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嘉村礒多『業苦・崖の下』を読んで

2018-09-10 11:18:46 | 読んだ本
      嘉村礒多『業苦・崖の下』            松山愼介
〈私小説の一極北〉という言葉が気になって、いろいろ調べると、平野謙の『昭和文学史』に、
《嘉村の作品系列はほとんど私小説的手法に終始していたが、それが私小説の極北と評価されるにいたったのも、そういう嘉村の狭くはあるが 人間性そのものに根ざした執拗な追及力によるものであった。晩年の作「途上」は、嘉村の自虐的な罪の意識が少年時代の回想という題材に緩和 されて、純粋な生命力の絶唱と紙一重の秀作となっている。最後の作品「神前結婚」は、従来の私小説家が誰もあばかなかった文士の出世意識を暴露した作である。実生活上の破綻を芸術的良心によって弥縫するのが私小説家の常道だったが、嘉村はその芸術的良心そのものにひそむ現世的な要素を抉りだしたのである》と、書かれている。
 平野謙の『昭和文学史』は、昭和初期の文学を、関東大震災以後、プロレタリア文学と新感覚派文学が現前したが、既成リアリズム文学と新旧交代することなく、《私小説によって代表される既成リアリズム文学と新感覚派から新心理主義にいたるいわゆるモダニズム文学とプロレタリアートの解放を念願するマルクス主義文学とが鼎立》したとしている。嘉村礒多が『業苦』、『崖の下』を発表した昭和三年は、初めて男子普通選挙が実施され、無産政党が進出し、それに驚いた警察が三月十五日に無産政党関係者に大弾圧をくわえた年であるが、嘉村礒多の作品にはそのような社会的事件は、ほとんど投影していない。わずかに『曇り日』の最後に摂政宮の車の通過に際して不審尋問を受ける場面だけである。
 この作品集を通読して、わからないのは主人公と母との関係である。『業苦』には《圭一郎はものごころついてこの方、母の愛らしい愛というものを感じたことがない。母子の間には不可思議な呪詛があった》と書かれており、母親は圭一郎を廃嫡して姉に相続させたいとも言っている。考えられるは主人公の色の黒いという容貌のことだろうが、普通の母親なら、むしろ息子の欠点を擁護するところである。母親は息子を呪詛しているのにもかかわらず、十九歳のときに二歳年上で、母親の遠縁の未知の女と結婚することになる。嘉村礒多が実際に結婚したのは二十二歳の時であるが。『途上』には、瓦斯会社の上役の娘と結婚したことになっている。それも中学の落第生の姉であって、子供が生まれて一年後に、彼女が再婚であったことを知り、嫁入り道具の鏡台を足蹴にして踏折ったりしている。《私は妻を愛してないわけでなく》、《彼女が出戻りだということで、どうしても尊敬することが出来ず生涯を共にすることに精神上の張り合いがなかった》ということになる。
 嘉村礒多を過大に(?)評価しているのは『現代日本文學全集』(筑摩書房 一九五五)の福田恆存である。《嘉村礒多は人間としての自己の愚劣と醜悪とを克明に描いたばかりでなく、ついに自我の尊厳を傷つけるようなことがらまで暴露し、しかもその背後に芸術家の吟侍すら残そうとしなかった》と書き、作家としての一線を越えてしまったかのように書いている。嘉村礒多が、このように自己を卑下し、露悪的に書いているのは、そもそも彼に不幸な感性を喜ぶ資質があったのではないだろうか。しかも、それが作家の資格だという勘違いがあったように思われる。
 だいぶ前に、聞いたことだが、大学で田山花袋の『蒲団』が取り上げ、教師が最後の《夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。/性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた/薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた》という場面を、読み上げると、学生の間から笑いが起こるのだという。我々の世代は、ここは作者に従って泣くとこところなのだが。それでいくと、この嘉村礒多の妻の鏡台を足蹴にするところや、自作が一流雑誌に掲載が決まり、喜び倒れ、板の間に突っ伏してしまうような、一人空回りしているような場面も、当時の貧困や、家というもの、家族の状況に対する知識がなければ、現代の学生なら喜劇のように受け取るのかも知れない。
                          2018年6月9日
 平野謙の「私小説の一極北」については、「文学表現と思想の会」主宰、秋吉好氏から以下の指摘を受けた。

 平野謙が「私小説の一極北」と書いたのは、岩波文庫の宇野浩二解説からの引用だが、その元は、平野謙『文學の現代的性格とその典型(承前)—高見順論』(昭和12年10月「人民文庫」)のなかで、「私は嘉村礒多の文学をわ私 小説の極北と信じているが、云々」による。「いち極北」という表現は、嘉村の『神前結婚』について書いたもので、これは後に別のところで書いている。それゆえ、辻野久徳が「私小説なるものの極北」(「文学界」昭和9年2月号)と書いたのが嚆矢となる。


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