遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

野上弥生子『海神丸』を読んで

2016-07-13 10:36:28 | 読んだ本
          野上弥生子『海神丸』            松山愼介
 日本でラジオの天気予報が始まったのは大正十四年だそうだ。この作品のモデルとなった高吉丸事件は大正五年十二月二十五日から、二月十九日にかけてである。当然、天気も船長の空を読む感に頼っていたと思われる。そうなれば、思いがけない低気圧に巻き込まれれば遭難はあり得る話である。野上弥生子は弟・小手川武馬から「毛筆で巻紙一丈(三、三メートル)あまり」の事件の詳細を書いた手紙を大正九年頃受け取り、それを材料に『海神丸』を書き上げた。小手川武馬は高吉丸の船長・渡辺登久蔵から他言無用という条件で話を打ち明けられたのだが、それを姉の役に立とうと長文の手紙にしたのであろう。野上弥生子は《南九州の故郷の町に近い下ノ江と呼ぶ漁村から出航した六十トンのスクーナー船が、漂流の間に引き起こした恐ろしい出来事を、生家の弟が伝えてきたメモにもとづいてわずか虚構化したに過ぎず、船長、若い甥、それを食おうとして殺した二人の船頭、すべてが実在の人物である意味で、私にはたった一つのモデル小説である》と書いている。
 渡邉澄子はこの船長・渡辺登久蔵に直接取材し、その内容を『野上彌生子 人と文学』に書いている。それによると船長は当時、三十歳、三吉は対堂で十七歳、五郎助は若林勝吉で二十五歳、八蔵は渡辺志華太で十九歳であった。船は四千三百円で買い、千五百円の船体保険をかけたという。小手川の家の味噌醤油を小倉に運ぶ仕事をしていたということで、野上弥生子の実家との繋がりがあった。その日は下ノ江から日向の油津までの航海で、朝発てば午後二時に着くほどだったので、米も新たに積み込まず、前の航海の余りだけの一俵だけしか積んでいなかった。志華太は家でぶらぶらして金を使うばかりだったので、性根を叩き直してほしいと頼まれて連れて行ったという。この取材の核心は三吉を二人の船員が殺した理由である。この殺人事件は港を出て二十日目くらいにおこった。残った八升の米を分けた直後だったということで、食糧も尽きてはおらず、船長は三吉を殺すことによって、彼らの分け前を増やすことが目的だったとしている。船長が三吉の姿を探した時には、すでに海になげこまれていたという。船長はカニバリズムを否定しているわけである。これが船長が取材に応じた理由であろう。もちろん、真実は神のみぞ知るということになる。
 新潮日本文学アルバム『野上弥生子』でこの作品が、一九六二年に近代映画協会、新藤兼人監督で『人間』というタイトルで映画化されていることを知った。新藤兼人は一九六〇年のセリフのほとんどない『裸の島』で多くの賞を獲得している。船長に殿山泰司、五郎助に乙羽信子、八蔵に佐藤慶、三吉に山本圭という出演であった。この作品は殿山泰司の唯一の主演作と言われているがクレジットは乙羽信子が一番先であった。五郎助が女性であるということに違和感があったが新藤兼人作品なら止む得ないだろう。五郎助は救助されてから慶津丸の船倉に転落して死に、八蔵は三吉の殺人がばれるのを恐れて、ナイフで腹部を刺して海に飛び込み、自殺する。映画を見ていて気がついたのだが、金毘羅様を観世栄夫が演じている。
『海神丸』はカニバリズム小説の先駆けとされているが、実は海の男達の金毘羅信仰の物語ではなかったか。船長の渡辺登久蔵は体力を回復して歩けるようになるまで三年以上かかったという。彼は自分が助かったのは金毘羅様のおかげと信じており、歩けるようになってからは年二回の例祭には十年間欠かさずお参りにいったという。当時は、板一枚底は海で金毘羅信仰にすがるしかなかったのであろう。この『海神丸』のモデルになった高吉丸は物産を運ぶ船だった。これが漁船だったならば、簡単ではないだろうが魚を捕って食料にすることもできたのではないか。
 最後に野上弥生子がこの高吉丸事件を小説化するに際して題名を海の神の『海神丸』とつけたのは見事である。これが平凡な題名なら世の注意をひかず、野上弥生子の出世作とはならなかっただろう。
                         2016年6月11日

『海神丸』は大岡昇平『野火』や武田泰淳『ひかりごけ』を読んだあとではあまり感銘を受けなかった。発表順は逆なのだが。
野上弥生子はギリシャ神話の翻訳なんかもやっていたので、海神(ネプチューン)という題名がすぐ浮かんだろう。あと『ひかりごけ』の登場人物が八蔵、五助となっていて『海神丸』を意識しているらしい。ただこのような実話を小説にすることの困難さを感じた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿