【皇道派】
大日本帝国時代、海軍と陸軍は、予算を取り合うライバル関係にありました。そのため、同じ日本の軍隊でも一枚岩ではなかったとされています。また、陸軍内にも「皇道派」と「統制派」という派閥がありました。ただし、統制派という派閥は、なかったともされてます。皇道派は、特権階級が、天皇と国民を分断していると考えていました。特権階級とは、政治家や財閥人のことです。皇道派は、クーデターによって、天皇親政の実現を目指しました。天皇親政とは、天皇が、直接政治の実権を握ることです。ただし、昭和天皇は、自分が政治の実権握ろうとは思っていませんでした。なぜなら、イギリス立憲君主制の影響を受けていたからです。立憲君主制では、憲法にしたがって、実質的には議会が政治を行います。そのため、君主は名目だけのものとされました。
【皇道派の思想】
皇道派が、精神的支柱としたのが北一輝という人物です。北一輝は、国粋主義者で、精神論を重んじました。皇道派が、特に批判していたのが天皇機関説です。天皇機関説では、天皇は神のような存在ではなく、国家の一つの機関とされています。それを皇道派は、無礼だとしました。ただし、昭和天皇は、天皇機関説を受け入れていたとされています。また、皇道派は、対外的にはソ連を仮想敵国としました。皇道派のリーダー的存在が、陸軍大臣「荒木貞夫」や参謀総長「真崎甚三郎」です。荒木貞夫は、弁が立ったので、陸軍の若者たちに人気がありました。ただし、政治の才能はなかったとされています。戦後の極東裁判では、A級戦犯として終身刑になりました。真崎甚三郎も、皇道派の青年将校に信頼があったとされています。その青年将校たちが起こしたのが226事件です。真崎甚三郎は、226事件にも一定の理解を示しました。
【統制派】
226事件後、頭角を表したのが統制派です。統制派は、皇道派より、穏健な派閥とされています。どちらかと言えば、陸軍のエリートが中心でした。統制派が目指したのが、合法的に総力戦体制を確立することです。そのためには、軍部が、独裁的に政治を統制し、国家を改造する必要がありました。統制派の目標は、列強に対抗出来るような「高度国防国家」の建設です。彼らの「粛軍人事」や「英米協調派の排除」もそのためのものでした。統制派の中心人物だったのが、教育総監「林銑十郎」や「永田鉄山」です。林銑十郎や永田鉄山は、政治力が高かったとされています。永田鉄山の方は、皇道派に刺殺されました。226事件後、内閣総理大臣になったのが統制派の東條英機です。東條英機内閣の時、太平洋戦争に突入しました。