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読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

ドナルド・キーン「百代の過客」

2015-11-19 07:35:00 | Weblog


 いつか読みたいと思いながら先送りしてきた一冊。いつもの古本屋さんで目にとまり、分厚い愛蔵版にしばし躊躇したが、結局購入。
 平安時代の僧、円仁「入唐求法巡礼日記」からはじまり、江戸時代末期の川路聖謨「下田日記」まで、七十七の日記が紹介されている。著者の狙いは、この膨大な日記の精査から日本人と日記の関係を解き明かしていこうということなのだが、私のような不勉強な者には、純粋に日本古典へのナビとしての意味合いの方が強い本だった。
 「とはずがたり」「うたたね」における女流作家のあからさまな記述には新鮮な驚きを感じたし、宗祇「白川紀行」「筑紫道記」が芭蕉に続くことなども初めて知った。一方、芭蕉の日記を手厚く扱っているのに引き換え、一茶を割愛したことについて著者は、「幕末の日記の流れにうまく入らなかったため」と弁明している。私としては、「菅江真澄遊覧記」が取りあげられていないのにも物足りなさを感じるのだが、きっと同じ理由なのだろうか・・。
 
 ともあれ、日記を書くという行為の持つ、さまざまな意味について考えさせられる読書だった。


 


漱石を読む 5  「吾輩は猫である」 その4

2015-11-09 21:25:17 | Weblog

 漱石のいう“鉱脈”は、一匹の猫との邂逅、そしてその猫を題材にした雑文にこそあったと、私は思う。漱石はこれを機に、「坊ちゃん」「草枕」「虞美人草」など、のちの世に残る創作を、矢継ぎ早に発表し続ける。

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これから翌年にかけて「猫」の続きを書き、「坊ちゃん」や「草枕」などを書きまして、殆ど毎月どこかの雑誌に何か発表しないことはなかったくらいでしたが、書いているのを見るといかにも楽さうで、(中略)「坊ちゃん」「草枕」などといふ比較的長いものでも書き始めてから五日か一週間とは出なかったと思ひます。(「漱石の思ひ出」より)
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 「猫」を書くことによって、精神の霧が晴れ、自分の“本領”が何であるかが見えてきた。そして、その後の作品が高評価を得ることによって、 “本領”であるところの「自己本位」「個人主義」がゆるぎないものになっていった。「猫」の創作なくして、その後約10年間にわたる作家夏目漱石の生の継続は、成り立たなかったことだろう。

 くどくどと長くなったが、そんな意味において、私は「吾輩は猫である」という“雑文”こそが、漱石の代表作であると思うのである。

おわり・・。




漱石を読む 5  「吾輩は猫である」 その3

2015-11-08 11:29:48 | Weblog

 しかしながら漱石は、自著「私の個人主義」でこの時期を振り返り、「猫」を、ついでに仕方なく書いた「くだらない創作」と吐き捨てている。
 少し横道にそれるが、「私の個人主義」は漱石四十七歳の時、学習院の生徒に対しておこなった講演録である。漱石はこの講演で、「個人主義」の考えに行きつくまでの経過を、こんな風に語る。

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私(漱石)は、大学で3年間英文学を学んだ。しかし、文学が何であるかについては分からずじまいに終わった。卒業して教師になり、ついに英国留学までしたが、心の中の空虚を拭い去る文学の本質に出会うことはなかった。西洋から輸入された文学をそのままありがたがって受け売りすることへの疑問。そして懊悩・・・。その果てに私(漱石)は、「自己本位」という言葉を手に握る。比喩で言うと、「がちりと鉱脈に掘り当てたような」気がした。(「私の個人主義」より要約)
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 漱石にいわせると、英国留学の最終段階でつかんだ「自己本位」を持って帰国したものの、衣食のために奔走する義務の一環として書いたのが「猫」であるということらしい。明治の、世界に誇る有数な頭脳の持ち主の回顧に難癖をつけるつもりはないが、これには無理がある。
 くどい繰り返しになるが、ロンドンでの発狂騒ぎ、帰国後の生活、妻鏡子との不仲にあわせて、断続的に起こる強度の神経衰弱症状・・。漱石の日常は、とても「自己本位」どころの話ではなかったはずである。


更にもう少し続く・・。

漱石を読む 5  「吾輩は猫である」 その2

2015-10-25 14:40:17 | Weblog

 この時期の文学史年表に目を通してみると面白いのだが、鴎外「舞姫」、露伴「五重塔」、一葉「たけくらべ」、紅葉「金色夜叉」、鏡花「高野聖」など、名作が続々と誕生し、まさに近代小説萌芽の時代である。しかしながら漱石は、それらを無視するかのように、前代未聞の“小説”を書きはじめる。妻、夏目鏡子は、こんなふうに回顧する。
 「別に本職に小説を書くといふ気もなかったところへ、長い間書きたくて書きたくてたまらないのをこらへてゐた形だつたので、書き出せば殆ど一気呵成に続け様に書いたやうです」。
 このときの漱石は、英国留学における挫折感に端を発する強度の神経衰弱状態にあり、さらには親族とのトラブルにも悩まされてもいた。漱石にとって「猫」創作に関わることは、ややもすれば瓦解しそうになる自我の救済であり、生を継続するうえでの条件といっても、過言ではなかったのである。


もう少し続く・・。




漱石を読む 5  「吾輩は猫である」

2015-08-21 14:46:01 | Weblog



 漱石における“書くことの快楽”について、あれこれ思いをめぐらしているうちに、なんと6か月が過ぎ去ってしまった。光陰侮るべからずということか・・。
 夏目漱石の代表作をと問われたら、私はためらわずこの作品をあげる。小説の主人公である黒猫を飼うことになったいきさつを、夏目鏡子「漱石の思ひ出」から要約させていただく。


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「こんな風に具合の悪かった頭も、「猫」発表の前年位から良くなり出し、癇癪や狂気じみた行動も少なくなりました。それにつれて本を読んだり物を書いたり、講義ノートも塩梅良く進む。そんな夏の初めころ、生まれて間もない子猫が家に入ってきました。猫嫌いな私はすぐに外につまみ出すのですが、いくらつまみ出しても放りだしても、何度でも入ってくる。それがそれ程嫌われているとも知らぬ風に、後ろ足にじゃれついたり、子供たちを引っかいたり。ある朝泥足のまま上がって来て、おはちの上にうずくまっているところへ夏目が出てまいりまして『この猫はどうしたんだい』と尋ねるので、『何度も家へ入って来て仕方ないから、誰かに頼んで捨ててもらおうと思っています』と申しますと、『そんなに入ってくるんなら、置いてやったらいいじゃないか』との言葉」
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こんないきさつで飼いはじめた黒猫をモデルに、漱石は小説風の雑文を書き始める。



つづく・・

漱石を読む 4  絶筆「明暗」

2015-02-01 07:01:10 | Weblog



 大正5年5月から朝日新聞に連載された。
 明治のいわゆる中産階級夫婦の日常をリアルに描いたこの作品は、絶筆ということもあり、漱石作品の集大成、さらには近代小説における代表的作品ともいわれている。

 ただ、この作品を手放しで名作とする見方には、疑問を感じないでもない。たしかに、全体の構成の緻密さや心理描写の奥深さなど、なるほどと思うところは多々あるが、新聞連載とはいえ、あまりにも冗長に過ぎる。漱石は、久米正雄・芥川龍之介への手紙に、この作品を書く心境を「苦痛・快楽・機械的」であると明かし、毎日毎日あんなことを書いていると精神が俗になってくるとまで告げている。
 また、半自伝的小説「道草」からも推測できるように、漱石には優柔不断な一面がある。特に、人に頼まれると断り切れないところがあり、見ず知らずの人からの短冊(俳句)や漢詩の無心に応じたり、突然訪ねてきた人を書斎に通して話し相手になったりしている。この「明暗」にしても意欲的に新境地に挑戦したというよりは、新聞社の意向を断り切れなかったとみるのが妥当なのだろう。今回読み返して、小説全体から私が感じたのも、書くことの“快楽”よりも、大病後の老作家の“苦痛”“機械的”のほうだった。

 もう一点、この作品をいわゆる“則天去私”の具現のように結びつける見かたがあるが、これにも若干の疑問を感じる。そもそも“則天去私”とは、晩年の漱石の素朴な感懐(たとえば、依怙地で偏屈な生活者夏目金之助が50歳にしてようやく女のうちにある本質、強さ・したたかさ・狡猾さに思い至ったというよううな)であり、それを、なんでも神格化したがるお弟子によってひな壇に飾られてしまった、そんな気がする。
 今回「明暗」を読み返し、そんなことを考えた。

 ついでながら、書くことの快楽というそれだけでいうなら、漱石がこの時期に「あんなくだらないもの」と振り返った「猫」にこそ詰っているのではないか、などと思っている。次はその、「吾輩は猫である」を読み返してみたい。

漱石を読む 3  「道草」

2014-12-19 17:02:38 | Weblog

 漱石の半自伝小説といわれている。
主人公の複雑数奇な幼少期の体験、そしてそれを引きずるように展開される親族とのいざこざや妻との葛藤は、明治の大文学者である漱石の実像、夏目金之助という一人の生活者の生涯を知るうえで、とても興味深い。ただ、文学者の間では実生活と小説における虚実があれこれ取沙汰されてきたそうだが、私はそのことにはあまり興味がない。
 まるでにび色の海でも連想させるような暗いトーンの小説ではあるが、最後の数行に漱石らしい諧謔が組み込まれており、少し救われた気持ちになる。私はその数行こそが、暗い浪間をもがき続けてきた漱石の、思想の終着点だったのでは、などと思っているのだが・・。。はたしてどうなのか。


「道草」ラスト部分抜粋
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「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君はこういいいい、幾度か赤い頬に接吻した。
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漱石を読む 2  「硝子戸の中」

2014-10-29 17:28:07 | Weblog



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 「小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入ってくる。それがまた私にとっては思い掛けない人で、私の思い掛けないことをいったりしたりする。私は興味に充ちた目をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う」
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 いま風にいうなら、漱石晩年のエッセイ集ということになろうか。世に言う修善寺大患のあと、東京と大阪の朝日新聞に、大正4年1月13日から約一か月間連載された随筆をまとめて、この題名にした。

 変人漱石の家には、彼に劣らぬ個性的な人々が訪ねてくる。それが友人知己の場合もあれば、見知らぬ人ということもある。
 ある女が訪ねて来て、「どうも自分のまわりがきちんと片付かないでこまります」という。住まいが手狭なら引っ越せばいいでしょうとこたえると、「いえ部屋のことではないので、頭の中がきちんと片付かないので困るのです」という。どういうことかと聞き返してみた。
 「外からはなんでも頭の中に入ってきますが、それが心の中心と折合が付かないのです」
 「貴方のいう心の中心とはいったいどんなものですか」
 「どんなものといって、真直(まっすぐ)な直線なのです」
 結局女のいわんとするのは、(普通の人以上に心の整然としている)漱石のようになりたいということ・・。漱石が、そんなに心が整っていたらこんなに病気ばかりしていませんと答えると、「私は、病気にはなりません」と言い、それはあなたが私より偉い証拠だ、というと、女は座布団を滑り降り、「どうぞ御身体を大切に」といって帰って行ったという。

 
 皮肉ではあるが、この女性のいう「片付かぬ心」こそ、漱石に一生まとわりついたテーマといえるかもしれない。「猫」の発表による一時的な自己解放感は、その後の精神の安定を担保するには至らず、結局漱石はこの「片付かぬ心」と、生涯不機嫌につきあい続けるのである。

漱石を読む 1  「私の個人主義」

2014-09-17 08:00:24 | Weblog

 江藤淳「歴史のうしろ姿」の余韻につられて、久しぶりに再読。漱石晩年の表題を含む5編の講演録で構成されている。今回は、「道楽と職業」を楽しく読んだ。普段あまり考えることのない「職業」の定義について、漱石独特の職業観が展開されていておもしろい。明治44年、明石において講演されている。

 要約すると、最初に職業と道楽の関係を説き、世間一般の職業とは、往々にして意にそぐわぬことでもやらなければならない、他人本位のものである、とする。そしてそのあとに、道楽的職業という変態形を挙げ、学者、科学者、芸術家などがこれに属するとし、これらは他人本位では成り立たず、自分のために、自分本位でしたことが結果世間に受け入れられるかどうかという点で、世間一般の職業とかけ離れていると定義する。少し強引にも思える論調だが、その根底をなすものは、漱石の頭脳に英国留学以来わだかまり続ける、開化(近代化)に対する疑問だったのだろう。その疑問の一端を下に掲げてみるが、なるほど漱石が今もって現代人に読まれる理由が分かってくる。漱石は開化(近代化)の中の「見逃すことのできない一種妙なもの」について、こんな風に語る。

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 「というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分かれれば分かれるほど、われわれは片輪な人間になってしまうという妙な現象が起こるのであります。言い換えると自分の商売が次第に専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事ですんだものが二倍三倍ないし四倍とだんだん速力を早めて逐付(おいつ)かなければならないから、そのほうだけに時間と根気を費やしがちであると同時に、お隣のことや一軒おいたお隣のことが皆目分からなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職業線上のただ一線しか往来しないですむようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、恰(あたか)も自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きくいえば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差し支えないのであります」
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白川静  「初期万葉論」(再読)

2014-08-06 21:40:55 | Weblog


 1979年に中央公論社から出された本の文庫版である。
オビに《古代の招魂儀礼が歌を形作った》とあるが、まさしく全292ページ、このことに終始している。時々思い出しては拾い読みしているが、今回は、「安騎野の冬猟」(P79~)を何度か読み返してみた。人口に膾炙の、この歌の解釈が、延々と展開されていて面白い。

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東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡    1・48
《東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ》
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 この歌は、持統天皇の孫にあたる軽皇子(のちの文武天皇)の冬猟という儀式の際に柿本人麻呂により歌われたとされている。教科書などでは、東の野の曙光と西空の残月という対比が織りなす叙景歌として習った記憶がある。しかしながら著者は、これを叙景歌などではなく、招魂のための公的儀礼の歌であるとして、多くの学説に検討を加えながら、さらに突っ込んだ自説を展開している。つまり、この歌は、冬至の払暁に「霊の棲家としての幽界であった」安騎野において、「より具体的な目的のもとに、現実的意図をもって」行われた、というのである。むしろ抒情歌や叙景歌は、それら古代的な呪歌様式の《喪失》によってうまれたのであろうと、著者は主張する。
 ここで著者のいう、《より具体的な現実的意図》とは、なにか。
 持統天皇には、故天武天皇との間に日並皇子(草薙皇子)という皇子があった。天武亡き後、持統は実の姉の子である大津皇子を死に追いやってまで、我が子草薙の天皇即位をはかるが、草薙は天武の後を追うように早逝する。かくなるうえは、万難を排して孫の軽皇子に、皇位を継がせなければならなかった。そのために、冬至の払暁に「霊の棲家としての幽界であった」安騎野に出向き、(天皇霊の保持者たる)草薙の霊を呼び起こし、継体者軽皇子に摂受させた。この際のいわばオフィシャルソングが、表記の歌を含む長短歌五首なのだと、著者はいう・・。

 持統天皇(鵜野皇女)の人と時代をあれこれ読むのは、面白い。いま、上田正昭「藤原不比等」を再読し始めている。

江藤淳 「歴史のうしろ姿」

2014-06-19 09:11:03 | Weblog
 いつもの古本屋さんで、思い付き購入。1970年ごろに書かれたエッセイや講演がまとめられている。このころは「漱石とその時代」の執筆の始まった時期で、そのこぼれ話的なものも知ることができ、この作家の本としては、かなりリラックスして読める内容になっている。先に読んだ「近代以前」に比べても、数段読みやすかった。

 なかでも、漱石文学の現代性についての論考は、面白く読んだ。漱石が英国留学で感じた近代化への疑念について著者は、「彼はどうにかして自分の近代に対する認識を表現したいと、おそらく無意識に感じていたでしょう」といい、そのきっかけが、子規の弟子である虚子にそそのかされて書いた「吾輩は猫である」の第一章だったという。
 「つまり外圧に対応するために推進されていく近代化の中で、人間がいかにつまらない人間になっていくか。その内面が崩れて知らぬ間に孤独になり、孤独である痛みすらも忘れた荒廃におちいっていくか。その結果人間同士の利害を超えた結びつきがいかに決定的に失われていくか。(中略)そういうことを彼はただの冷たい社会批評家としてではなく、同じようにそういう時代を生きている一人の文学者として書き続けた」という。そして、それは現代の問題そのものなのだともいい、明治文学のほとんどが見向きされなくなった現代に漱石が読まれる理由なのだと結論付ける。

 江藤淳「決定版 夏目漱石」を本棚から引っ張り出し、ちょぼちょぼと読み始めている。

「生きている出雲王朝」     新潮文庫「司馬遼太郎が考えたこと 1」より

2014-05-11 14:33:36 | Weblog



 新潮文庫「司馬遼太郎が考えたこと(全15巻)は、10年ほど前に発刊されている。
 司馬遼太郎が生前書いたものの中から製本されて発売されたものをのぞいたすべてを年代順にまとめたという。エッセイに限らず、手紙文だとか推薦文だとか、中には靴だのウィスキーのCM文句まで掲載されており、なんとも安直な企画ではある。作家健在であれば、まちがっても許可が下りなかったことだろうなどと、ずうっとスルーしてきたが、久し振りの古本屋さん徘徊で1~5巻のみ置かれているのに目がとまり、気が変わり購入。
 この第1巻には、著者がまだ会社勤めだった昭和28年から「梟の城」で直木賞を受賞する昭和36年ころまでの(主に)エッセイが収録されている。ガレージセールのような寄せ集め・・とたかをくくっていたが意外と面白く、受賞作「梟の城」の創作動機や家康論など、まさしく初期司馬遼太郎に触れることができた。

 なかでも、著者が親しい友人から「じつは自分は“カタリベ”なのだ」と告白されたことから始まる「生きている出雲王朝」は、とても興味深く読んだ。友人の家系は、一族のうちから記憶力のよいものを選び、長い年月をかけ一家の旧辞伝承を語り伝えられ、それが古代より続いてきたというのだ。そしてさらに、その伝承には、ほかに漏らしてよいものといけないものがあるのだと。 
 神話によると、大国主命は、高天ヶ原からきた天孫民族の国譲り強要に屈し、のち出雲大社にまつられ、神となった。その大国主を祀った最初の出雲大社の宮司を、天穂日命(あめのほのひのみこと)という。その子孫が出雲の国造(くにのみやつこ=こくぞう)となり、連綿として出雲大社の斎主となり、現代まで続いている。(著者文言を借りると)「旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう」ということになる。そして、著者に自分はカタリベだと告白した友人は、その社家(いわゆる家来)だったのだが、実は最後にオチがある。なるほど・・。

 引き込まれ、ついつい読み込んでしまった。

江藤淳「近代以前」

2014-04-13 20:21:46 | Weblog

 1985年に書かれたものの、文庫化である。
 「近代以前」という表題から、一九とか馬琴などを想像したが、ちがった・・。本書の約半分が、藤原惺窩・林羅山の儒家研究で埋め尽くされている。はて、この本は近代以前の文芸についての論考なのでは・・と思いながら読み進むうちに、ようやく近松門左衛門・井原西鶴・上田秋成の登場で、少しホッとする。結局著者の本書でいわんとすることは、日本文学史における、“近代以前”と“近代以後”とに通底する地下水脈のようなものの確認をしてみた、ということらしい。
 それにしても、もう少し平易に書き記すことができないのだろうか。ずいぶん昔に読んだ「夏目漱石」も難儀をした記憶があるが、今回は次元が違った。このような本は、整然と置かれた盆栽でもながめるような感覚で、ぼんやりと読むしかないのかも・・。

 その盆栽感覚読書で、しいて心に残ったといえば、「文学の持続は常に落伍者によって保たれた」(P147)というくだりだろうか。著者はその筆頭に大伴家持をあげ、「彼らが現実の社会を降下するのと逆比例して、彼らの夢と悲哀が詩歌という非現実の世界に息づき始める」と指摘している。それが貫之・定家そして近松・西鶴へと続き、明治の逍遥・紅葉・露伴・一葉に至ったと。著者のいう地下水脈とは、きっとそのことなのだろう。そのような視点で近松をとらえるくだりは、とても面白かった。

 似たような表現を、白川静の本で読んだのを思い出し、本棚を探してみた。白川は「後期万葉論」で、「文学はむしろつねに、底辺より上向する傾向をもつ」として、津田左右吉「文学に現はれたる我が国民思想の研究」を批判している。さらに、「そして貴族文学として完成するとともに、自律的な自己展開の力を失って、また底辺からの新しい様式の擡頭を待つのである」ともいっている。どこか、深い閉塞状態にある現代文学へのアンチテーゼのようにも聞こえる。
 ついでなので、「初期万葉論」「後期万葉論」を再読し始めている。



小山田浩子 「穴」

2014-03-16 20:16:03 | Weblog
 
 第150回芥川賞受賞作。普段ほとんどスルーするのだが、新聞の受賞インタビューに、「作家になる前、雑誌の記事などを書いていたが毎回上司からのダメ出しがあった。夫に小説なら・といわれ取り組んでみると、“細かいヒゲ根がつるつると出てくるように文章がかけた」とあり、そのつるつる感覚が味わいたくて、読んでみた。

 都会での共働きを辞め、夫の実家の隣に住みはじめた“私”の、ひと夏の物語である。姑や舅、大舅、夫の兄、近所の奥さん、更には得体のしれない動物との出会いが、どこかのお喋り好きな主婦の世間話のように語られていく。どこにでもいそうな親族や隣人と、不思議なモノが、すべて同じトーンで語られるのにつきあっているうちに、現実と異界との境目さえも分からなくなっていく。結局何が何やらわからないまま、“私”の顔が姑に似てくるところで、この小説は終わる。
 たしかに、選考委員の多くが推奨する「並々ならぬ筆力」で、さいごまで読まされはするのだが、どこか消化不良を感じないでもない。まるで、クリックすればすぐリセットできそうな、コンピュータゲームの1ステージのような小説世界とでもいうか。

 この作家の次作、あるいはその次の作品がでたら、また読んでみたいとは思うが、はたしてどんなつるつる感に進化しているやら・・。