最近はなにやら「タモリ論」みたいなのが花盛りですがこちらの文章が非常に面白かったです。笑いってのは長々と語ってしまうと空虚になってしまうんですがこちらはタモリの言葉を多量に引用してるのが良いです。自分の意見はちょろっとだけという。タモリという化け物を記すにはこういう方法しかないのかもしれません。
「中高生時代、テレビを見てて巨泉がわかんない事を言っててそれに興味を持った。人間はわかんない事に興味を持つ」ってのは自分にも経験がありまして。それはビートたけしだったんですけど。たけしがパッと何かに突っ込んで周りの大人は笑ってるんだけどガキだった自分はキョトンとしてるという。悔しくてですね。「これをわかるようになりたい」って痛切に思ったものです。私は現在テレビを全く見ませんが今テレビに出てる人たちの中にこういう存在って今いるんですかね。中高生にとってとても貴重な存在だと思うんですが。ネットはこういった見上げる存在っていませんしね。全部同レベルの中でワイのワイのやってる感じがします。いい傾向じゃないですよね。
「哲学者タモリ」としての側面を見せてくれたのは1992年放送「講演大王」(私はこの番組の存在を知りませんでした)の中の一節。
「若者よ、しがらみを排除し実存のゼロ地点に立て」
しがらみなどというものは自己発見の場でなく自己喪失の場だ、と。だから講演のテーマが「私が各種行事に反対してる理由とソ連崩壊の関連性」なのであります。でも自分の周囲からしがらみを排除していくと引きこもりになってしまうと思うんですよね。引きこもりの経験って実は大事なのかもしれないですね。このタモリの回誰かネットにあげてくれないですかね。見たくて見たくてたまらないです。
つらつら読んでて思ったんです。ダウンタウンが出てくるくらいまで「お笑い」ってのは権威に噛み付く、みたいな側面があったんですよね。ふんぞり返ってる奴らに「馬鹿野郎」っていうような。それが大衆の喝采を浴びた時期があったんですけど今は「お笑い」自体が権威みたいになっちゃってるではないですか。バラエティ番組ばかり増えちゃって「あいつは笑いひとつ取れないダメなやつだ」みたいな。そうなると「笑い」自体が攻撃される対象になってしまうんですよね。2ちゃんとか見てると良くわかりますが。こういう逆転現象が起きてしまうと「お笑い」ってのはやりにくくてしょうがない。今のテレビのつまらなさってのはそういうところにも一因があるのかなあ、とそんなことをタモリ論から思ってしまいました。
「中高生時代、テレビを見てて巨泉がわかんない事を言っててそれに興味を持った。人間はわかんない事に興味を持つ」ってのは自分にも経験がありまして。それはビートたけしだったんですけど。たけしがパッと何かに突っ込んで周りの大人は笑ってるんだけどガキだった自分はキョトンとしてるという。悔しくてですね。「これをわかるようになりたい」って痛切に思ったものです。私は現在テレビを全く見ませんが今テレビに出てる人たちの中にこういう存在って今いるんですかね。中高生にとってとても貴重な存在だと思うんですが。ネットはこういった見上げる存在っていませんしね。全部同レベルの中でワイのワイのやってる感じがします。いい傾向じゃないですよね。
「哲学者タモリ」としての側面を見せてくれたのは1992年放送「講演大王」(私はこの番組の存在を知りませんでした)の中の一節。
「若者よ、しがらみを排除し実存のゼロ地点に立て」
しがらみなどというものは自己発見の場でなく自己喪失の場だ、と。だから講演のテーマが「私が各種行事に反対してる理由とソ連崩壊の関連性」なのであります。でも自分の周囲からしがらみを排除していくと引きこもりになってしまうと思うんですよね。引きこもりの経験って実は大事なのかもしれないですね。このタモリの回誰かネットにあげてくれないですかね。見たくて見たくてたまらないです。
つらつら読んでて思ったんです。ダウンタウンが出てくるくらいまで「お笑い」ってのは権威に噛み付く、みたいな側面があったんですよね。ふんぞり返ってる奴らに「馬鹿野郎」っていうような。それが大衆の喝采を浴びた時期があったんですけど今は「お笑い」自体が権威みたいになっちゃってるではないですか。バラエティ番組ばかり増えちゃって「あいつは笑いひとつ取れないダメなやつだ」みたいな。そうなると「笑い」自体が攻撃される対象になってしまうんですよね。2ちゃんとか見てると良くわかりますが。こういう逆転現象が起きてしまうと「お笑い」ってのはやりにくくてしょうがない。今のテレビのつまらなさってのはそういうところにも一因があるのかなあ、とそんなことをタモリ論から思ってしまいました。