将棋おたくのつぶやき

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詰将棋のPC作図は可か

2009-08-15 14:24:01 | 将棋
前日と同じ場所のTETSUさんのサイトより。

昨日と同様の問題で、それ自体に問題はないと思います。
というよりそれを否定することはむしろ困難。

ただしPC使用に対しては謙虚であってほしい、と。

ツールの進化は、即ちその世界の進化に他ならない。
そのツールが有効である部分において、以前と同レベルに甘んじてはいけない。
たとえば極端な条件作。盤面+持駒趣向などの場合は、ほぼ作図労力を省略できるので、以前であれば入選作クラスだったものがボツ作になることも、当然ともいえる。(趣向作家の方には受難の時代と言わざるをえない)
あぶり出しよりも初形曲詰のほうが多く感じるのも、その影響と思われるものの、あまりにお手軽に作れてしまい、内容の吟味が感じられないこともしばしば。
裸詰の第一人者である岡本孝雄さんは、「つまらない裸詰は発表しない」こともあったらしいと。作家とはかくあるべし、という矜持を感じる。

さらには、昨日の内容にもあるとおり、変化紛れの手触りを感じられない作品が解答を募集されかねない傾向。
作品の真の完成度においては良いかもしれない。しかし解答募集のコーナーで、あまりに人工的な変化紛れを読みきることは、その作品の印象を著しく悪くするのみならず、解答者を解答募集から遠ざけることにもつながりかねない。

そうすると、発表の方式にも変化があって良いのではないか。
最初から「自力解答をお勧めしない」形式があることも良いだろう。相馬康幸Collectionでは見開きで解答がわかることで画期的な本であるが、それら作品はもちろん解図に耐えうる作品群でありながらも、「自力解答せずともその価値を示すことができる」作品群であるからこそ成り立つ方法である。
昨日の内容と関わってくるが、お互いに「自力」のみを要求しないコミュニケーションがあっても良いのではないか。特に条件作において、解答を最初から明示する、無理な自力解答を勧めない、難しければ序の数手のみ見ることもできる(「くもの糸」の発表時を思い出していただきたい)、などという試みがあっても良いのではないか。

詰将棋もまたコミュニケーションの一つであり、そこに各個人の個性が十分に尊重されるからこそ面白いのだが、個人のエゴのみが強まることや、統一をはかる必要ゆえに皆が不利益を被る事態も避けたい。作図、発表、解答、鑑賞、全てを縦断的に改良する様々な試みがあることを期待したい。

再び論文口調になってしまった。