実にどうでもいいことのように思いますが…。
当然「創作」というくらいであり、そこらへんに転がっているものを拾ってくるわけではない。
しかし詰将棋はすさまじい条件の厳しさをかいくぐって存在するものであり、自由な表現が許されるものではない。
音楽と文学は鑑賞者の自由度において全く異なる。
文学では時間軸において鑑賞者を創作者が縛ることはなく、
音楽では鑑賞者は全て創作者の意図にゆだねられる。
創作者の自由度でいえば、小説と俳句では全く異なる。
しかし確かに、詰将棋の「創作」はどこか他の芸術と違う印象を受けなくもない。
相対性理論のように、自然の心理を発見したときのような、理知的な美しさも併せ持っているような。
より知りたいことは、むしろ「創る」のか「見つける」のか、ということを考える過程。
その作家のポリシーがそんなところから垣間見えるように思える。
自分は作図がそもそも全くできないのだが、「勝手にできた」ときしかうまくいっていないので、今のところ「見つける」派。
詰将棋にある自由度を、もっとうまく使えればいいのになぁ。
当然「創作」というくらいであり、そこらへんに転がっているものを拾ってくるわけではない。
しかし詰将棋はすさまじい条件の厳しさをかいくぐって存在するものであり、自由な表現が許されるものではない。
音楽と文学は鑑賞者の自由度において全く異なる。
文学では時間軸において鑑賞者を創作者が縛ることはなく、
音楽では鑑賞者は全て創作者の意図にゆだねられる。
創作者の自由度でいえば、小説と俳句では全く異なる。
しかし確かに、詰将棋の「創作」はどこか他の芸術と違う印象を受けなくもない。
相対性理論のように、自然の心理を発見したときのような、理知的な美しさも併せ持っているような。
より知りたいことは、むしろ「創る」のか「見つける」のか、ということを考える過程。
その作家のポリシーがそんなところから垣間見えるように思える。
自分は作図がそもそも全くできないのだが、「勝手にできた」ときしかうまくいっていないので、今のところ「見つける」派。
詰将棋にある自由度を、もっとうまく使えればいいのになぁ。
作曲が発見でもまして発明でもないように、作図もどちらでもない。
ただ、若島さんも言うように、あえて「発見」という言葉を使うことによって創作のある部分が言い当てられている、ということはあるかもしれません。
一方、「発明」の方はそういうことはないのではないでしょうか。
発見派が多いのはそのへんでしょう。
これとは違った意味、より狭い意味の「発見」、つまりしらみつぶしに調べる方法も、PCの使用と結びつけるから価値が低いように見られるわけで、実際かつて自力でしらみつぶし(というか系統的に)調べた人たちの成果はむしろ賞賛されたのではないでしょうか。
普遍的に考える、という意味はあまりないと思うんですね。
むしろ前述したとおり、そういった言葉のチョイスから、作家の方々のコンセプトが見えることのほうがより重要だと思うんです。
「発見」派と「創作」派、私がみたのはごく数人ですが、いかにもだなぁという印象を受けるんですね。
私が発見派なのは、やや消極的な理由です。即ち考想を練ってあれこれ試行錯誤した後「こんな図があったのか」と思うまで完成度を高めて、ようやく作品たりえた、というプロセスから。
ただ、一流作家の方も、考想を高めるか、完成度を高めるか、という紙一重の取捨選択に違いがあるんじゃないかなぁと。それは「あなたの作品は発見ですか?創作ですか?」という問いでもまた鑑賞が深められるんじゃないかと。(もちろんその答え方も含めて。)