哲学のシンボルでした。ギリシャ神話では、酒と舞踏の神とされています。そのため、道徳的な神ではありません。ニーチェは、凝固した人間的な道徳を否定するために、ディオニソスという用語を使うようになりました。ディオニソスは、自然の生成そのものを象徴する神であり、自然の総体的な性格を表現しているとされています。例えるなら、自然の根底に流れる永遠の音楽のようなものです。その音楽は、始めと終わりがない繰り返しだとされています。

【演劇の神】

 ディオニソスの創造力は無尽蔵です。その力によって、全ての現象を紡ぎ、それを全面的に肯定する者とされています。ディオニソスにとって、世界は舞台のようなものです。その舞台上の全てのものは、仮象に過ぎません。仮像とは、幻想のことです。しかし、幻想に対する現実は、存在していません。なぜなら、全てが幻想だからです。通常、ディオニソス的世界は、仮象のヴェールに隠されています。そのため、普段は、その姿を見ることが出来ません。ディオニソスは、幻の中心点にいる真に実在する唯一の主人公とされています。舞台の登場人物たちは、仮面をつけてディオニソスの言葉を語っているにすぎません。この世界は、常に移り変わるものです。その中で、変わることがなく常に等しいものは、ディオニソスだけだとされています。

 【酒と舞踏】 

 ディオニソスは、舞踏の神です。その全身を使って世界の生成を表現しています。ディオニソスの舞踏は、無節度で衝動的な遊び戯れるような輪舞でした。その舞踏には、意味や目的はありません。 また、ディオニソスは、人々を陶酔させる酒の神です。ディオニソス的陶酔は、個人を束縛から解放するとされています。人間は、生きている限り、自分自身から離れることが出来ません。苦痛の原因は、自分自身が存在しているからです。そもそも、自分自身がいなければ、何も感じません。酒による陶酔は、自分自身を忘れさせてくれます。それは、苦しむ人にとっては、一時的な救済でした。 

 【全一者と合一】 

 ディオニュソスは、唯一無二の「全一者」です。全一者でありながら、自分自身も個体化の苦痛を我が身に経験します。しかし、この苦痛の克服こそが、真の快楽でした。ディオニュソスにとって、苦痛は、ただの刺激剤にすぎません。なぜなら、苦楽は一体だからです。個人は、陶酔による一体感によって、全一者と合一します。それは、個人が全自然と融和することです。同一化への衝動は、個人を解体させ、生成の快楽そのものになろうとします。全一者こそ、個人的な生を死から救う者です。 しかし、個我に固執するものにとっては、それは厭うべきものでした。

 ディオニソスは、力の充溢から破壊と再生を楽しみます。それは、一種の神聖な遊戯だとされています。ディオニュソスは、自分自身を解体して、再び死から立ち帰る者です。その死は、一時的なものにすぎません。そのため「不死のために死せる神」と呼ばれました。この世界にあるのは、唯一のディオニソスだけです。それ以外の何者でもありません。



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1 コメント

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マルテンサイト千年グローバル (サムライ鉄の道リスペクト)
2024-09-22 12:27:54
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、トレードオフ関係の全体最適化に関わる様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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