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村上春樹『騎士団長殺し』を読んで

2024-02-29 10:26:29 | 読んだ本
    村上春樹『騎士団長殺し』         松山愼介
この本は現在のところ、村上春樹にとって最後の(?)長編小説である。久しぶりに村上春樹を読んでみると、十年から二十年前に読んだときの新鮮な感動はなかった。文体とか比喩が通俗的に感じられた。それでも文庫本の四冊を最後まで読ませる力は残っている。ところが、四冊目を、これからどうなるんだろうと読み進めたが、物語は終わってないように感じた。最後になって梯子を外された感じがした。「プロローグ」あって、「エピローグ」がないので、村上春樹が第三巻を書こうとして書けなかったのだろうか。
 村上春樹の作品は、妻の失踪、妻との離婚から始まって、邪悪なものを退治して、妻と復縁するというのが一つの定形となっている。ところが、邪悪そうな「スバル・フォレスターの男」の正体は明かされない。免色渉も、悪人かどうかわからないままである。
施設に入っている老齢の雨田具彦に「騎士団長殺し」の絵の話をするところが、この作品の山場だろう(第四分冊、76)。騎士団長は、「私」に自分を殺して、「顔なが」を引っ張り出し秋山まりえを取り戻せと言う。「私」は、正彦の包丁を騎士団長の心臓に突き立てる。だが、「現実には私が殺しているのはほかの誰かの肉体なのだ」。この光景を雨田具彦は直視している。ナチの高官か、中国人捕虜を斬らせた若い少尉か、それとも「もっとも根源的な、邪悪なる何かなのか」を見ているのか。
「私」は地下に潜り、川を渡り、森を通って、洞窟の中に入る。洞窟の中にはドンナ・アンナがいて道案内をしてくれる。騎士団長はイデアであり、「私」はメタファーの中を進んで行き、あの石室の中に投げ出される。話としては、この「私」の冒険が秋山まりえを救うことになるべきなのだが、この冒険と関係なく、秋山まりえは騎士団長の指図により、迷い込んだ免色屋敷から逃げ出す。これまでの村上春樹の作品なら、「私」の行動によって邪悪なるものが封印され、まりえが助かることになるはずである。
ことによると、それまで邪悪なるものや、我々の前に立ちふさがっているシステムが、時代が複雑化するにつれて見えにくくなっていることの反映なのかも知れない。
『騎士団長殺し』の絵は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』からきている。リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』もこの作品の背景に流れる音楽である。案外、この作品の謎を解く鍵は『ドン・ジョヴァンニ』にあるのかも知れない。騎士団長はドン・ジョヴァンニに殺された、ドンナ・アンナの父親ということで、この父親は石像にされながらも女たらしのドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込む。だが、『騎士団長殺し』の絵は日本画ということになっている。飛鳥時代の日本の扮装をした人々を描いた絵から『ドン・ジョヴァンニ』が連想され、娘がドンナ・アンナだとわかるものだろうか。私はむしろこの設定から大化の改新(乙巳の変)を連想する。となると殺されたのは蘇我入鹿ということになる。
 免色渉を邪悪なものとして設定し、まりえを免色屋敷から救出するという展開なら腑に落ちるのだが。このように展開するなら、第三巻が書かれるべきであったのっではないだろうか。
 村上春樹の『猫を捨てる』によると、村上の父親は毎朝、お経を称えることを習慣にしていたという。それは、戦争の死者を供養するためのものであった。村上は父親が南京戦に加わっていたと思って危惧していたのだが、父親の部隊は南京攻略戦に参加せず、南京を迂回したということだ。
 この作品のなかで、村上は社会的事件を混入させる。ナチによるオーストリア併合、南京事件等である。こわれかけたプジョー205で放浪するのは、後から東日本大震災にあった地域だとわかる。村上は「上海から南京に至る各地で激しい戦闘をくぐり抜け、その途中で夥しい殺人行為、略奪行為が繰り返された」と書いているが、正確ではない。第二次上海事変で日本陸軍は増援隊を派遣し杭州湾に上陸するが、そこでは中国国民党軍の抵抗をほとんど受けていない。
 日本軍の上陸によって退路を塞がれるのを恐れた国民党軍は、一斉に南京めざして退却した。そのため、兵站が追いつかなかった日本軍は、食糧を略奪したが、ほとんど戦闘はしていない。国民党軍は南京に入る前に、自国の家や畑を焼き払ったといわれている。いわゆる南京事件は、日本軍が南京を攻略してからのことである。
 雨田具彦の弟、継彦を南京での残虐行為のため自殺したということにしているが、私は、このような現実を取り込むことは、現実と非現実の境目を書き、「壁抜け」などもある村上作品の完成度を弱くしているように感じる。これは『ねじまき鳥クロニクル』でも同じで、イスラエルのエルサレム賞の受賞スピーチ『壁と卵』にもいえることである。
 免色渉は秋山まりえの家が見えるところに白い大きな家を、なかば無理やり購入し、自分の娘かもしれないまりえを双眼鏡で見守る。これは、村上春樹が絶賛するスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の構図そのままである。J・ギャツビーが免色渉で、「私」はニックである。戦争のため、愛するデイジーと別れさせられたギャツビーは、帰国後、デイジーが金持ちのトム・ブキャナンと結婚していることを知る。裏社会で金を手にしたギャツビーはブキャナンの家の対岸に豪邸を建て、デイジーの暮らす家を見つめて過ごす。

 ここまで書いてから、屋根裏の「みみずく」から川上未映子が村上春樹にインタビューしている『みみずくは黄昏に飛びたつ』を思い出した。これほど、村上春樹が自分の作品について饒舌に話しているのは珍しい。また、川上未映子も実に丁寧に村上作品を読んでいて、的確なインタビューというよりも、優れた対談になっている。

 今回の小説は、妹のコミとの関係をなんとか取り戻そうとしている話なのかもしれない。「私」と妹はかつて、どこまでも完全な関係を持っていた。ほとんど無意識な状態で、無垢な楽園状態で。それが彼女の死によって失われてしまって、等価とはいわないけれど、そこに有機的に結びつくはずのものを彼は探し求めている。

 上記の引用文がこの小説のテーマらしい。また、この本で村上は、この作品は完結しているとも述べている。
確かに村上春樹は優れた作家だが、晩年(?)になって、早稲田大学構内に『村上春樹ライブラリー』を建設してもらったり、雑誌で特集号を組んでもらうというのはいかがなものかと思う。

                            2023年1月14日

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