僕は札幌の眼科医だ。
愛する由香里が網膜剥離で視力を失ってしまった。
一週間前に、最新の手術を行った。強膜内陥〈ないかん〉術。簡単な手術ではない。
病室で、由香里は言った。目は包帯で覆われている。
「ねえ、本当に見えるようになるの?」
「大丈夫。手術は成功したはずだ」
「あなたを信じるわ」
僕は窓の下を見た。
道路わきには、まだ雪が積んである。札幌の春は、まだ先だ。
携帯で桜の開花予報を調べた。
大阪城公園の桜が八分咲きだと表示されている。
僕の故郷大阪。何度も見に行った桜。
「よし、大阪に行こう。そこで、君の目の包帯を取ろう」
「どうして大阪なの?」
「それは、行ってのお楽しみさ」
満開の桜が目の前にある。
午後の光を受けて、鮮やかに花開いている。
僕は由香里の手を離した。
「いいかい?」
「ええ、どきどきするわ」
僕はそっと、由香里の目の包帯を外していった。
由香里は目を閉じていた。
僕はもう一度、由香里の手を握った。
「さあ、目を開いて」
由香里はゆっくりと目を開いた。
僕は黙って由香里の目を見つめていた。
しばらくの間、由香里はまっすぐ前を見ていた。
やがて、「きれい」とつぶやいた。
そして、僕の方を見た。
目には涙が溢れていた。
「ありがとう。感激だわ。最初に見たのがこんなに美しい桜だなんて
あなたって、本当に優しいのね。この景色、一生忘れないわ」
由香里につられて、僕の目にも涙が浮かんできた。
僕らは飽きることなく、満開の桜をみつめていた。
桜の精たちが僕らを取り巻いて微笑んでいるような気がする。
春が運んできてくれた奇跡に、桜の精たちに、僕は心から感謝していた。