なくもの哲学と歴史ブログ

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ヒトラーと生涯

2025-02-08 12:28:00 | 世界史

ヒトラー】

 ヒトラーは、オーストラリアで生まれました。父は、暴力的で、母は、息子に甘かったとされています。ヒトラーは、画家を目指していましたが、まったく認められていませんでした。また、友人もいなかったとされています。ヒトラーには、一方的に自分の話ばかりをける癖がありました。そのため、嫌われていたとされています。そんなヒトラーに、人生の転機が、訪れたのは第一次世界大が始まったことです。第一次世界大では、故オーストリアではなくドイツ軍として参戦しました。ヒトラーは、危伝令兵として活躍し、充した日々を送ったとされています。毒ガスで、一時的に失明しましたが、よく働いたので勲章をもらいました。



【政界へ】


 ドイツは、第一次世界大に敗北しました。ヒトラーは、それをユダヤ人や社会主義者のせいにしたとされています。ドイツは、多額の賠償金や工場地を占されたことにより、経済的に困窮しました。ヒトラーが、政治家を志すようになったになったのは、そうした状況下です。そんな時、入したのが極左政党「ナチス」です。ナチスは、正式名を「国家社会主義ドイツ労働者党」と言います。ヒトラーは、演が得意でした。その才能で、党内で頭角を表すことが出たとされています。しかし、ミュンヘン一揆というクーデターで逮捕されました。法廷でさえ、自己宣の場所に利用して、聴衆を味方につけたとされています。ヒトラーは、五年の禁錮刑でした。ただし、面や手紙も許されており、かなり自由だったとされています。獄中、口述筆記で、書かれたのが「我が闘争」という自です。


【総統】

 ナチスは、選圧勝し、第一となりました。この時、誕生したのがヒトラー内閣です。ドイツでは、もともと大統領と首相は、別々の人物がやるものでした。それは、権力を分散させるためだとされています。しかし、ヒトラーは、大統領と首相を兼任し、総統と呼ばれました。そうして、独裁者になったとされています。ヒトラーは、非議会主義者で、何でも独断で決めました。

 ナチスの思想を宣するために作られたのが「意志の勝利」というプロパガンダ映です。ドイツ国民は、秘密警察「ゲシュタポ」によって監視され、ナチスに敵する者は、次々と逮捕されました。特に、迫害されたのがユダヤ人たちです。ユダヤ人は、ゲットー「居住地域」に押し込められ、いろんなことが制限されました。例えば、公職から追放されたり、ドイツ人と結婚することを禁止されたりなどです。ナチスは、ドイツ国内では、ユダヤ人を大量虐殺しませんでした。そのため、一般市民は、その事実を知らなかったとされています。ちなみに、こうしたユダヤ人の虐殺には、軍事的なメリットはありませんでした。



【戦争】

 一般的にヒトラーは、失業問題を解決したとされています。道路工事や建設事業などの公共事業によって、失業者を減らしたからです。それらによって、経済も回復したとされています。しかし、それは労働の名を借りた戦争の準備でした。ヒトラーは、戦争を求めており、そのための再軍備だったとされています。英などは、戦争を避けるため、それを黙認しました。なぜなら、ナチスが、ソ連への防波堤になると考えていたからです。ドイツが、ポーランドに侵攻し、第二次世界大が開始されました。当初は、電撃戦という戦術で破竹の勢いだったとされています。ヨーロッパ各地を、次々と攻略し、大国フランスさえも占領したからです。イギリスは、かろうじて抵抗を続けていましたが、かなり苦戦していたとされています。もともとドイツは、ソ連と独ソ不可侵条約を結んでいましたが、ヒトラーが、それを破って侵攻を開始しました。通常、戦争の常識では、二正面の戦いは、タブーとされています。それでも当初は、順調に進撃していました。それを阻んだのが、25°の過酷な冬とぬかるみです。ドイツ軍は、徐々に押し返され、ソ連軍が、ベルリンに突入した時、ヒトラーは、敗北を悟って自殺しました。



ヒトラーと演説

2025-02-02 20:20:00 | 世界史

【ヒトラー】


 ヒトラーには、演説の才能があったとされています。そのため、大衆の心を掴むことが出来ました。ただし、人の意見を聞かずに、一方的に喋り続けるので、対話は、苦手だったとされています。ヒトラーは、演説する時、人に物を考えさせないようにしました。一般的に、困ってる者ほど騙されやすいとされています。当時のドイツは、多くの大衆が困窮していました。そこでヒトラーは、すべての労働者に職とパンを約束したとされています。大衆は、それを歓迎しました。



【演説】

 ヒトラーは、若い頃、画家を志望しており、もともと芸術家気質だったとされています。特に、ワグナーのオペラを愛好していました。だだし、自分に都合良く解釈していただけとされています。ヒトラーの演説は、ワグナーの総合芸術の影響で全てが演出されていました。そのため、大衆にどのように語るか、常に意識していたとされています。時には、沈黙やジェスチャーなどを駆使しました。大衆は、巧みにヒトラーの演説に引き込まれたとされています。

 ヒトラーは、都合の悪い情報は一切伝えず、都合の良い情報だけを拡大して伝えました。また、意味がどうとでも取れる、抽象的な言葉をよく使っています。ヒトラーは、大衆にアピールできるように、簡潔で分かりやすい、キーフレーズを決めていました。たとえ嘘でも、それを繰り返し伝えることで、頭の中に刷り込めるからです。それによって、強制しなくても、相手をコントロールすることが出来るとされています。法廷でも、自己演出し、自説の宣伝に利用しました。



【ドイツ民族】

 ヒトラーは、生まれ故郷のオーストリアを嫌っていました。なぜなら、オーストラリアが他民族国家だったからです。ヒトラーは、ランツのアーリア人優越思想の影響を受けており、民族の純潔が、ユダヤ人によって侵されていると思っていました。アーリア人優越思想では、アーリア人という言葉をドイツ人「ゲルマン人」という意味で使っています。ただし、人種的にアーリア人は、ゲルマン人ではありません。

 ヒトラーは、ユダヤ人と社会主義者が、スパイ活動したので、ドイツが、第一次世界大戦で負けたと思っていました。それが、ドイツの団結を弱めたと考えたからです。そこで、ユダヤ人という共通の敵を作ることで、再び大衆を団結させようとしました。ヒトラーの目的は、ドイツ国内のドイツ人「人種的な意味での」以外の「絶滅」と他国への「侵略」です。侵略によって、国外にいるドイツ人を救おうとしました。バラバラに住んでいたドイツ人を取り込み、より大きな勢力にしようと思ったからです。ヒトラーは、平和は、剣「戦争」によってのみ守られるとしました。



【全体主義】

 ヒトラーは、自身を神によって使わされた存在と考えていました。そのため「キリストが始めた仕事を私が完成させる」と言っています。自分こそが国家だとし、国民は、ただ自分の命令を実行すればよいだけだと思っていました。ヒトラーは、自分はドイツと結婚したのだとも言っています。そのため、恋人エヴァ・ブラウンの存在は、公にしていませんでした。

 個人を超えた全体的なものに従うことを「全体主義」と言います。その全体主義では、異なる思想は弾圧され、同じように考え行動しなくてはいけませんでした。それを宣伝するために作られたのが「意志の勝利」というプロパガンダ映画です。



十字軍の遠征

2025-01-07 11:17:00 | 世界史

【十字軍】


 十字軍とは、キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教のセルジューク朝トルコから奪還しようとした遠征のことです。遠征は、1113世紀にかけて7回ほど行われました。キリスト教が、エルサレムを聖地とするのは、イエス・キリストの墓があるとされていたからです。当時、セルジューク朝は、ビザンツ帝国の領土へ進出していました。ビザンツ帝国とは、東西に分裂した「東ローマ帝国」のことです。教会も、東の「正教会」と西の「ローマカトリック教会」に分かれ、両者は対立していました。対立した理由は、聖像崇拝を巡る考え方の違いだとされています。

 しかし、ビザンツ帝国「東ローマ帝国」は、そのローマカトリック教会に助けを求めました。当時、ローマ教皇だったのが「ウルバヌス2世」です。ウルバヌス2世は、クレルモン公会議で、十字軍の遠征を提唱しました。そこには、東西の教会を統一させようとする意図があったとされています。


【中世ヨーロッパ】

 中世ヨーロッパでは、封建制度の下、領主が荘園を営んでいました。その荘園で、働いていたのが農民たちです。農民は、全人口の90%以上を占めていたとされています。領主は、農民たちから、年貢を納めてもらうかわりに、護衛隊を結成し、外敵から守っていました。

 通常、荘園の次の領主となるのは長男です。次男は、たいてい教会の聖職者になっていました。しかし、3男は、何もすることがなく、ブラブラしていたとされています。そうした3男たちが、主に十字軍に参加しました。

 当時、社会問題となっていたのが、人口増加による土地不足です。そのため、ヨーロッパでは、新しい土地を求めるようになっていました。人口増加の原因は、農業技術の発達によって、生産力が向上したからです。


【経緯】

 土地不足だった西ヨーロッパ「ドイツ、フランス」の諸候や民衆たちは、十字軍を歓迎しました。この時、結成されたのが「聖ヨハネ騎士団」や「テンプル騎士団」です。彼らは、聖地エルサレム占領し、エルサレム王国などの十字軍国家を建てました。それを奪還したのが、イスラム教側のサラディンです。サラディンは、イングランドのリチャード1世と戦って、休戦協定を結びました。

 十字軍の物資補給を担当していたのが、ヴェネツィアの豪商たちです。彼らは、もともとビザンツ帝国と確執があったとされています。そのため、十字軍に、聖地エルサレムではなく、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを占領させました。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、もともとイスラム文化に理解があったとされています。神聖ローマとは、現在のドイツのことです。フリードリヒ2世は、イスラーム教側と交渉し、エルサレムで、平和的に共存する道を選びました。しかし、悪魔と手を結んだとして、ローマ教皇からは破門されてしまいます。


【結果】


 最終的に十字軍は、エルサレムを奪還出来ませんでした。そのため、結果的に失敗だったともされています。しかし、何も得られなかったわけではありません。イスラム世界の進んだ文化を持ち帰ることが出来たからです。それによって、ヨーロッパの文化が発展しました。また、十字軍の遠征で、内陸の交通路も広がったとされています。

 ヨーロッパでは、十字軍の失敗によって、教会の権力が失われ、戦費がかさんだ領主も没落しました。代わりに、力を手に入れたのが、遠征を指揮した国王や、イタリアのヴェネツィア、ジェノバなどの商業都市です。

結果的に、国王の権力が強くなり、それが絶対王政のきっかけになったとされています。また、東西貿易が盛んになり、商人たちが莫大な富を築きました。なぜなら、商品を遠くへ運び、何倍の値段で売ったからです。


原人、ホモエレクトス

2025-01-06 11:25:00 | 世界史

【ホモ・エレクトス】

 170 - 180万年前、アフリカ東部で誕生したホモ・エレクトスは、アフリカを出てアジアでも繁栄しました。

ホモ・エレクトスとは「直立した人類」という意味です。北京市で発見されたホモ・エレクトスを「北京原人」インドネシアで発見されたものを「ジャワ原人」と言います。中国では、北京原人の化石を竜骨という漢方薬として使っていました。現在では、ホモ・エレクトスは、アジア人の祖先ではないとされています。そもそもは、ホモ・エレクトスは、人類「ホモサピエンス」の直接の祖先ではありません。ホモサピエンスと共通の祖先から枝分かれした別の種族だからです。ただし、同じホモ属には分類されています。ホモ・エレクトスは、隔離された地域で、独自の進化をとげました。ちなみに、現在では絶滅しています。


【火】


 ホモ・エレクトスは、もともと木の上で果実を食べていました。寒い時期に、その果実が減ったので、食べ物を求めて地上へ降りたとされています。主に「いちご」「ブドウ」「キノコ」「クルミ」「肉」などを食べていました。ホモ・エレクトスの脳容量は、猿人と旧人の中間くいで、現代人の75%だったとされています。比較的、知能が高かったので、さまざまな道具を生み出すことが出来ました。その一つが、握斧「ハンドアックス」という打製石器です。それを使って、他の動物が食べられないような殻が硬い木の実でも割ることが出来ました。そこから出てきたのが「でんぷん」の塊です。はじめホモエレクトスは、それを美味しいと思わずに食べていました。しかし、それを変えたのが火との出会いです。加熱調理によって、デンプン「ブドウ糖」の質を変化させ、おいしく食べられるようになったとされています。ちなみに、火は、暖をとるためにも使われました。火は、もともとは「火山噴火」「雷」などから発生したものを利用していたとされてます。後に木と木を擦り合わせて、自力でも起こせるようになりました。

 体内で、ブドウ糖が主に使われる場所は脳です。その脳は、最もエネルギーを必要とする臓器とされています。ホモエレクトスが、火を使い始めた頃、ブドウ糖を大量に摂取しました。そのため、神経細胞が増殖し、脳が二倍以上に巨大化したとされています。


【狩り】

 ホモエレクトスの身長は、150180cmで、現代人よりも頑丈な体だったとされています。その身体的特徴は、足がまっすぐ長く、体毛が薄いことです。そのことが長距離を走ることを可能にしました。ホモエレクトスは、走るのが得意な長距離ランナーだったとされています。動物は、たいてい体毛に覆われているので、体温をうまく下げることが出来ません。長距離を走ると、たいてい熱中症になってしまいます。ホモエレクトスは、もともと、死体漁りをしていました。しかし、長距離を走れるという特性を活かして、積極的に狩りをするようになったとされています。その狩りは、獲物が疲れるのを待って、熱中症に追い込むというやり方でした。

 ホモエレクトスは、日常的に栄養豊富な肉を食べたことで、脳が発達したとされています。知能がさらに高くなり、心も進化しました。思いやりの心が生まれ、介護もするようになったとされています。そうやって仲間との絆を強めたことで、生態系の頂点に立つことが出来ました。


人類と「牧畜」の始まり

2025-01-05 21:22:00 | 世界史

【牧畜】

 動物の家畜化は、肥沃なる三日月地帯で、始まったとされています。肥沃なる三日月地帯とは、現在の西アジア「シリア周辺」のことです。牧畜より少し前に、農耕が始まっていました。その農耕民族たちの一部が、余った作物で、家畜を飼育するようになったとされています。それを専業とする人たちが、営んだのが牧畜という生活スタイルです。牧畜を営む者にとっては、家畜が全財産でした。英語では、家畜を「ライブストック」と言います。ライブストックとは「生きた在庫」という意味です。牧畜社会では、その家畜を守らなくてはいけません。そのため、政府の力に頼らない自衛の文化が発展したとされています。牧畜を営む者は、常に定住しているわけではありません。季節や天候に応じて、家畜と共に移動する場合があるからです。そうした生活スタイルを遊牧と言います。



【家畜】

 牧畜とは、動物を再生産して、食糧を獲得する方法です。それ以前の狩猟採集生活では、再生産を目指していませんでした。ただ自然に生息している動物を獲って食べるだけだっただからです。人類は、野生動物を数千年の歳月をかけて、人に役立つように改良してきました。牧畜とは、その動物を家畜として、人為的に管理することです。

 家畜は、野生の生存競争からは解放されています。そうした、ストレスのない環境が、家畜特有のさまざまな色や形などの変化をもたらしました。例えば、家畜になると出てくるのが白毛です。通常、自然の状態では、白は目立ってしまいます。そのため、家畜に出来るような草食動物の中にはあまりいません。また、家畜は、あまり賢くないとされています。例えば、養鶏の脳は、野生の鶏よりも小さいからです。


【条件】

 家畜化出来る動物には、一定の条件があります。その一つが、群れで生活し、リーダーに従う習性があることです。そうした動物の方が、管理しやすいとされています。また、縄張りを共有出来る温厚な性格であることも重要です。一般的に、家畜化すると攻撃性は落ちるとされています。なぜなら、人間がそのように品種改良してきたからです。家畜化すると、コミュニケーション能力が高くなり、声を使って人からエサをもらおうとします。

 牧畜の目的は「ミルク」や「肉」という食料品や、衣服などの材料となる「皮」を手に入れることです。それらを得るため、家畜は、繁殖力があって、成長が早い方が良いとされています。農耕社会でも、フンが畑の肥料になるので、家畜がよく使役されました。一説では、人間も、自分自身を家畜化しているとされています。なぜなら、自分たちが決めたルールに従って生きているからです。


【種類】

 家畜となった五大哺乳動物「ビック5」は、もともと肥沃な三日月地帯で生息していました。五大哺乳動物とは「牛」「羊」「ヤギ」「豚」「馬」のことです。牧畜は、それらを使って農耕に向かない地でも営むことが出来ました。人類が、家畜化出来たのは1214種類の野生動物だけです。最初に家畜化されたのは、犬だとされています。ただし、犬は、狩猟のパートナーとして使われていたので、厳密な意味での家畜とは言えないかもしれません。9000年前、本当の意味で最初の家畜となったのが牛です。同時期には、豚が家畜になりました。豚とは、野生の猪を家畜化したものです。次いで6000年前、馬やロバが家畜化されました。哺乳類以外では、鶏が中国かインドで家畜化され、ローマに伝わったとされています。家畜は、人間の役に立つ動物です。しかし、弊害もありました。例えば、人に病気をうつしてしまうからです。もともと、はしかは、牛の病気で、天然痘は、ラクダの病気だったとされています。