goo blog サービス終了のお知らせ 

遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

大原富枝『アブラハムの幕舎』を読んで

2020-01-21 20:10:52 | 小説
          大原富枝『アブラハムの幕舎』           松山愼介
 高知県にある大原富枝の顕彰碑には、「―わたしはこの作者こそ『1人居て喜はば2人と思うべし。2人居て喜はば3人と思うべし。その1人は』わたしです、と言える人ではないかと思った」という吉本隆明による碑文が刻まれており、作品を通して富枝の人間性を見極めている。遺言により吉本隆明の著書『最後の親鸞』と共に富枝はここに眠っているという。大原富枝と吉本隆明の交流は、富枝の著書『アブラハムの幕舎』を機に深まった。富枝が唯一信頼したのが吉本隆明。吉本が作家として高く評価したのが富枝である。遺言により吉本の著書『最後の親鸞』と共に富枝はここに眠っているという。吉本隆明が大原富枝の碑文を書くほど評価していたとは全く知らなかった。あるいは、クリスチャンの大原富枝が吉本隆明に依頼していたのか。
『1人居て喜はば2人と思うべし。2人居て喜はば3人と思うべし。その1人は』わたしです、というのは、親鸞の言葉だそうだ。
「私の寿命もいよいよ尽きることとなった。阿弥陀仏に救い摂られている私は、臨終と同時に弥陀の浄土に往生させていただくが、和歌山の片男波海岸の波が、寄せては返し、寄せては返すように、親鸞も一度は浄土に往生するが、すぐこの娑婆世界に戻ってきて、苦しむ人々に弥陀の本願、お伝えするぞ。だから一人で仏法を喜んでいる人は、二人だと思ってもらいたい。二人で仏縁を喜ぶ人あれば、三人だと思ってもらいたい。そのもう一人とは親鸞だ。私が死んでも仏法は永久に尽きることがない。苦しみ、悩む衆生がいる限り仏法は永遠に尽きない」
 つまり、吉本の碑文が言いたいことは、大原富枝は親鸞のような人だったということだろう。吉本の『大衆としての現在』では、「‶イエスの方舟〟と女性たち」という章があり、千石イエスの「方法の中心は何かっていうとね、受動性ってことです。集団の組み方が、来るんなら来てもいい、もちろん出ていってもいい、つまり、おもしろくなくなったら離れていいっていう受け身ですね」、「僕のわりに好きな思想家の親鸞と似てて、親鸞っていうのはやはり受動性ですね」、「親鸞になると、人は煩悩具足の凡夫にすぎないんだからって、まったく強制しないし、念仏を信じられようがられまいが、面々のおはからいだというふうにいいますし、僕はわりと好きなんです」と、述べている。
 芹沢俊介の『「イエスの方舟」論』によれば、「イエスの方舟」は昭和五十三年四月から約二年間にわたって逃避行を行うが、その資金は二十年間かかって貯めた一千万円と、信者が家を売った千五百万円の二千五百万円だった。一行は総勢二十六人(若い女性十一名、中年婦人八名、中年男性四名、青年一名、子ども二人)である。移動にはキャンピングカーを使ったということだ。最終的には彼女らはテレビのワイドショーに登場した。結果、「イエスの方舟」は千石剛賢という聖書の読み手のもとに救いを求める若い女性が集まったということで、マスコミが期待した淫祠邪教ではなかった。
 大原富枝が「ただここには学問のある者や、有能な人間や、社会的地位のある者はおりません。そういうものを何一つ持っていない者たちだけが集まっているのです。いわば信仰の落ちこぼれが集まってくるのです」と書いているのを受けて、芹沢俊介は「イエスの方舟の女性たちが落ちこぼれであるということは、彼女らが社会や家庭で女性であることが不可能な状態をさしている。女性であることが不可能であると感じているのに、女性であることを強いられた、それゆえ彼女たちは社会や家庭を離脱しようとしたのである」と書いている。
 祖母を殺して自殺した少年、イエスの方舟を訪れたが救われず自殺した婦人というのは実話だということだ。ただ、田沢衿子がアブラハムの幕舎の信者となって、物語が展開していくのかと思ったら、久万葉子だけがアブラハムの幕舎へ行き、衿子は一人、「負の世界」で生きる決意をするのだが、偶然「グループ・風」の中で生きることになる。ここの展開はうまくいきすぎると感じた。榊原が絵を買うのも出来すぎている。関志奈子と名乗って生きるのも大変だろう。住民票がなくては働くこともできない。作者が衿子を「負の世界」で生きさせようとする意図はわかるがあまり現実感がない。
 小川国夫に『エリコへの道』という作品があるので、衿子は「死海から続く地溝帯、ヨルダン大峡谷帯にあるエリコ」から取っているのかと思う。
                     2019年5月11日

 松山愼介著『「現在」に挑む文学』発売のお知らせ

2016-12-31 17:47:43 | 小説
 
 松山愼介著『「現在」に挑む文学』が響文社から出版されます。正式には1月13日の発売です。村上春樹、大江健三郎、井上光晴を取り上げました。このなかでも『村上春樹と「一九六八年」』は村上春樹の学生運動体験に焦点を当てています。一九六八年を体験した人にも、体験していない若い人にも読んで頂きたいと思っています。一応、文芸評論になるかも知れませんが、作品を体験的に読むことで分かりやすく書いています。大江健三郎は現在の大江からは考えられないほど過激だった一九六〇年前後、当時の社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢に同化した作品『セブンティーン』を中心に分析しました。井上光晴は谷川雁とのかかわりから初めて井上光晴の共産党、原爆、体験を分析しました。




















澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』を読んで

2016-06-03 11:13:01 | 小説
          澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』     松山愼介
 澤地久枝を最初に読んだのは『烙印の女たち』(一九七七)であった。その中の、克美しげるの章は衝撃的だった。一九七六年、羽田空港に停めてあった車のトランクから女性の死体が発見された。トランクから滴る血で発覚したこの女性の死体は、克美しげるが処分に困ってトランクにいれたままにしていたのだった。この事件は、再デビューに賭けていた克美しげるが、つきまとう愛人をやむを得ず殺したということになって、減刑嘆願が多くよせられ同情をひき懲役十年という判決となり、七年で仮出所したというものであった。ところが澤地久枝のこの本によれば、借金に困った克美しげるが銀座のホステスに結婚をエサに、お金を貢がせたうえ、再デビューの邪魔になったので殺したという全く身勝手な殺人事件だった。克美しげるはこのホステスを繋ぎ止めるために妻子がありながら偽装結婚式まであげていた。一方で、女性の方は、ホステスの稼ぎでは、克美しげるの要望にこたえられなくなってソープで働いてまで貢いでいた。総額は三千五百万円というから、当時として莫大な金額である。最初の作品が『妻たちの二・二六事件』であるように、澤地久枝は見棄てられた女性の立場をえがくことがテーマとしているようである。
 沖縄密約事件は、山崎豊子が『運命の人』という小説にし、数年前、本木雅弘、真木よう子でドラマ化された。この『運命の人』によれば、裁判にあたって西山側は蓮見喜久子をかばうことにしたらしい。つまり、蓮見を証人尋問すれば、西山に有利になることがわかっていても、あえてそれをしないということだった。検察側の「ひそかに情を通じて」という言葉が一躍有名になったが、このドラマでも西山と蓮見が「どっちが先にパンツを脱いだかが問題なんだ」というセリフがあった。つまりどちらが誘ったかという点である。この点について西山側はあきらかにしなかったため、どちらが誘ったかは不明であったが、『密約』では蓮見喜久子が誘ったように書かれている。『密約』では蓮見喜久子は法廷では、徹底して西山記者に騙された悲劇のヒロインを演じながら、法廷外では、親しい人と談笑していたという場面が印象的だった。
 西山記者が暴いた、沖縄返還にあたっての密約は二十五年たってアメリカ側の文書が公開され、また当時の外務省アメリカ局長吉野文六が密約の存在を証言したため、依然として日本政府・外務省が否定しているものの密約があったことは事実である。ところがこの密約は金額にして四百万ドル(十二億円)で、沖縄返還にあたって動いた全体の金額からすれば少ないものであった。当時の佐藤政権からすれば、この密約は暴かれたとしても、それほど打撃にならなかったように思える。佐藤政権からすれば、西山記者と蓮見事務官が男女の関係になっていたことは好都合であった。見事に、沖縄密約問題を「ひそかに情を通じた」男女の外務省機密漏洩事件にすり替えたのである。それにしても、西山記者と蓮見事務官の個人的事情はわからないが、情報源の女性と関係を持ったのは軽率であった。また国会質問において、この電信のコピーを明らかにしてしまった横路孝弘が以後、のうのうと衆議院議長をつとめ、現在も衆議院議員であり、民進党最高顧問というのは驚きである。
 一九七二年五月十五日に沖縄返還があり、その直前の四月四日に二人は逮捕されている。私が大学を卒業したのは一九七一年だが、当時の首相・佐藤栄作が沖縄返還交渉を本格的に始めたのは一九六八年から一九六九年頃と思われる。この佐藤政権の動きに対して、それなりに協調行動をとってきた三派系全学連が沖縄問題について鋭く対立し、「沖縄闘争勝利」という内容のないスローガンしか打ち出せなかった。A派は社会党、共産党の「沖縄返還」あるいは「沖縄本土復帰」というスローガンに対し、「沖縄奪還」を掲げ人民の主体性を強調した。他党派は「沖縄の核基地付き返還策動粉砕」というものであった。A派は取り敢えず沖縄が本土復帰することが沖縄人民の利益であると考えた。他党派は沖縄人民の利益よりも、本土のアメリカ軍の基地機能が強化されることを阻止することを第一義に考えた。映画『ノルウェイの森』で、A派と対立する党派が「沖縄奪還」と叫んでいたので苦笑したことがある。
(この時の沖縄問題の理解についての反省が「異土」8号の『沖縄の文学的考察』になっています。)
『密約』の最後で澤地久枝は自分の取り上げた密約は氷山の一角にすぎないとしている。日本人も佐藤栄作の「非核三原則」、「事前協議」などは誰も信じていなかった。沖縄の米軍基地には実際に戦術核兵器があったし、核兵器を搭載した艦船が岩国に入港していたことも明らかになっている。現在では必要性が薄れたので艦船には核兵器を積載しているであろうが、日本国内の基地に核兵器は置いていないらしい。またこの本に触発されて、西山太吉の『沖縄密約』も読んだ。それでわかったことは一九六〇年の岸内閣による安保条約の改定ではアメリカ軍基地の使用は「極東」の範囲と限定されていた。ところが現在では日本国内のアメリカ軍基地は完全に自由使用になっている。
 沖縄返還も結局は、アメリカ軍が根拠なく占領し続けた沖縄を日本がお金で買い取ったものであった。しかもそれは、必要な金額を積み重ねていくのではなく、アメリカの要求する「つかみ金」という、どんぶり勘定を受け入れるものであった。そのためにこの「つかみ金」を正当化するために、日本はお金を払うから、アメリカには、その事実を黙っていてくれという密約が多くかわされた。このような方式を日本が受け入れたことによって後の「おもいやり予算」につながり、アメリカ軍の駐留費用のほとんどを日本が負担することになり、普天間基地撤去といいながら、日本のお金で辺野古に巨大な新基地を造ることになろうとしている。沖縄の海兵隊のグアム島移転もアメリカの世界戦略上の必要であるにもかかわらず、日本に移転費用を押し付けようとしている。政治評論家の青山繁晴によれば、日本のアメリカ軍家屋の光熱費はすべて日本側が負担している。そのため極端な例をあげれば、一カ月家を開けたとしてもエアコンはつけっぱなしでいるそうである。
 このような歪な日米関係になってしまったのは、アメリカによるマッカサー憲法の押し付けと、一九五一年のサンフランシスコ講和条約にある。日本政府も日本の安全保障がアメリカの軍事力(特に核兵器)に依存しているために、アメリカの言い分を飲まざるを得ないのである。いわゆる「安保ただのり論」である。ここから日本の国論は、護憲派、アメリカ追随派、自主防衛派に分かれているのが現状であろう。佐藤栄作は「沖縄の返還がない限り日本の戦後は終わらない」と言ったが、現在も戦後は終わっていないのである。
                              2016年4月9日  


「アメリカによる憲法押し付け論」に関しては「報道ステーション」で古舘伊知郎が辞める前に、「憲法九条」は当時の首相・幣原喜重郎がマッカーサーに申し入れたものであるという説を強調していた。この「憲法九条」は「パリ不戦条約」が元になっており、学会でもマッカーサー案、幣原喜重郎案と依然から知られていたものである。幣原喜重郎が申し入れたものであったのか、マッカーサー(アメリカ)が日本の軍事力を全廃する政治的意図を持ってすすめたのか、今となっては明らかにする術はない。アメリカから新憲法草案を見せられた吉田茂も白洲次郎も非常に驚いているから、この幣原喜重郎提案を知らなかったと思われる。ただ明らかなのはアメリカの占領期間中に、天皇制の存続と引き換えに新憲法が成立させられたことだろう。同時に沖縄はアメリカの占領が続き、新憲法の適用外となったことを忘れてはならない。
 一方でドイツは占領期間中に憲法を作ることを拒否している。ドイツの憲法には「連邦は防衛のために軍隊を設置する」と明記されている。但し、このためにドイツはアフガニスタン派兵を余儀なくされ、五十数名の死者を出している。
 

水上勉『金閣炎上』を読んで

2016-03-05 10:39:54 | 小説
           水上勉『金閣炎上』         松山愼介
 水上勉作品は『湖の琴』を高校生の時に読んだことがある。悲しい物語で救いがなかった記憶がある。映画では『五番町夕霧楼』、『雁の寺』、『飢餓海峡』を見ている。『五番町夕霧楼』の最後の方の場面に、林養賢をモデルにした坊主が出ていたのには気がつかなかった。
『金閣炎上』は、どちらかというとノンフィクションである。水上勉は幼いころお寺に小僧として修行に出され、住職の妻や子供の下着の洗濯をやらされたりして逃げ出したことがある。水上には本来禅宗の僧侶は妻帯すべきでないという思いがある。妻帯するのであれば浄土真宗に行くべきだと考えている。『雁の寺』は禅寺の住職の腐敗をえがいている。住職は酒色におぼれていた。映画は監督川島雄三で、住職役の三島雅夫、妻(愛人?)役の若尾文子、小僧役の木村功も好演であった。これはおそらく自身の体験がもとになっていると思われる。この体験から水上は禅寺の内部事情を知っており、それに批判的であった。
『金閣炎上』は、水上の体験を金閣に火をつけた林養賢に投影し、彼が犯行に及んだ事情を知るべく様々な調査をして書き上げた力作である。この作品には戦争が影を落としている。戦争のために、修行僧が応召、戦死したり、還俗したりしている。この時期、「坊主も神主も霊魂の守りをして遊んでいられる時期でなかった」のである。だが、戦争で人手がたりなかったので、林養賢も弟子入りすることができたのであろう。
 閑雅に敗戦を迎えた金閣寺が、九月初めに思わない混乱に巻き込まれた。「東山工作」とよばれ、中国南京政府主席陳公博の亡命生活を引き受けたのである。連合軍に極秘で亡命庇護がなされた。食糧事情が悪かったが三好知事の指示で食糧が調達された、また池の鯉を殺して食ったという。この一行は金閣寺でわが物顔に過ごしマージャンばかりしていた。このとき林養賢はいなかったが話を聞いて「長老はんも、恥ずかしいことを受け負うわはったな」とつぶやいたという。東山商店一行が退山した十月一日には本山で「今上天皇の長寿を祝う読経」が行われた。戦争に負けて、天皇の神秘性がなくなり、天皇も神から人間に降下し、やがて新憲法も発布されようとする時節であったが、寺では相変わらず戦時中の行事を行っていた。
林養賢は大谷大学予科に入学したが、三年生の昭和二十四年になって急に成績が悪くなる。戦争中、金閣寺は拝観収入が少なかったが戦後、収入が増え 五百万円になったという。しかし、慈海師は徒弟に百円しか小遣いをわたさず、その他の生活の面でも吝嗇であった。大学の制服も新しいものを与えず、自分の着古した服を与えた。寺の経営は僧ではない執事、福司(ふうす)に任されていた。林養賢はこのころから金閣寺の拝金主義と、慈海師、寺の経営に対する批判意識が芽生えたのであろう。金閣寺に火をつけたのは 七月二日だが、六月十日には金閣寺裏の板戸の釘を抜いているので、約一カ月前から犯行を計画していたのであろう。この間に、父親の服を売ったり、蔵書を処分したりして五番町の遊郭に登楼している。この蔵書の中にスタンダールの『赤と黒』があっていたというのも興味深い。
 林養賢の供述には、収入の多い金閣を支配しながらも、禅僧としてのたてまえを言い、酒を注ぎにこさせて説教する和尚への反感があふれている。このような和尚と金閣寺がいやになったのだろう。住職になれる望みもなくなり、雲水にもなれず還俗もできない彼に残された道は金閣寺を焼くことであった、というのが水上勉の結論である。もちろんこれに吃音と結核という肉体的条件もつけ加えねばならない。「金閣が美の極致だから一人占めしたい、あるいは復讐したかった」という動機を否定しているのは、三島由紀夫の『金閣寺』を意識しているのだろう。
三島由紀夫の『金閣寺』は観念的な作品だと思っていたが、今回読み返してみると、詳細にこの事件のことを調べている。林養賢の成績の低下や、金閣寺の最新式の火災自動警報機のことも書かれている。三島由紀夫は林養賢が最後に金閣を眺めた時の情景を描いている。この四ページにわたる描写は圧巻である。    
「……そして美はこれら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた ! それは濃紺地の紙本に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のように、無明の長夜に金泥で築かれた建築であったが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。……」
 水上勉の『金閣炎上』はノンフィクションとしては力作であるが、やや形式的という謗りを受けるかもしれないが、文学作品としての三島由紀夫の『金閣寺』も捨てがたいものがある。
                                2016年2月13日




十月八日

2014-12-26 09:58:38 | 小説
           十月八日            
                                   松山愼介

 勇利が初めてデモに行ったのは高校三年の時だった。同じクラスの山下に誘われたのだった。その頃の高校生は三つに分かれていた。勇利の高校では、百人くらいが成績優秀な生徒で受験勉強に励んでいた。成績でいえば下位の百人くらいは受験勉強をして一流大学をめざすことを放棄して、自分の趣味に走ったり、怠惰な生活をおくっていた。一番多い、中間層は受験勉強に疑問をもちながらも、ある程度、勉強しまあまあの大学に入れれば良いと考えていた。
 勇利の成績は中位であったが、受験勉強一辺倒の学校の方針には反感を持っていた。その反感は、往々にして社会や家庭に対する反感と重なった。つまり、高校生にとって、ものすごいと感じる抑圧感がどことも知れぬ方角からやってきていた。クラブ活動においても、抑圧感は解放されることはなく、逆に顧問の教師や上級生からプレッシャーを与えられた。このような抑圧感を感じていた時に、山下からデモに誘われたのだった。成績も上がらないし、社会に対して反感を持っていた勇利は自然とその誘いに応じていた。初めてのデモは確か、一九六六年の十月二十一日の国際反戦デーだったと思う。ベトナム戦争反対がスローガンだった。E市のデモは、北のG公園に集まり、そこから南下してM百貨店そばの空地で解散となる。デモは四列か五列の縦隊を組み、交差点に差し掛かるとジグザグデモを試みる。そうはさせじと、横で並進規制をやっている機動隊ともみ合いになる。
 高校生は列の内側に入り、機動隊と接する外側は大学生が入る。交差点にかかると、指揮者の笛で、デモ隊は腰を低く落としスクラムを固める。そこから指揮者の笛に合わせて、道路の外側へ外側へと、機動隊を押していく。機動隊はそれを押し返しながら、外側のデモ隊員に殴る蹴るの暴力をはたらく。これに抵抗して機動隊員を殴ったりすれば公務執行妨害で、即、検挙となる。デモが解散となると勇利は、それまでにない爽快感を味わった。「世直し」というような言葉も頭をよぎった。とりあえず、自分が正しいことを行動において示しているのだと実感できた。何よりも機動隊と直接、やりあうので反権力意識が満足させられた。

 そのようにして、二、三回高校時代にデモを経験したが、それ以上のことはなかった。とりあえず一応、受験勉強をして、自分の学力に合った地方国立大学に入った。この大学でも二、三回、デモに出た。アメリカによるベトナム戦争が激しさをまし、それにつれて反戦運動が高揚しつつあった。二、三回、デモに出たあとのある日、勇利は一年上の八坂に呼び出された。それは党派、T派に入らないかという話だった。きちんと党派の一員となって、理論武装し、組織される側から、組織する側になってみないかというものだった。勇利はそのような党派があるだろうという予測はしていたが、話があまりに唐突だったので、その時は断った。
 次のデモの時だった。勇利はたまたま、一番外側の機動隊と接触する側にいた。歩いていて、勇利がつまずいた拍子に横の機動隊員と足が接触した。勇利はいきなりデモの隊列から機動隊員によって引きずり出され検挙された。警察で取り調べの刑事が言うには、勇利が機動隊員の足を蹴ったという公務執行妨害であった。勇利はあくまで、蹴ってはいないと否定したので、三泊四日で釈放された。勇利が釈放されると、さっそく八坂から連絡があった。T派の連中で出所祝いをしてくれるという。留置場を出た時は嬉しかったが別に行くあてもなく、下宿で過ごすだけだったので、飲みに誘われたのは嬉しかった。ところが、この会は勇利をT派に勧誘するためのものだった。
「君も留置場を経験したわけだ。この際、決心してT派に入って活動してみないか」と、リーダーの吉岡が言った。八坂も続けた。
「ここにいる連中でも、全員が留置場、経験者じゃない。半分くらいじゃないか。そういう意味で君はすごい経験をしたんだ」
「と、言われても、僕はT派と他の党派との区別もまだついていないんです」
「そんなのは、活動しながら勉強していくんだ。問題は君がわれわれを信頼しているかどうかということだ」
 結局、勇利は半ば強引にT派に加盟させられることになった。これには勇利の興味が先走っていたことも関係していた。今はT派のような党派も非合法ではないが、戦前の非合法な左翼組織のことを小説で読んだことがあった。そのため、党派の内実というものに興味があったのだ。勇利は高校時代から高橋和巳の小説をよく読んでいた。彼の小説は長編小説が多かった。その中でも『憂鬱なる党派』に勇利は感動した。秘密めいた活動と、主人公がどうしようない過程で破滅に進んでいく様が面白かった。ちょうど、精神の感応性が一番高く、何にでも興味がある時代に受験勉強が重なるのだった。受験勉強に専心することはこのような精神を豊かにすることから目をそらすことであった。
 T派の会議に行ってみると、メンバーは十人くらいだった。その日はとりたてて、新たな闘争課題もなかったので、勇利の加盟を承認して会議は終わった。ただそういうものかしれないが、会議の雰囲気は暗かった。勇利はもっと議論が活発に展開されるものと思っていたが、積極的に発言する者はいなかった。八坂も意外に会議ではおとなしかった。
 夏休みに、海辺の旅館で理論合宿が行われた。東京では横須賀、原子力潜水艦寄港問題とか、立川基地(砂川基地)拡張阻止とか闘争課題はあったが、勇利のいる地方では特に課題もなく、平穏に時は過ぎていった。九月になって、東京のT派の拠点校H大で自治会の役員に対する不当処分があり、大学当局の管理職を教室で追及していたところ、機動隊が導入され二百八十五名が逮捕された。これに続いて、H大ではこの闘争をめぐって他党派とも対立関係に入った。T派はH大学での単独支配を目指すことを組織決定していた。これは諸刃の剣であった。ひとつの党派が、ある大学で暴力的に一元支配を目指すと、他党派も対抗上、同じ道を辿ることになる。たとえある大学で暴力的支配に成功しても、他党派が同じ方針をとれば、T派は勢力の弱い大学から閉めだされることになる。そうすればT派の活動領域が狭くなってしまうのだ。しかし、最高幹部はH大での単独支配の道を選んだのだ。
 H大で大量逮捕の報道があった翌日、勇利はリーダーの吉岡から呼び出された。H大で活動家が足りなくなったので、東京へ行ってくれという要請だった。勇利はためらったが、高校時代の友人がH大にいることを、吉岡に以前話していたので、断りきれなかった。
 高校時代の友人の元木とは、H大のT派のボックスで、すぐ会うことができた。幸い、元木のアパートの一室が空いていたので、勇利はそこに住むことになった。といっても大学のボックスに泊まることも多かったけれども。H大のT派のボックスには二人の男が椅子に座らされ、椅子の後ろで手を縛られていた。それはB派の幹部で、H大でT派に対して、敵対行動をとったことの自己批判を要求されていた。本部から幹部がやってきて、その二人を徹底的に追及し、自己批判書を書かせるように指示した。勇利は党派間の先鋭な対立にすぐに直面して、足がふるえる思いであった。二人は解放されそうになかった。幹部から下級生は、一旦帰ってよいとの指示があった。
「何故、あんなひどいことをするんだ」と勇利は元木に聞いた。
「しかたないんだ。今は、ここで他党派を徹底的につぶして、T派の全国的主導権を獲得する段階に入っているんだ」
「党派間の闘いというのは、党派の主張を大衆に訴えて、大衆運動をどれだけ展開出来るかにかかっているんじゃないのか」
「地方ではそれでいいだろう。だが、全国的な主導権争いは東京での党派間のヘゲモニー争いで決まるんだ。俺たちもいつやられるかしれないんだ。やるかやられるかの段階なんだ」
「じゃ~あさって、十月八日の首相のベトナム訪問阻止闘争はどうなるんだ」
「そちらもH大の状況にかかわらず、T派をあげて全力で闘うという通達が来ていた」
「通達って何だ」
「お前、そんなことも知らないのか。まあ東京に動員されて来たばかりだからな。書記局通達だよ。重要な方針は書記局通達で示されるんだ」
 二人がアパートに帰るやいなや電話がかかってきた。元木によれば、再度H大に来るようにとのことだった。H大に着くともう二百人くらいが集まっていた。全員に角材が手渡され、半分くらいはヘルメットもかぶっていた。監禁しているB派の二人を奪還するためにM大に相当の人数が集結しているとの情報が入ったのだった。その日の夜にも武力衝突がありそうだという情報だった。勇利は角材を持たされたが、すぐにでも逃げ出したい気分だった。しかし、ここまで来ては逃げ出すこともできず、その夜はH大に泊まり込むことになった。
 次の日にはT派とB派とその応援部隊との暴力的衝突は必至だった。勇利は半ば覚悟を決めて、T派の部隊の中にいた。その日の内にT派の人数も他大学からの動員もあって三百人くらいになっていた。昼過ぎに新たな情報がもたらされた。党派間の話し合いがつき、二人が解放されたのだ。党派の最高幹部同士で話し合いがもたれ、ここは一時休戦して、明日、十月八日の首相ベトナム訪問阻止の羽田での闘いに全力をかけるというものだった。勇利は配給された弁当を食べながら、なにかホッとしていた。しかし、明日は明日で警察との闘いがあるのだ。
 
 あまりよく眠られないまま、次の日勇利を含むT派の部隊は、羽田空港近くのY公園に向った。そこにはすでに多くの学生が集まってきていた。T派も全国からの動員もあって五百人は軽く越えていた。他党派も含めると一千人はいた。首相のベトナム訪問は、アメリカのベトナム戦争の手先となることであり、日本がベトナム戦争に加担することになる。首相はベトナムを訪問することによって、アメリカの傀儡政権を力づけようとしている、というような内容の演説がここかしこでおこなわれた。
「首相のベトナム訪問を阻止するぞ!」
「実力で阻止するぞ!」
「羽田で阻止するぞ!」
というシュプレヒコールを何回も叫んだ後、学生達は党派ごとに隊列を組んで羽田に向った。公園の出口に百名ほどの機動隊員がいたが学生の勢いに驚いたのか、呆然したまま手を出せなかった。それまでの学生デモは素手のままで、ヘルメットなどをかぶることもなく、機動隊の隙を突いてジグザクデモをするのが最大限のことであった。ところが、この日は大半の学生が角材を持ち、半数くらいがヘルメットをかぶっていた。
 途中で石を拾ってポケットにできるだけ入れるようにという指示があった。勇利も五、六個、石をポケットに入れた。しばらく行ったところで、二、三百名の機動隊員が道路に拡がってデモ隊を阻止しようとしていた。指揮者の学生が「投石、突っ込め!」と叫ぶと、勇利達は、機動隊に向って石を投げ角材を持って走った。一瞬で勝負はつき機動隊はバラバラになった。学生のデモ隊はそのまま羽田空港に向って走った。
 羽田空港のすぐ手前には海老取川という川があり、そこに三本の橋がかかっていた。警察はその橋の上に装甲車を並べ阻止線をはっていた。装甲車の前に機動隊員がいたが、学生の勢いを見てすぐ後ろに下がった。学生達は装甲車をはさんで、機動隊に向って投石した。闘いは装甲車をはさんで膠着状態になった。そのとき元木が装甲車の運転席のドアを引っ張ると、ドアが開いたのだった。元木が「勇利、お前運転できるだろう」と聞いてきた。勇利は父の仕事を手伝うために運転免許を取っていた。勇利が黙ってうなずくと、元木は勇利の尻を押して、運転席へ座らせた。たまたま、運転席にはキーが差し込まれたままだった。機動隊員が逃げるとき慌ててキーを持っていかなかったのだ。
 勇利がキーをひねると装甲車のエンジンがかかった。勇利はギアを前進に入れて装甲車を少し前に出し、もう一台の機動隊側にある装甲車にぶつけた。装甲車をぶつけて、もう一台の装甲車を動かし道を開こうと、何度も無意識のうちに操作していた。その時、ドアをドンドン叩く音がしたので、勇利がドアを開けてみると、元木が「降りろ!」と叫んだ。学生が装甲車を動かすのを止めようとして、前に出て来た機動隊員が装甲車の間に挟まれたのだった。キーを残して逃げた機動隊員が責任を感じて出てきたのだったかも知れなかった。その機動隊員は顔面が蒼白となり、ぐったりしていた。
 学生達の間に動揺がはしった。その時、思わぬことに橋の後から、機動隊の別働隊が接近してきた。橋を渡ることばかり考えていた学生達にとって不意打ちだった。デモ隊は一気に崩れた。元木も勇利も逃げた。幸い二人とも、機動隊の隙間をついて脱出に成功した。バラバラになってH大に帰ってみると、事態は大変な事になっていた。挟まれた機動隊員が死んだ可能性があるという。T派のリーダーがやってきて、勇利に「とりあえず逃げろ。下手に捕まったら殺人罪っていうこともあり得る。しばらく東京を離れろ。幸いお前は警察にマークされていない」と指示を出した。勇利は東北のある大学のメンバーに匿われることになった。
 この日が勇利の人生の別れ道となった。ほとぼりが冷め、勇利は東北の大学で活動を続けた後、一年ほどして東京に呼び戻された。そこで地下軍に入るように指示された。勇利は装甲車の一件で東京では、もはや公然と活動できなかった。どうせ公然面で活動できないのなら地下軍に入れということだった。他党派、特にK派との対立が先鋭化し、血で血を洗う段階になっていた。

 十年ほどして、勇利は地上に戻った。K派との抗争は消耗戦となり、そのため、ある人物を介して休戦協定が結ばれた。機関紙上で相変わらず、K派の打倒が勇ましく叫ばれていたが、実質的な戦いは終わっていた。勇利達は、この間、組織の金で生活していた。ところが、度重なる抗争で組織の構成員、支持者が激減し、それに伴って組織に金が回らなくなったのだった。自治会への大学当局の締め付けも打撃だった。それまで自治会執行部を獲得していれば、年間、数千万の自治会費が入った。このため、党派は一旦、自治会執行部を獲得すると、暴力的な手段を使ってもそれを維持しようとした。大学当局は一部の大学では自治会そのものを廃止した。また自治会を認めても大学当局の管理できるところへのみ、金の支出を認めた。もう組織が大学当局から自由に金を引き出すことはできなかった。
 勇利は党派という組織と決別すべき時だと思った。未だ、辛うじて組織の金で生活を維持している幹部は、勇利が組織を去ることを認めた。理論上の問題ではなく組織として勇利のような人間を必要としなくなっていたのである。
 勇利はもう三十代半ばになっていた。普通の人生を送っていたら、結婚して子供がいても不思議ではなかった。考えてみれば、勇利が大学の授業を受けたのは半年ほどだった。その後は、よその大学での活動に追いまくられ、あげくの果ては地下生活だった。しかし勇利には、地上へ出たという解放感があった。勇利の周囲では何人もの人間が死んだ。殺された者、自ら生命を絶った者もいる。一つ間違えば勇利が死ぬという可能性はいくらでもありえた。そのことから勇利は解放されたのである。勇利が生きているのは、そのような死者たちのおかげといえるかも知れなかった。これまでの勇利にとって組織がすべてであった。勇利は、明日からは自分のことだけを考えて生きようと思った。その生きることが勇利にとって、また闘いとなるのだから。
                       2014年9月30日



 学生時代の出来事をフィクションにしてみました。1967年10月8日はいまだに大事件です。学生が警備車に轢き殺されたという報道がなされましたが、事実はヘルメットを被っていない学生の頭を機動隊員が警棒でめった打ちしたのが真相です。
 当時、逆に機動隊員が死んでいたらどうなっていただろうと考えてみました。