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なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
世界史、日本史
西洋神話

統制派と皇道派

2025-04-08 20:07:00 | 日本史

【皇道派】

 大日本帝国時代、海軍と陸軍は、予算を取り合うライバル関係にありました。そのため、同じ日本の軍隊でも一枚岩ではなかったとされています。また、陸軍内にも「皇道派」と「統制派」という派閥がありました。ただし、統制派という派閥は、なかったともされてます。皇道派は、特権階級が、天皇と国民を分断していると考えていました。特権階級とは、政治家や財閥人のことです。皇道派は、クーデターによって、天皇親政の実現を目指しました。天皇親政とは、天皇が、直接政治の実権を握ることです。ただし、昭和天皇は、自分が政治の実権握ろうとは思っていませんでした。なぜなら、イギリス立憲君主制の影響を受けていたからです。立憲君主制では、憲法にしたがって、実質的には議会が政治を行います。そのため、君主は名目だけのものとされました。


【皇道派の思想】


 皇道派が、精神的支柱としたのが北一輝という人物です。北一輝は、国粋主義者で、精神論を重んじました。皇道派が、特に批判していたのが天皇機関説です。天皇機関説では、天皇は神のような存在ではなく、国家の一つの機関とされています。それを皇道派は、無礼だとしました。ただし、昭和天皇は、天皇機関説を受け入れていたとされています。また、皇道派は、対外的にはソ連を仮想敵国としました。皇道派のリーダー的存在が、陸軍大臣「荒木貞夫」や参謀総長「真崎甚三郎」です。荒木貞夫は、弁が立ったので、陸軍の若者たちに人気がありました。ただし、政治の才能はなかったとされています。戦後の極東裁判では、A級戦犯として終身刑になりました。真崎甚三郎も、皇道派の青年将校に信頼があったとされています。その青年将校たちが起こしたのが226事件です。真崎甚三郎は、226事件にも一定の理解を示しました。


【統制派】

 226事件後、頭角を表したのが統制派です。統制派は、皇道派より、穏健な派閥とされています。どちらかと言えば、陸軍のエリートが中心でした。統制派が目指したのが、合法的に総力戦体制を確立することです。そのためには、軍部が、独裁的に政治を統制し、国家を改造する必要がありました。統制派の目標は、列強に対抗出来るような「高度国防国家」の建設です。彼らの「粛軍人事」や「英米協調派の排除」もそのためのものでした。統制派の中心人物だったのが、教育総監「林銑十郎」や「永田鉄山」です。林銑十郎や永田鉄山は、政治力が高かったとされています。永田鉄山の方は、皇道派に刺殺されました。226事件後、内閣総理大臣になったのが統制派の東條英機です。東條英機内閣の時、太平洋戦争に突入しました。


226事件について

2025-04-07 20:17:00 | 日本史

【大戦と515事件】

 「日清」「日露」「第一次大戦」と三度の大戦で勝利した日本は、その賠償金で潤っていました。国民は、それを軍部のおかげだと思っていたとされています。そのため、政府が、外国との軍縮条約に調印したことが不満でした。そんな時、起こったのが世界恐慌です。日本も、その影響で不況になりました。特に農村の貧困状態は、悲惨だったとされています。そんな中、起こったのが515事件です。515事件では、犬養毅首相が殺害されました。それによって、政党政治が終焉したとされています。515事件を起こした海軍の青年将校たちの刑は、比較的軽いものでした。それが、陸軍の青年将校たちが、226事件を起こした一つの要因だとされています。もともと海軍と陸軍は、予算を取り合う別組織で、ライバル関係にありました。そのため、同じ日本の軍隊でも一枚岩ではなかったとされています。陸軍の隊員は、貧しい農村の出身者がほとんどでした。そんな彼らを直接指揮していたのが、青年将校たちです。青年将校たちは、隊員から、農村の悲惨な現状をよく聞いていました。そのため、現状の政府に不満を持っていたとされています。



【皇道派】

 当時、陸軍には「皇道派」と「統制派」という派閥がありました。226事件を起こしたのは、皇道派の青年将校たちです。彼らは、特権階級が、天皇と国民を分断していると考えていました。特権階級とは、政財界の人たちのことです。青年将校たちは、武力によって、国家を改造し、天皇親政を実現させようとしました。天皇親政とは、天皇が、直接政治の実権を握ることです。しかし、昭和天皇は、自分が政治の実権握ろうとは思っていませんでした。なぜなら、イギリス立憲君主制を手本としていたからです。皇道派は、当時主流だった天皇機関説という考え方を一部の法学者の学説にすぎず違憲だとしました。天皇機関説とは、天皇が神のような存在ではなく、国家の一つの機関だとする考え方のことです。昭和天皇は、それを受け入れていました。


226事件】

 226事件では、大蔵大臣「高橋是清」や内大臣「斉藤実」らが暗殺されました。ただし、当時の内閣総理大臣「岡田啓介」は逃げ延びています。226事件に動員された兵士は、約1500名です。そのうち実際に政府を倒そうと思っていたのは少数だとされています。大半は、ただ上官の命令に従って参加しただけだからです。226事件では「警視庁」「国会議事堂」など、東京の中枢が占拠されました。当初、世論は、彼らに同情的だったとされています。しかし、その状況が一変しました。なぜなら、昭和天皇が、激怒し、彼らを反乱軍としたからです。青年将校のうち15人は、銃殺刑となり、一般隊員は、元の隊に戻されました。226の結果、台頭したのが、統制派の人たちです。統制派は、エリート中のエリートだとされています。基本的に、政府と連携し、合法的な手段で、国家を改革しようとしました。統制派が、目標としたのが技術の近代化と中国への拡大です。彼らのもと、予算は軍中心となり、軍人による政治が行われるようになりました。この時期、内閣総理大臣となったのが統制派の東條英機です。東條英機内閣によって、太平洋戦争への道を進むことになりました。




明治時代

2024-03-30 10:56:00 | 日本史

【明治維新】 

 明治維新とは、幕末から明治政府が成立するまでの一連の大改革のことです。まず徳川幕府は「大政奉還」によって、天皇へ政権を返上しました。その発表のことを「王政復古の大号令」と言います。それにより、徳川慶喜の政治的影響力はおさえられました。この時、新政府の基本方針を示したのが「五箇条の御誓文」です。明治政府は「経済の発展」と「軍事力の強化」によって近代的な国家をめざしました。それを「富国強兵」と言います。富国強兵を実現するための手段の1つが「殖産興業」でした。

 【殖産興業】 

 殖産興業は、日本が発展する基礎となりました。産業発展のためにつくられのが「官営模範工場」です。官営模範工場は、もともと官営事業でしたが、その後民営になりました。例えば、群馬の「冨岡製糸工業」や福岡の「八幡製鉄所」などが官営模範工場です。冨岡製糸工業は、最新の蒸気で動く機械を導入して、生糸の生産や質を高めました。八幡製鉄所は、もともと日清戦争の賠償金で作られたものです。製鉄所では、主に石炭と鉄鉱石が使われます。石炭は、八幡村で採れましたが、鉄鉱石の方は、中国から輸入しなければいけませんでした。

 【廃藩置県】 

 江戸時代の幕藩体制において、地方を支配していたのが藩主「大名」です。藩主は、土地と民衆を朝廷に返しました。それを「版籍奉還」と言います。版籍奉還によって、全ての藩が廃止され、代わりに府や県が置かれました。それを廃藩置県と言います。藩主は、知藩事となり、東京に住むことが命じられました。地方行政を担当するために、中央政府から府や県に派遣されたのが「府知事」や「県令」です。廃藩置県よって、中央集権的な国家が誕生し、国内の税収と統治が安定しました。江戸時代は、鎖国によって外国から孤立していたことで、比較的平和だったとされています。明治政府が、順調に中央集権化を進めることが出来たのは、もともと日本人としての民族や文化的な同一性が高かったからです。

 【四民平等】

 明治初期、身分制度が廃止され、皇族以外のすべての人々が、平等になりました。それを四民平等と言います。藩主や貴族「華族」も最終的には、平民となりました。庶民が名字を名乗るようになったのは、明治からです。身分がなくなったので、住む場所や「職業」や「結婚」までも自由に選択できるようになりました。 

 【文明開花】 

 明治時代に、暦を西洋と同じ太陽暦に変え、1日を24時間としました。正確な時刻というものを意識し始めたのは、この頃からだとされています。街にはガス灯が灯され、人々は洋服を着て歩きました。日本人が、洋風のものも食べるようになり、食生活が欧米化したのも明治からです。明治時代に整備されたものに、鉄道があります。1872年には、東京新橋~横浜間が開通しました。鉄道の別名を「陸蒸気」と言います。その材料は、イギリスから輸入していました。 

 【軍事】

 明治時代、天皇が現在の皇居に住むようになり、首都が京都から東京に移りました。日本では、天皇が住む所が首都だとされています。明治政府は、天皇を頂点に据えた中央集権的な国家でした。そのため、軍隊も天皇のものだとされています。当時の日本は、西洋列強の脅威にさらされており、北のロシアとは緊張関係にありました。そのために置かれたのが開拓使です。当時の政府は、国を守るためにという名目のもとに、容易に国民を軍事に参加させることが出来ました。


大正時代の日本

2023-10-11 12:49:00 | 日本史

【大正デモクラシー】 

 大正デモクラシーとは、日露戦争後から大正末年までに展開された、自由主義・民主主義的な風潮をさします。その目標は、それまでの「幕藩政治」を否定し、政治に国民の意思を反映させることです。具体的には「政党政治」「労働運動」「社会主義」として展開されました。背景にあったのは、産業革命以降の「労働問題」や「都市問題」などです。大正デモクラシーの影響は「政治」「社会」「文化」など多方面に現れました。 

 【民本主義】 

 大正デモクラシー運動の理論的根拠となったのが吉野作造の「民本主義」です。民本主義は、民衆を第一とし「民衆の福利」を目標としていました。その具体的な目的は「普通選挙法」や「政党内閣制」を実現することです。 民本主義と似たものに、民主主義があります。民主主義は、もともと欧米から入ってきたものです。そのため、欧米風の民主主義を、日本にそのまま適用させるわけにはいきませんでした。民主主義では、主権は国民にあります。その国民の民意に基づいた政党が議会を行うものでした。それを政党政治と言います。民本主義では、民主主義を実行しつつも、あくまで主権は天皇にありました。 なぜなら、当時の日本の憲法では、主権は天皇にあったからです。

 【天皇機関説】 

 本格的な「政党内閣」が誕生したのは、原敬内閣の時です。政党政治の理論的な根拠になったのが、憲法学者「美濃部達吉」の「天皇機関説」です。天皇機関説では、天皇は、国家の上に君臨する神のような存在ではありません。あくまで国家の中の1つの機関に過ぎないとされました。いくら天皇を中心とする政治でも、国家が機能するためには、政府や議会など、他の機関の協力を必要とするからです。

 【普通選挙】 

 加藤高明内閣の時に成立したのが「普通選挙法」です。普通選挙法は、平等を原則としており「納税額」「財産」「教育」などの資格要件がありませんでした。ただし、参政権が与えられたのは、25歳以上の男子だけです。この時点では、女性には参政権がありませんでした。普通選挙に対するものを制限選挙と言います。政府が、普通選挙法とともに導入したのが「治安維持法」です。治安維持法は、共産主義など政府にとって都合の悪い思想を弾圧するものだったので、第二次世界大戦後、民主主義的ではないとしてGHQが廃止しました。 

 【第一次世界大戦】 

 大正時代、世界では、第一次世界大戦が起こりました。戦争のきっかけは、オーストリア皇太子夫妻がセルビアで暗殺されたことです。第一次世界大戦とは「三国同盟」と「三国協商」との戦争で、歴史上最初の総力戦でした。総力戦とは、一般市民の生活にも深刻な影響を与える戦争のことです。第一次世界大戦では「毒ガス」「戦車」「飛行機」などの近代兵器が使用され、4年半も続きました。その主な戦場だったのが、ヨーロッパです。日本は、日英同盟に基づき参戦し、中国の山東省の青島に進軍し占領しました。戦争の結果、日本は、工業国としての基礎が築かれます。日本が大国の仲間入りを果たすことが出来たのは、そのおかげです。戦後「大戦景気」と呼ばれる好景気に沸き、国民の生活水準は上がりました。


2000〜10年までの日本

2023-10-08 22:03:00 | 日本史

【中央省庁の再編】 

 2001年に、中央省庁が再編されました。その目的は、これまでの縦割り行政による弊害を排除し、効率化を図ることです。行政の効率化によって「事務」や「事業」などが軽減されました。中央省庁の再編よって、強化されたのが内閣の機能です。新設された内閣府には「政策調整制度」が導入されました。内閣府の役割は、上の立場から、それぞれの省を総合的に調整することです。政策調整制度によって、各府省がお互いに意見を出し合う環境が作られました。中央省庁の再編は「明治維新」「戦後の改革」に次ぐ「第三の改革」だとされています。

 【小泉政権】 

 第87代内閣総理大臣に就任したのが「小泉純一郎」です。小泉内閣は、戦後最高の81%という圧倒的な支持率でした。国民に支持された理由は「自民党をぶっ壊す」などのシンプルなキャッチフレーズがウケたからだとされています。小泉純一郎は、自民党でしたが、保守的ではなく、革新的な政策を実施しました。その一つが、日本経済の再生を目指す「聖域なき構造改革」です。聖域なき構造改革は「小さな政府」「官から民へ」「中央から地方へ」などを理念としていました。その理念によって、民間の活力を引き出そうとしたからです。例えば、民営化されたものに郵政事業があります。外交面では、北朝鮮を訪問し、金正日総書記と会談しました。その成果が、拉致被害者の帰還です。

 【労働者派遣法改正  

 2003年、労働派遣法の改正により、派遣労働の規制が緩和され、製造業への派遣などが解禁になりました。労働派遣法とは、派遣労働者を保護するための法律です。改正によって、同一労働同一賃金が実現され、派遣可能期間も実質的に撤廃されています。しかし、2008年のリーマン・ショック以降は、世界的に不況におちいりました。その際、雇用の調整役となったのが製造業の派遣社員です。派遣先が、派遣元との契約を解約・不更新をすることによって失業者が増えました。それを「派遣切り」といいます。派遣切りは、社会問題となり、大きく報道されました。 

 【大規模小売店舗立地法】 

 2000年に「大規模小売店舗立地法」が施行されます。それによって、全国的に大型ショッピングモールの開発ラッシュが始まりました。ショッピングモールとは、ショッピングセンターの大規模なもののことです。それまでは、大型店舗の出店は,中小小売業の保護のために国が規制していました。規制していたのは、大型店舗との競争によって、中小小売業が潰れないためです。ショッピングモールは、大規模小売店舗立地法の施行により,地域の実態をみて、各自治体が調整することになりました。地域の実態とは、住民の生活環境が守られるかどうかです。自治体は、周辺地域の「交通渋滞」「騒音」「廃棄物問題」などの生活環境に考慮する必要がありました。確かに、大型店舗の出店によって、町は快適で利便的になったかもしれません。しかし、町の風景が歴史や伝統と切り離されて、均一化されてしまいました。