遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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堀田善衞『方丈記私記』(「文学表現と思想の会」へのリポート)

2014-08-13 21:42:58 | 読んだ本
            堀田善衞『方丈記私記』            松山愼介
 堀田善衞は東京大空襲と『方丈記』を結びつけた。しかし三木紀人(すみと)『鴨長明』(創元社)によると、関東大震災後にも、震災から何を学ぶかという議論において『方丈記』が多く引用されたとのことである。東京大空襲は三月十日(三月九日深夜)で、空襲警報発令が零時十五分、空襲零時八分でB29爆撃機、百五十機によるものである。隅田川の両岸が焼かれ、隅田川に掛かる橋には両岸から避難民が殺到し、身動きできない状態であった。火勢は強く、火は一気に橋を走り(合流火災)、橋の上にいた人々はほとんどが焼死したという。アメリカは日本の木造家屋を効率的に炎上させるために、非人間的な日本向け油脂焼夷弾を独自に開発、使用した。屋根を貫通させるために垂直に落下するように焼夷弾にはリボンがつけられた。このリボンが燃え、花火のように見えたという。焼夷弾の直撃でも多くの死者がでた。この開発の指揮を取ったのはカーチス・ルメイである。彼は日本の航空自衛隊の育成に貢献したとして、一九六四年十二月七日「勲一等旭日大綬章」を受けている。
 この『方丈記私記』のハイライトは作者が三月十八日に焼け跡を視察する天皇を偶然、見る場面である。作者は朝七時半ごろ、知り合いの女の安否を確かめるために富岡八幡宮のあたりを通りかかり、へんに警官や憲兵が多いことに気づくが、焼け跡を前にして、行く当てもなく木場、洲崎のあたりまで歩いて行き、九時ごろ富岡八幡宮跡へもどってくる。州崎には何度か職業野球を見に行ったことがあると書いている。後楽園球場ができるまでは洲崎で職業野球が行われていた。州崎には遊郭もあった(戦後の光景は川島雄三監督『洲崎パラダイス赤信号』が有名)。この遊郭は昭和十八年に閉鎖され軍需工場になったということである。戦後、すぐ復活し赤線廃止までにぎわった。もどってくると焼け跡は整理され、憲兵が警戒するなかを《小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た》。堀田はこの天皇の車の行列を《生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった》と書いている。焼け跡を片づけていた人たちが天皇の前に土下座し《陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ない次第でございます》と口々に小声で呟く光景を見たのである。このことは翌日の新聞に《御徒歩にて焦土を臠(みそな)はせ給ふ》という見出しがつき、写真入の記事で、ほぼ一面のすべてを占めていた。
 この場面をよく読んでみると、堀田は憲兵を避け、二百メートルほど離れた、なにかの工場跡のコンクリート塀のあたりから、天皇と人々の光景を見ている。とするとこの人々の呟きが実際に聞こえたのだろうかという疑問がわく。堀田がこの作品を書いているのは、実際にこの光景を見てから二十五年後である。つまりその当時の感情そのままを二十五年後に書き記すことは不可能であるので、この記述には堀田の戦後二十五年の歴史が含まれていると考えられる。《生理的に不愉快》という感情も、二十五年後に思い出して不愉快だったとも考えられる。天皇に対する批判的言辞だけでなく、一方では《私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでのいわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさもまた、同じく私自身の肉体のなかにあった》とも書いている。このような思考の遠近感は吉本隆明にもあったと絓秀実は『吉本隆明の時代』で指摘している。戦後すぐ『文学における戦争責任の追及』を書いたのは「新日本文学」による小田切秀雄であるが、この追及は、追及する側に本当に戦争責任がなかったのかという、追及する側の資格を問われ腰砕けに終わった。一方この十年後、吉本隆明は戦中の自らを《皇国少年》であったと全面にだし、全く戦争責任がないという架空の立場を設定して戦略的に《戦争責任論》を展開した。
 堀田は大火災や大地震にもかかわらず、新古今を中心とする和歌の世界に興じている宮廷文化を批判している。鴨長明も千載和歌集に一首、取り上げられたことが無上の喜びとなり、『新古今和歌集』の編纂に際しては百首を集めた『鴨長明集』を編んでいる。そのかいあって十首が『新古今和歌集』に取り上げられている。ところが下鴨社の禰宜の人事をめぐって後鳥羽院に見放され出家することになる。堀田の結論はこの宮廷美学を認めながらも《認めた上で長明とともにかかる「世」を出て行く。無常の方へ行く。それが逃避であると見える人は、この国の業の深さを知らない人なのだ》(P229)ということになろうか。『方丈記私記』は焼け跡での天皇の姿からはじまって、単線的に天皇制を批判しているものだと思っていたが、意外に堀田は懐が深いと思った。        2014年8月9日

  松井博之『<一>と<二>をめぐる思考――文学・明治四十年         前後』について

2014-08-03 20:57:05 | エッセイ
 
 二年前に四十五歳で、脳出血により急死された松井博之さんの遺稿集『<一>と<二>をめぐる思考―文学・明治四十年前後』が乾口達司氏の編集により文芸社からこの程、出版されました。彼の死を知らされて、とりあえず同人誌「春風」に書いた追悼文を掲載します。(Amazonで購入することができます。)    



 松井博之さんの思い出        松山愼介

 松井博之さんは『<一>と<二>をめぐる思考―文学・明治四十年前後』で「新潮」評論部門の新人賞を受賞された。明治期の文学をあまり読んでいない私にとって、この論文は難解であった。私が彼を知ったのはその前後のことである。確か「文学表現と思想の会」に友人の紹介で出席された時のことだったと思う。
 新人賞受賞後の第一作は「<観点>について――吉本隆明論」(『新潮』二〇〇五年十二月号)であった。私はその頃、吉本隆明に関する勉強会をしていたので、松井さんに勉強会に来ていただき、この論文をテキストに論議したこともあった。私達の世代の吉本隆明の読み方は、「吉本と対幻想の関係にならなければ吉本を理解できない」といわれたこともあったように、吉本の姿勢といったものに対する共感を第一としていた。しかし私よりも十五歳位若い松井さんの論考は、吉本の多くの著作のなかでも、ポイントをとらえ、吉本の使う概念の揺れを鋭く指摘したものであった。
 その頃、私もうまく松井さんに反論ができなかったが、今は反論できるような気がしている。吉本の使う概念は、一つの言葉に一つの意味が対応していない。たとえば「自己表出」という概念があるが、これは人間が、始めて言葉を発しようとしたとき、沈黙から出てくるうめき声のようなものである。ところが吉本は論を進めて、文学作品を「自己表出」と「指示表出」の織り成すものであるという。「自己表出」は人間内部から表出されるものであり、「指示表出」は意味として使用されているものである。最初の「自己表出」は言葉としてよりも、言葉が出る前の段階、沈黙に重点が置かれている。ところが後者の「自己表出」は文学作品に使われている言葉のなかの自己表現、自己表出の割合の尺度として使われている。松井さんは、この吉本の使用する言葉の概念の揺れを鋭く見抜かれたのであったが、しかしそれを私のように、概念の発展として捉えずに<観点>の揺れとして読まれたのであった。
松井さんの吉本論は丸山真男の<観点>「民権と国権という要素が『対立しながら統一している』明治時代」あるいは「<民権/国権>/国権というレヴェルの異なる二項図式を前提とした<観点>」から、吉本を「自身の<観点>を決して持とうとしない。逆にいえば、一つの固定的な<観点>に立脚することを拒むために、考え得る全ての<観点>を抱え込もうとしているようだ」と批判している。私はこう言われても、吉本の「全ての<観点>を抱え込もう」とする情念を込めた姿勢に共感する。思想は論理ではなく、情念を含めた全体的なものではないのかと。しかし、このような論議を松井さんとする機会はもはや失われてしまった。
                                2012年10月11日