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遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

『五番町夕霧楼』を見て

2016-03-05 11:05:00 | 映画を楽しむ







『金閣炎上』に関連して映画『五番町夕霧楼』を見た。以前、佐久間良子のものを見たことがある。今回は一九八〇年の松坂慶子主演のものであった。たまたま図書館にあったものである。この映画は『金閣炎上』と『五番町夕霧楼』をミックスしたようなものであった。松坂慶子演じる夕子と、奥田瑛二演じる鳳閣の小僧正順との悲恋物語になっている。夕子と正順はは丹後で、幼なじみであった。夕子は貧困のために、五番町夕霧楼に売られていく。その夕霧楼の女将を演ずるのが浜木綿子である。夕子はその美貌から遊女として売れっ子になっていくが、結核を発症する。正順は夕子に会うために、大学に行かずにアルバイトで夕子と会う費用を工面しようとするが、それが鳳閣の住職(佐分利信)にバレ叱責される。
 この映画には当時の京都の様子もえがかれる。アメリカ兵と日本人の女性が戯れたり、池の鯉をアメリカ兵に食べさそうとするのに、正順が抵抗する場面もある。結末は、夕子の病状と、正順の行末を悲観して、正順が鳳閣(金閣)を焼くことになる。一方、夕子はこのニュースを聞いて、丹後の浜辺で自殺する。正順の母(奈良岡朋子)は、正順の骨を故郷に持って帰ったところで、この夕子の自殺に出会う。正順の母は夕子の胸に正順の骨を置いて、「二人はどんなに一緒になりたかったろう」と泣き崩れるところで終わっている。
『金閣炎上』は水上勉が厳しくかつ、理不尽な面もあった自らの徒弟生活を、金閣を炎上させた林養賢に投影したものである。読んでいると水上勉のお寺制度への恨みを感じる。しかし、映画『五番町夕霧楼』はそのような、お寺の徒弟制度に対する水上勉の怒りは後景にやられて、夕子と正順の悲恋物語になってしまっている。これはこれで面白いのだが。
 昔は娘の身売りがあったが、現代でも、貧困のために、学生や、離婚した女性が風俗で働いているという話をよく聞く。学生の場合、奨学金の返済が重荷になっているという。離婚した、子持ちの女性も、稼げる間に、風俗で稼ごうというのは分からない話ではない。日本は表面的には豊かになったが、高齢者の生活保護受給者の増加、風俗で働からざるを得ない女性が増加しているということは、現在の新たな貧困という課題をわれわれに突きつけている。

 主演の松坂慶子は、現在もテレビに登場しているが、貫禄のあるおばさんになっているが、この当時は非常に美しい。私は松坂慶子を映画『蒲田行進曲』の舞台挨拶で、実物を見たことがある。白のスーツ姿で、美しかった。この映画には、娼婦役で風吹ジュンも出ている。
 女将さん役の浜木綿子も当時、四五歳だが、成熟した女性の魅力を発散している。
 浜木綿子に関連していえば、息子の香川照之の歌舞伎への転身が話題になっている。香川照之の『市川中車』によれば、浜木綿子は香川照之という名前を捨てるなら自殺すると言ったそうである。歌舞伎界の内幕はわからないが、香川照之が、自身が歌舞伎の血を受け継ぐために四〇歳を越えて転身したのは大変なことである。正月の松竹座での、『芝浜』を見たがなかなか舞台姿はうまくいっていた。彼のこれからの活躍を祈りたい。
                           2016年3月5日

水上勉『金閣炎上』を読んで

2016-03-05 10:39:54 | 小説
           水上勉『金閣炎上』         松山愼介
 水上勉作品は『湖の琴』を高校生の時に読んだことがある。悲しい物語で救いがなかった記憶がある。映画では『五番町夕霧楼』、『雁の寺』、『飢餓海峡』を見ている。『五番町夕霧楼』の最後の方の場面に、林養賢をモデルにした坊主が出ていたのには気がつかなかった。
『金閣炎上』は、どちらかというとノンフィクションである。水上勉は幼いころお寺に小僧として修行に出され、住職の妻や子供の下着の洗濯をやらされたりして逃げ出したことがある。水上には本来禅宗の僧侶は妻帯すべきでないという思いがある。妻帯するのであれば浄土真宗に行くべきだと考えている。『雁の寺』は禅寺の住職の腐敗をえがいている。住職は酒色におぼれていた。映画は監督川島雄三で、住職役の三島雅夫、妻(愛人?)役の若尾文子、小僧役の木村功も好演であった。これはおそらく自身の体験がもとになっていると思われる。この体験から水上は禅寺の内部事情を知っており、それに批判的であった。
『金閣炎上』は、水上の体験を金閣に火をつけた林養賢に投影し、彼が犯行に及んだ事情を知るべく様々な調査をして書き上げた力作である。この作品には戦争が影を落としている。戦争のために、修行僧が応召、戦死したり、還俗したりしている。この時期、「坊主も神主も霊魂の守りをして遊んでいられる時期でなかった」のである。だが、戦争で人手がたりなかったので、林養賢も弟子入りすることができたのであろう。
 閑雅に敗戦を迎えた金閣寺が、九月初めに思わない混乱に巻き込まれた。「東山工作」とよばれ、中国南京政府主席陳公博の亡命生活を引き受けたのである。連合軍に極秘で亡命庇護がなされた。食糧事情が悪かったが三好知事の指示で食糧が調達された、また池の鯉を殺して食ったという。この一行は金閣寺でわが物顔に過ごしマージャンばかりしていた。このとき林養賢はいなかったが話を聞いて「長老はんも、恥ずかしいことを受け負うわはったな」とつぶやいたという。東山商店一行が退山した十月一日には本山で「今上天皇の長寿を祝う読経」が行われた。戦争に負けて、天皇の神秘性がなくなり、天皇も神から人間に降下し、やがて新憲法も発布されようとする時節であったが、寺では相変わらず戦時中の行事を行っていた。
林養賢は大谷大学予科に入学したが、三年生の昭和二十四年になって急に成績が悪くなる。戦争中、金閣寺は拝観収入が少なかったが戦後、収入が増え 五百万円になったという。しかし、慈海師は徒弟に百円しか小遣いをわたさず、その他の生活の面でも吝嗇であった。大学の制服も新しいものを与えず、自分の着古した服を与えた。寺の経営は僧ではない執事、福司(ふうす)に任されていた。林養賢はこのころから金閣寺の拝金主義と、慈海師、寺の経営に対する批判意識が芽生えたのであろう。金閣寺に火をつけたのは 七月二日だが、六月十日には金閣寺裏の板戸の釘を抜いているので、約一カ月前から犯行を計画していたのであろう。この間に、父親の服を売ったり、蔵書を処分したりして五番町の遊郭に登楼している。この蔵書の中にスタンダールの『赤と黒』があっていたというのも興味深い。
 林養賢の供述には、収入の多い金閣を支配しながらも、禅僧としてのたてまえを言い、酒を注ぎにこさせて説教する和尚への反感があふれている。このような和尚と金閣寺がいやになったのだろう。住職になれる望みもなくなり、雲水にもなれず還俗もできない彼に残された道は金閣寺を焼くことであった、というのが水上勉の結論である。もちろんこれに吃音と結核という肉体的条件もつけ加えねばならない。「金閣が美の極致だから一人占めしたい、あるいは復讐したかった」という動機を否定しているのは、三島由紀夫の『金閣寺』を意識しているのだろう。
三島由紀夫の『金閣寺』は観念的な作品だと思っていたが、今回読み返してみると、詳細にこの事件のことを調べている。林養賢の成績の低下や、金閣寺の最新式の火災自動警報機のことも書かれている。三島由紀夫は林養賢が最後に金閣を眺めた時の情景を描いている。この四ページにわたる描写は圧巻である。    
「……そして美はこれら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた ! それは濃紺地の紙本に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のように、無明の長夜に金泥で築かれた建築であったが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。……」
 水上勉の『金閣炎上』はノンフィクションとしては力作であるが、やや形式的という謗りを受けるかもしれないが、文学作品としての三島由紀夫の『金閣寺』も捨てがたいものがある。
                                2016年2月13日




金子光晴『どくろ杯』を読んで

2016-03-05 10:32:24 | 読んだ本
           金子光晴『どくろ杯』         松山愼介
 金子光晴は詩人として気になる存在ではあった。『どくろ杯』は何十年か前に読んだおぼえがある。映画『ラブレター』(東陽一監督 一九八一年)も、おそらく劇場で見たのであろう。金子光晴を中村嘉葎雄、愛人の大川内令子を関根恵子が演じていた。『どくろ杯』は、この映画が取り上げている金子光晴五十歳前後の愛人騒動の時代ではなく、彼の三十歳前半の海外旅行というか、道中記であり、当時の時代に対する批判や、文明批評の物語である。
金子光晴の年譜をみると、二歳で金子家の養子になり、幸か不幸か義父・荘太郎が二十二歳の時に亡くなったので、その遺産二十万円を相続することになった。「数年で蕩尽」とあるが、この金で詩集を出版し、最初のヨーロッパ旅行にも出かけたのであろう。この大金を手にしたことが彼の一生を決めたような気がする。
『どくろ杯』の舞台になった上海、蘇州、香港へは三十年ほど前に行ったことがある。こちらは単なる近場の観光旅行だったが、友人から、戦争でメチャメチャなことをした日本人(東洋(とんやん)鬼(きぃ))の子供だと見られているぞと指摘されて驚いたことがある。金子光晴が帰国するのは一九三二年であるが、前年が満州事変であったので、東南アジアの場所によっては華僑を中心とした反日感情があり、上海に上陸することなく神戸に着いている。この作品中によれば長崎から一晩船に乗れば上海で、長崎からは大阪や東京へ行くよりも近かったようだ。貨物船の空の水槽に乗せられたからゆきさんが、水槽に水が入れられ溺死し、水道から髪の毛が出てくるという凄絶な場面もある。
 上海の様子では苦力の描写が印象に残った。埴谷雄高が書いていたように台湾と同じように、上海でも黄軛車(ワンポツォ)苦力の河童頭を靴の先で蹴って方向を教えるという。中国人は苦力に人間以下の存在と教えこんで反抗しないように、冷酷、非道な扱いをしていたらしい。上海での内山書店や作家の前田(まえだ)河(こう)広一郎(ひろいちろう)がブルジョワの文壇はもう終わったと気勢を上げているのも面白い。
 一九二四年に森三千代と結婚、一九二八年に二人で足かけ五年にわたる東南アジアからフランス、ヨーロッパへ出かけている。目的はパリだったようで、東南アジアでお金を工面しながらの旅だったようだ。しかし『ねむれ巴里』を読むと、パリのことを空気が悪いとか、無目的にパリに滞在している日本人を非難しているので、パリは好きではなく、ベルギーのブルッセルやアントワープの方が落ち着いたようである。フランス詩集を翻訳で出版しているのでフランス語はある程度出来たようだ。この旅は妻と土方定一との恋愛問題を解決するのが第一義だったようである。一九二八(昭和三)年といえば、大正デモクラシーの自由主義の雰囲気がのこり、アナルシストもコムニストへ転換してゆくプロレタリア文学全盛期であったが、共産党への大弾圧三・一五事件にみられるように、プロレタリア文学の衰退の気配もあったのだろう。
 このような中で金子光晴は「若者が血を沸かしている革命の情熱にも、詩や文学のひたぶるな精進にも衷心から関心をもてない傾向」にあったらしい。また「当時の人たちが問題にする人類の正義や、階級の憤りのようなものは、例え口まねをしたにしても、それは一時の気晴らしにすぎず、あまりに縁遠いことであって、いつになってもあやまちの繰返しの、まことに愚にもつかないことにしか生甲斐をもたない私じしんのことが、なにはともあれ、いちばん問題であり、また自分にしっくりした関心事であった」と自分の心境を述べている。一方、「彼女の恋人はコムニストにより接近したサンジカリスト」で「当時新時代の尖端の思想、彼らが話題にするバクーニンやクロポトキンに接することが魅力であったろうし、アナルシスト闘士の醸し出す強烈な体臭と反逆的ムードにふれることが、スリルであったのだろう」とも書いている。この妻の恋愛事件を裁判に持ち込むことも可能であったが大正の自由思想を身につけていた金子光晴は、そうすることなく、二、三年の外国旅行によって冷却期間をもうけることを選んだ。このようにして、妻の恋愛事件をジャンプ台として海外に旅立つのである。しかし、それにしても先立つお金や、旅程の計画もなく出かけて行くこの金子光晴はたいしたものである。大阪で足止めをくらって、谷崎潤一郎に短冊を書いてもらって換金したり、東南アジアで水彩画を描いてお金をせしめたりするのはすごい生活力とかしか言い様がない。
『どくろ杯』は金子光晴の七十歳半ばに書かれたものであるが、国木田独歩の息子・虎雄が円本ブームで使い切れないほどの印税が入ったとかの文壇史、キャバレーの前身のカッフェの様子といった風俗史もあり、昭和前半の歴史の証言の書ともいえる。
『ねむれ巴里』によれば、金子光晴の喜寿の席で森三千代は「貧乏もし、苦しいことも多かったが、金子光晴といっしょになったことは後悔していないし、また、ほんとうにたのしかった、お礼を言う」と述懐したという。                   2016年1月9日

(参考資料①  大川内令子について 「金子光晴 ラブレター」で検索)
自由人の系譜 金子光晴(2)「風流尸解記」 : 同伴者の本棚
blog.livedoor.jp/maturika3691/archives/6733370.html

「親父の女好きはふつうの人のとちょっと違って、何かセンチメンタルなところがあるんです。だから深刻になってしまって、かえって始末の悪い面もありました。軽い浮気でとまらない。親父が五十歳ぐらいのとき、二十五歳ぐらいの女の人がいて、つづいていたわけでしょう。79歳で死んだとき、その女が葬式に来て、親戚のところに腰かけようとするんです。〈自分で親戚だと思っているのかなあ〉とびっくりしました。
もうおばあちゃんで、そりゃ男だって女だって年は取りますよ。でも、女房が年を取ったり、亭主が年を取るのは、これはしようがないけれども、愛人が年を取ったというのは、あまりカッコいいもんじゃない」

 これは金子光晴の一人息子、森乾(もりけん)が文藝春秋社の編集者に答えたものである。
インタヴュー記事は「回想の金子光晴」と題されて、雑誌「オール讀物」(1991年7月号)に掲載された。金子光晴の死去は1975年6月。森乾は1925(大正14)年生れだから、このとき66歳(2000年没)。早稲田大学フランス文学の教授であったが、もう退任していたのか、どうか。どうにも金子光晴、森三千代の血筋を引いているとは思えぬほど、保守的な発言である。

(参考資料②  「金子光晴 どくろ杯」で検索  PDF論文)
駿河台大学論叢. 第 36 号. NO.36. 2008. 目 次. 論 文. 森三千代の「髑髏杯」から金子光晴の「どくろ杯」へ. ―森三千代の上海関連小説について― ……………………………………………趙 怡

 この論文によれば、一九四〇年代においては、金子光晴より森三千代の方が高名で売れる作家であり、彼女に金子光晴『どくろ杯』に先行する『髑髏杯』という小説があり、金子光晴もそれを読んでいたことは間違いがないという。