なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
世界史、日本史
西洋神話

クリムトとウィーン分離派

2024-05-14 11:29:00 | 世界史

【ウィーン分離派】 

 ウィーン最大の画家だとされるのが、グスタフクリムトです。クリムトは、ウィーン分離派を創設し、初代会長となりました。ウィーン分離派は、新たな造形表現を目指すグループで、モダンデザインの先駆だとされています。分離派と呼ばれるのは、古典や伝統を重んずる美術からの分離を目指したからです。ウィーン分離派は、若手の発掘とその作品の展示を目的としていました。当時の帝政オーストリアは、衰退期だったとされています。その時代を反映して、クリムトの作風は、官能、退廃的でした。

【アール・ヌーヴォー】
 クリムトは、伝統に反対する芸術運動の代表者です。その芸術運動を「アール・ヌーヴォー」と言います。アール・ヌーヴォーとは「新芸術」と言う意味です。装飾性のある「平面的」な画面や、自然の有機的な「曲線」がアール・ヌーヴォーの特徴だとされています。当時ヨーロッパでは、ジャポニスムが、流行していました。ジャポニスムとは、日本趣味のことです。アールヌーヴォーには、そのジャポニスムの影響があります。クリムトも日本の物を収集していました。逆に日本の方でも、クリムトは人気があります。

【性と死】 

 クリムトは「エロスとタナトスの画家」と呼ばれています。当時のオーストリアでは、性の表現はタブーでしたが、クリムトは、女性の裸体をよく題材としました。クリムトは、独特のエロティシズム表現で、官能的で、どこか死の香りを感じさせる女性たちを描きました。クリムトの絵には、同じくオーストリア出身の精神科医フロイトの影響があるとされています。フロイトは、人間の根源的な衝動は「性」と「死」だとしました。

【ファムファタル】
 男を破滅させる魔性の女のことを「ファムファタル」と言います。クリムトは、その「ファムファタル」をテーマとしました。ファムファタルは、宿命の女とも呼ばれています。そう呼ばれたのは、男たちが、彼女たちと運命的に赤い糸で結ばれていると感じたからです。例えば、文学や絵画などに描かれる「サロメ」「キルケ」などが、ファムファタルだとされています。ファムファタルは、たいてい魅力的な容姿しており、男性を意のままに操ることが出来きました。彼女たちは、さんざん男性を振り回しますが、男性を破滅させようとする意図はないとされています。自由奔放に、お金を浪費したり、複数の男性と恋愛を繰り返すので、結果的に男性が破滅するからです。

【ユディット】
 クリムトは、旧約聖書外典に登場する「ユディット」をファムファタル的に描きました。ユディットは、美しい未亡人でユダヤ人の英雄だとされます。彼女は、敵国アッシリアの本陣に乗り込み、酔いつぶれた将軍ホロフェルネの首を剣で切り落しました。しかし、将軍に近づくために、色仕掛けで迫ったわけではありません。ユディットは、神に対する強い信仰心の持ち主だったとされています。そのため、人々からは尊敬されていました。ユディットは、民族意識高揚のための伝説上の人物だったとされています。しかし、クリムトは、そのユディットを独自の解釈で描きました。

【黄金時代】
 クリムトは、裕福なパトロンたちの注文を受け、彼らの肖像画を描きました。その肖像画に、使われたのが金箔です。金箔の使用は、モザイク画や日本の琳派の影響だとされています。金を多用したので、この時期の作品は「黄金時代」と呼ばれました。黄金時代の代表作「接吻」は、クリムトの作品中では、最も有名です。絵に描かれている抱き合う男女は、クリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲだとされています。



ムンクと作品

2024-05-11 21:33:00 | 世界史

【エドヴァルドムンク】 

 ムンクの家系は、学者を多く輩出した名家です。父親も医者で、ムンクは、その長男として生まれました。ムンクは、統合失調症だったとされています。そのため、妄想や幻聴に悩まされていました。その妄想や幻想が彼の作品になったとされています。統合失調症以外にも「強迫神経症」や「アルコール依存症」でもありました。ムンクの母と姉のソフィーは、結核でなくなっています。作品「病める子」の少女は、その姉がモデルです。姉は、15歳の時に亡くなりました。病める子は、死にたいする不安の表現だとされています。この作品は、写実主義から表現主義への転換期のものです。ムンクは、生涯死の影に怯えていましたが、80歳と意外と長寿で亡くなっています。

 【作風】 

 ムンクの作風は「表現主義的」です。その独創的な作風は、ポスト印象主義と表現主義の間を結んだとされます。ただし、技術的には下手でした。ムンクは、パリの短期留学で、印象主義やポスト印象主義の影響を受けたとされています。渦巻くようなタッチ、歪んだフォルム、激しい色彩などは、ゴッホの影響です。ムンクは、自分の作品を「子供たち」と呼んで愛しました。

 ムンクは、風景ではなく、自分の魂の情景を描く画家だとされています。そのため、自らの内面を深く探求しました。絵は、自らの苦悩を語る自伝的なものだったとされています。ムンクは、10代の頃から、自画像を描いていました。子供の頃から、孤独で、情緒が不安定だったとされています。ムンクの絵は、その内面的な葛藤を可視化したものです。 

 【生命のフリーズ】

 ムンクは「生命のフリーズ」という連作を描きました。フリーズとは、連続した壁面絵画のことです。生命のフリーズは「愛」「死」「不安」がテーマだとされています。その中で、愛をテーマにしたのが「声」という作品です。「声」の女性は、ムンクを誘惑した愛人だとされています。しかし、その女性には、愛人が何人もいたので、ムンクは、その一人にすぎませんでした。ムンクは、その女性に翻弄されて、苦しんだとされています。

  「生」と「性」をテーマにしたのが「マドンナ」という作品です。「マドンナ」には、死と新しい生命の兆が描かれています。絵の女性は、男性を誘惑して、破滅に導く魔性の女で、その表情は死をイメージしていました。画面の周りに動いているものは精子で、左手下には、胎児が描かれています。

  「時計とベッドの間の自画像」は、死をテーマにした作品です。ベッドは「死」を、時計は「残り少ない人生」を表しています。 

 【叫び】 

 生命のフリーズの中で、最も有名な作品と言えば「叫び」です。叫びは、油彩やパステルなどで、5枚以上描かれています。絵の中で叫んでいるのは、人間ではなく自然です。ムンクは、日頃から、幻聴や幻覚に悩まされていました。「叫び」の中で、耳を塞いでいる人物は、ムンク自身です。ある時、ムンクは、自然の全てが金切り声を上げるのを聞きました。その時の恐怖を描いたのが、この作品です。 絵のフォルムは、極度にデフォルメされ、遠近法が強調されています。背景に描かれているのが、雲が血のように赤く染まった夕焼けのフィヨルドです。日没というものは「死」「不安」「絶望」の象徴だとされています。


イスラエル王国について

2024-03-28 21:56:00 | 世界史

【サウル】 

 サウルは、イスラエル王国の初代国王で、パレスチナの地に王国の基礎を築きました。ただし、歴史的には、その存在は不確実だとされています。当時、イスラエルは、巨人ゴリアテが率いるペリシテ人の侵略に苦戦していました。そのゴリアテを倒したのが、イスラエルの羊飼いの青年ダビデです。ダビデは、この功績によって国民的英雄とされました。しかし、サウルは、ダビデの人気に嫉妬し、命を狙うようになったとされています。そのダビデを助けたのが、サウルの息子ヨナタンでした。ヨナタンとダビデは、固い友情で結ばれていたとされています。その後、サウルとヨナタンが、ペリシテ人との戦いで死んだので、ダビデが新しい王となりました。

 【ダビデ王】 

 イスラエル王国2代目の王となったのがダビデです。ダビデは、イスラエル人の理想の王者だとされています。その名前の由来は「親愛なる人」です。一説では、旧約聖書の詩篇の作者だとされています。ダビデは、もともと、ベツレヘム出身のただの羊飼いにすぎませんでした。しかし、竪琴の名手だったので、サウルに召し抱えられたとされています。ペリシテのゴリアテを倒してからは、将軍としても活躍しました。活躍出来たのは、もともと勇敢で頭が良く、軍事的な才能もあったからです。

 王になってからは、宿敵ペリシテ人を降伏させ、最終的には、周辺民族のほとんどを征服したとされています。ダビデは、エルサレムの地を征服し「契約の箱」を置いて、そこを都としました。契約の箱とは、宗教的なシンボルで、イスラエル人の団結のしるしだとされています。ダビデの正妻は、サウルの娘ミカルです。しかし、家臣の妻バドシェバとの間にも不倫で出来た子供がいました。これは、当時の倫理観からも、よくなかったとされています。そのため、ダビデは、後世の潔癖なピューリタンからは嫌われました。

 【ソロモン】 

 イスラエルの3代目の国王となったがソロモンです。ソロモンは、バドシェバとの子で、ダビデの末子でした。その名前の由来は「平和に満ちた」です。父ダビデの命令で後継者に指名されました。ソロモンは、大変賢い王だったとされています。特に赤ん坊の所有権を争った2人の女を裁いた逸話は有名です。また、イスラエルを訪問した「シバの女王」の難問にも全て解答することが出来ました。一説では、旧約聖書の「雅歌」と「箴言」の著者だとされています。

 ソロモンは、ヤーウェ神殿をエルサレムに建設しました。ヤーウェとは、イスラエル人の神様のことです。ユダヤ教は、一神教なので、神様はヤーウェしかいません。ユダヤとは、他称であり、自称は、イスラエルです。 ソロモンは、従来の部族制を解体した上で、行政区域を12分割し、それぞれに長官を派遣しました。その住民には、徴税や賦役の義務があったとされています。商業では、広範な海上交易網で、通商を盛んにし、軍事面では、常備軍を設置しました。ソロモン王の治世は「ソロモンの栄華」と呼ばれるイスラエル王国の絶頂期だったとされています。

 しかし、晩年のソロモンは、オリーブ山で、ハーレムのような生活を送ったので、評価を落としました。そのため、オリーブ山は「冒涜の丘」と呼ばれています。ソロモンは、アシタロテ、モロクなど異教の神を祭るようになりました。この頃に、ヤーウェからは、見放されたとされます。ソロモンの死後、イスラエル王国は、北と南に分裂しました。



フェニキア人と「アルファベット」

2024-03-27 19:18:00 | 世界史

【フェニキア人】 

 フェニキア人は、セム系の民族で、旧約聖書では「カナン人」と呼ばれています。カナン人とは、ギリシャ語の呼び方です。フェニキアという名前の由来は「紫色」だとされています。紫色は、その地方特産の染料の色のことです。フェニキア人は、もともとパレスチナ「現在のレバノン」地方で暮していました。この地域は、旧約聖書に出てくる「約束の地」のことです。約束の地は「乳と蜜が流れる地」と言われていました。旧約聖書では、イスラエルの英雄サムソンがこの地を征服したとされています。歴史的には、フェニキアは、エジプトに破れて植民化させられています、その時、エジプトから重税を課せられました。

 【交易】

 フェニキア人は、もともと耕作に適さない土地に住んでいました。そのため海洋に出たとされています。きわめて先進的な海洋民族であり、船を巧みに操る航海術を持っていました。フェニキア人は、地中海での商取引を生業とする世界初の交易商人だったとされています。その優れた航海技術によって、地中海の貿易をほぼ独占しました。それが可能だったのは、商業の才能もあったからです。フェニキア人は、貿易によって莫大な富を築きました。 

 フェニキア人の船は、レバノン杉を材料としています。レバノン杉は、耐久性があり、良い香りもしました。しかし、あまりに伐採し過ぎたため、レバノン杉は、現在ごく一部の地域にしかありません。フェニキア人は、交易によって広大な貿易網を築き、その過程で、拠点となる植民市を建設していきました。有名な植民市の一つが、カルタゴです。カルタゴは、後にローマ帝国と覇権を争いました。その現在の位置は、チュニジアです。の交易することで、各地にオリエント文明が伝わったので、フェニキア人は、ヨーロッパ文明の父と言われました。

 【アルファベット】 

 貿易を支配するには、情報の伝達が欠かせません。そのために発展させたのが文字です。フェニキア語「ポエニ語」は、アルファベットやギリシャ語など、あらゆる欧州文字の原型となりました。ちなみにギリシャ文字のアルファとベータが、アルファベットの語源だとされています。フェニキア語は、エジプトの象形文字や楔形文字を発展させたものです。その文字は、表音文字に改良されました。なぜなら交易をするためには、簡略な表音文字の方が効率的だったからです。現在でも、フェニキア人の表音文字を用いた記録が残っています。 

 【職人】

 フェニキア人は、高度な技術を持つ職人だったとされます。また優れた発明家でもありました。フェニキア人が発明したものは、文字だけではありません。発明されたものには、小回りがきく二頭立ての戦車などがあります。また、フェニキア人は「ガラス細工」「象牙の彫刻」「木工」「繊維の染色」などの優れた職人でもありました。その技術によって、イスラエルのソロモン王の神殿にも雇われたとされています。




スキタイ人と「遊牧騎馬民族」

2024-03-26 19:24:00 | 世界史

【スキタイ人】 

 スキタイ人は、イラン「ペルシャ」系の人種で、単一の民族ではなく、多数の民族から構成されていました。もともとの居住地は、ウクライナ地方の北部や、黒海の北周辺です。遊牧民であったため、定住はせず、ある一定地域の範囲内で、季節的ごとに移動を繰り返していました。遊牧民の生活拠点は、主に乾燥した草原地帯です。ユーラシア大陸の「遊牧騎馬民族」としては最初に登場しています。遊牧と騎馬は、初めから結び付いていたわけではありません。スキタイ人は、初めてそれを結合させました。それによって、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築くことが出来たとされています。

 【生活と文化】 

 スキタイ人は、基本的に遊牧民だったため、農耕はせず、必要なものは全て家畜から作っていました。例えば「ミルク」「バター」「チーズ」などの乳製品です。彼らにとっては、所有する家畜の数が財産でした。スキタイ人は、固有の文字を持たなかったために、ほとんど記録は残されていません。しかし、黄金の埋葬品などが発見されており、そこから高度な金属文化があったとされます。スキタイ人は、熟練した手工芸職人でもありました。神殿などの建築物を作りませんでしたが、先祖の墳墓は崇拝していました。 

 【軍事】 

 スキタイ人は、騎馬技術に優れた遊牧騎馬民族で、人類で最初に「騎馬軍団」を編成しました。スキタイの騎馬軍団は、機動力がある軽装騎兵隊「軽騎兵」です。その兵士は、きわめて勇敢でした。騎馬の起源は、ヒッタイトだとされています。乗馬をするには「手綱」「はみ」「くつわ」が少なくとも必要です。そのうち「鉄のはみ」は、ヒッタイトが発明したとされています。蒸気機関車以前の乗り物で、最速だったのが馬です。馬の機動性は、戦争において、強力な兵器となりました。スキタイ人は「防具」「武器」「車」「馬具」なども発展させています。特に弓が強化され、矢にはカエシが付き、毒が塗られました。スキタイ人は、そうした強力な武器と、神出鬼没の騎馬戦術によって、農耕地帯を略奪し、領土を拡大していきました。

 スキタイは、軍事力と巧みな戦術によって、ギリシャや大国ペルシャにも勝利しています。ペルシャのダレイオス1世の遠征軍も、スキタイ騎兵の機動力には歯がたたず、撃退されました。また、スキタイ人は、メディア人と手を結び、軍事大国アッシリアをも倒しています。最終的には、ゲルマン人の一派、東ゴート人に滅ぼされました。ローマ帝国時代に入ってからは、スキタイの王国は崩壊しています。

 【伝説】 

 伝説でのスキタイ人は、ギリシャの英雄ヘラクレスと蛇女エキドナの子孫だとされています。スキタイ人に、弓術を教えたとされるが、そのヘラクレスです。また、ギリシャ神話に登場する半人半馬の怪物ケンタウロスは、スキタイ人がモデルだとされます。当時のギリシャ軍の主力は、重装歩兵だったので、巧みに馬を操る騎兵を見たことがありませんでした。そのため、スキタイの騎兵を見た時、ケンタウロスだと思ったとされてます。

 スキタイ人の墓からは、武装した女性が発見されました。そのため、女性の戦士がいたとされてます。このことから、スキタイ人が、アマゾネスのモデルだという説が出ました。アマゾネスとは、ギリシャ神話に登場する弓術に優れた女性だけの軍団のことです。また別の説では、スキタイ人の服装が、女性のようだったので、女戦士だとしたともされています。