遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

藤沢周平

2020-05-17 20:43:15 | 読んだ本
          藤沢周平『雲奔る 小説・雲井龍雄』           松山愼介
 薩摩の西郷、大久保、長州の高杉晋作、桂小五郎、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬ら、倒幕派の面々については、多くの作品が書かれている。もっとも私の知識は、司馬遼太郎の小説によっている。一方で、新政府軍の敵となった徳川慶喜についても司馬遼太郎は『最後の将軍』を書き、戊辰戦争で新政府軍を苦しめた長岡藩の河井継之助についても『峠』という、いい作品を書いている。
 一方で、新政府軍の敵となった、奥羽越列藩同盟について書かれている作品は少ない。NHKの『八重の桜』という会津藩を舞台にした大河ドラマは面白かった。東北、越後にも、河井継之助やこの作品の雲井龍雄のような有為の人材が多くいただろうが、敗者の歴史は埋められている。
 西郷の目標は幕府の武力討伐であったろう。ところが、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に逃げ帰るなどして、臆病な将軍という印象を与える。しかし、徳川慶喜は幕末の客観的情勢をよく認識し、徳川家の存続を第一に考えたように思われる。「大東亜戦争」後の昭和天皇の如くに。大政奉還や、徳川のヘゲモニーのもとの諸侯会議というような手を尽くし、徳川幕府に利がないとわかるとひたすら恭順の意を示して、徳川家を存続させた。
最近、NHKで「西郷と最期まで闘った男」という、庄内藩の酒井玄蕃を扱った番組を見た。庄内藩は、京都の治安維持を幕府から命じられた会津藩のように、江戸の治安維持を命じられた。西郷は江戸を撹乱するために、百五十名の浪人に強盗、放火をおこなわせた。それが原因となって庄内藩が江戸薩摩藩邸に突入、焼き討ちすることになる。西郷はとにかく、幕府を武力で討伐しなければ新しい世の中がこないと考えていたようである。ところが、上野の山で彰義隊の抵抗があったものの、勝海舟らの動きもあって、江戸城は無血開城となった。
幕府は最新式の軍艦をもっていた。東海道で倒幕軍と幕府軍が戦い、その時に幕府の軍艦からの艦砲射撃があれば倒幕軍は壊滅的打撃を受けた可能性があるともいわれている。おそらく、ここでも徳川慶喜は局地的に勝利をしても幕府は続かないと考えていたのだろう。
 江戸城、無血開城の後、新政府軍の敵は会津藩となった。京都で新選組などを使って、倒幕の志士を弾圧した会津藩だけは許せなかったのだろう。この新政府軍対会津の戦いに、東北の諸藩はどちらにつくかの態度決定を迫られる。庄内藩のように譜代大名の場合、幕府存続に傾きがちであった。
 この頃、諸藩の情勢を探るのは、密偵の利用か、それができない場合には、雲井龍雄のように、江戸や京都での人間関係から探るしかない。会津や庄内藩は譜代なので、幕府に義理があるが米沢藩は、上杉で外様大名であるから幕府に義理を感じる必要はなかっただろう。だが、会津や、長岡、庄内藩との関係の中で奥羽越列藩同盟に加わることになる。この時点では、おそらく大勢は決していたに違いない。だが、西郷や、薩摩にたいする私怨は残る。
 同じように、NHKで初代警視総監になった、薩摩の川路利良を取り上げていた。出演していた警視庁関係者によると、現在でも警視総監室に川路利良の肖像が掲げられているということだ。川路には西郷の私学校、西南の役は、西郷の私憤と捉えられて、元薩摩藩士を抜刀隊に組織して西郷軍と対決することになる。後には、これに元会津藩士三百名が加わることになる。この元会津藩士は、新政府軍の監視下に置かれていたが、これを政府軍に抱え込む事により、会津藩士の窮乏を救うことにもなり一石二鳥であった。会津藩は戊辰戦争の敗北後、下北半島の斗南藩に位封され、餓死者も出るほどの扱いを受けていた。
 雲井龍雄も政府に反抗の志しありとされ、梟首になる。しかし、雲井ももし、薩摩、長州に生まれていれば、明治維新において大いに活躍したのではないだろうか。それほど、この時代は自分の生まれた土地や地位、環境が個人の生き方に大きな影響を与えたのではないだろうか。付け加えれば、志しあるものは新政府軍と徹底的に戦ったが、藩の上層部は日和見を決め込み、結果がでてから恭順の意を示し、自己の利益を守ろうとしたようである。
                            2019年11月9日

最新の画像もっと見る

コメントを投稿