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森崎和江『からゆきさん』を読んで

2015-12-17 21:51:50 | 読んだ本
        森崎和江『からゆきさん』            松山愼介
 一九六〇年代の学生運動において、吉本隆明は世界認識や思想の分野において大きな影響力を持った。一方で谷川雁は組織論、運動論の面において吉本に劣らないほどの影響力を持っていた。そのパートナーが森崎和江であった。谷川雁は三井三池炭鉱の争議が総評によって敗北的に収拾されたあと、大正炭鉱において大正行動隊を組織し、大正炭鉱闘争を最後まで闘いぬいた。吉本隆明はこの闘いを《谷川雁がいま大正炭鉱でやっていることは壊滅の敗軍のしんがりの戦いです。敗けるに決まっていると知りながらやっている。……彼がやっていることが終った時、運動の痕跡さえも終った時だ……》(一九六二年末)と評価した。
 谷川雁は自己を《大衆に向っては断固たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者》と規定した。大正行動隊の組織論はあくまで労組から自立していること、成員の所属は登録制ではなく、みずからが全力をこめてその組織に属すると自覚し、または自称するときの自己認識だけがそれを規定する。この組織論を引き継いだのが全共闘運動であった。つまり学生自治会民主主義にとらわれず、闘いに集まった者がすべての問題を決定し行動するのである。
 谷川雁は一九五五年ごろ詩誌『母音』を通じて森崎和江と知り合い、「この人は僕と一緒に仕事をする人だ」と直感し強引に口説き落とし、一九五八年夏には福岡県中間市の炭鉱住宅、上野英信の隣の家に移り住むことになる。森崎和江はしばらくは、夫の住む家と、谷川雁の家を往復していたということだ。ここで谷川雁、上野英信、森崎和江らによって『サークル村』が創刊される。この『サークル村』は三年で自壊するのだが、ここに石牟礼道子が一九六〇年一月に『奇病』(水俣湾漁民のルポルタージュ)を発表しているのは注目されてよい。ちなみに谷川雁も水俣の出身である。結果的に『サークル村』のメンバーは、谷川雁、森崎和江をはじめとして、大正炭鉱闘争を担う大正行動隊の中心メンバーとなっていく。一九六五年ごろ、大正炭鉱闘争の終息とともに谷川雁と森崎和江は袂を分かち、森崎和江は『からゆきさん』など流民を主題にした作品を書いていくことになる。
私は森崎和江が一九七六年にこの『からゆきさん』を発表した時、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』(一九七二年)というすぐれた作品があるのに、なぜ二番煎じの作品を書いたのかという疑問を持っていた。今回、あらためて調べてみると、この『からゆきさん』の原型となった作品を森崎和江は『ドキュメント日本人5 棄民』(一九七〇年)に『からゆきさん―あるからゆきさんの生涯』という題名で書き下ろしで発表している。これは単行本『からゆきさん』の「おヨシと日の丸」の部分にあたっている。『サンダカン八番娼館』を再読すると、山崎朋子は森崎和江の『あるからゆきさんの生涯』を読み、森崎和江に助力を頼むことも考えたが、自力で《研究者もジャーナリストの誰ひとり訪ねたことがなく、しかも文字どおり地を這うように生きてきた海外売春婦に逢いたかった》と書いている。
 私が最も感動したドキュメンタリー作品は石牟礼道子の『苦海浄土』(一九六九年)であるが、二番目は『サンダカン八番娼館』であった。この作品は栗原小巻、田中絹代で映画化されたこともあって、すごく印象に残っている。ちなみに田中絹代という大女優を見たのはこの映画が初めてであった。すぐれた作品ではあるが『サンダカン八番娼館』を再読すると、からゆきさんだった、おサキさんが語るという方法は石牟礼道子のものであり、主題は森崎和江のものであることがわかった。ただ森崎和江が「おショウバイ」と書いているのが「商売」のことかと思ったが、山崎朋子では「お娼売」となっていて納得した。
『サンダカン八番娼館』での先入観で、からゆきさんの出身地は天草、行き先はボルネオ等の東南アジアと思っていたが、森崎和江『からゆきさん』では、もっと幅広く、女性の誘拐、売春だけでなく、男性を含む労働力の海外への人身売買として捉えられている。出身地も全国にわたり、行き先もシベリア等の広い地域になっている。歴史も江戸時代から考察されている。《わたしは当分のあいだ、明治の新聞を読むことにきめた。明治人としてその世間を呼吸しないことには、わからぬことが多すぎる》として、「福岡日日新聞」、「門司新報」を読み、「密航婦」としての娘たちの実態を調べていくところは探偵小説を読むようである。「おろしゃ女郎衆」では長崎丸山遊郭での検梅の起源が細かく書かれている。これは万延元年のことである。ロシア船員を相手にするために必要とされたのである。
 明治三十七年の日露戦争の頃から、日本の海外進出にともなって、朝鮮、清国へのからゆきさんの誘拐密航が激増してゆく。山崎朋子に比し、森崎和江の視野が広いのは、彼女が十七歳まで朝鮮で育ったことに関係があると思われる。現在、東南アジア、南米方面から豊かな日本へ出稼ぎに来る女性たちが「じゃぱゆきさん」と呼ばれているのは歴史の皮肉であろうか。
                                    2015年10月10日


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