先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1922年労働組合の全国統一の失敗 (読書メモー「日本労働年鑑」第4集 大原社研編)  

2021年12月06日 07時29分24秒 | 1922年の労働運動

写真・「日本労働組合総連合」の結成大会を告げるビラ

1922年労働組合の全国統一の失敗 (読書メモー「日本労働年鑑」第4集 大原社研編)

参照
「日本労働年鑑」第4集 」大原社研編
「日本労働組合物語大正」 大河内一男・松尾洋

「日本労働組合総連合結成大会」の不成立と総同盟11周年大会

1、「日本労働組合総連合結成大会」と不成立
 総同盟と労働組合同盟会の統一による労働組合の全国的総連合という画期的な目的を持った「日本労働組合総連合」の結成大会が1922年9月30日大阪天王寺公会堂において開催されます。この大連合は、この年の春から労働組合の全国統一を目指す準備委員会が組織され、会議を重ねていましたが、互いの主張を巡り深刻な対立が表面化していました。いわゆる「アナ・ボル論争」(次回の二村一夫論文「第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928」4 労働運動思想の変化の「2、サンジカリズム」「3、ボルシェビズム」を参照)と言われるものです。総同盟の集中的(中央集権的)合同論に対して、組合同盟会の自主的、自由連合論が激しくぶつかります。

 この日の大会に向けて、両派の社会運動のリーダーたちは大阪に集合します。松岡駒吉、加藤勘十、高田和逸、山川均、堺利彦、荒畑寒村、大杉栄、近藤栄蔵、和田久太郎らそうそうたるメンバーです。当日は傍聴席に陣取り、互いに盛んに声援し合い、相手側にはヤジを飛ばしました。組合同盟会は、総同盟を「専制主義!」と口々に非難し、一方総同盟側は、組合同盟会に対して「労働組合の戦闘力を高めるためには、絶対に集中的合同が必要」と譲らず、激しく対立します。ついには会場の大衆討議を中止し両派による舞台裏の3時間に及ぶ話し合いが続けられましたが、夕方7時、大会での大衆討議が再開したとたんに、臨監警察官が「中止」「解散」と叫び、たちまち数十名の警官が壇上を占拠します。労働者は総立ちで「官憲横暴」と演壇に押し寄せます。会場の中と外のあちらこちらで乱闘がおきます。
 こうして戦前日本で初めの労働組合の画期的全国統一運動そのものが瓦解したのです。その後も戦前では二度と労働組合の全国的統一のチャンスは来ませんでした。

(感想)
 私は、労働者自身が思い切り立ち上がることこそが、すべての労働運動の原則だと思います。労組役員が代行主義やボス交渉で仲間たちの立ち上がりの足を引っ張ることは決してやってはいけないと考えます。と同時に敵に勝つためにはこちら側の「規律」も「組織性」も大切です。スト破りは許されません。個人の好き勝手なわがままは許されません。勝つための争議の戦術の決定と実践は「規律」なくしては成り立ちません。ですから労働者の「決起と規律」はどちらも大切です。決して矛盾しません。1922年のこの総連合運動は、現代の「総評と同盟」が合同し「連合」になった時とはわけが違う、その中身も質も大きく違うと思います。1922年では相手に批判はあっても互いに闘う労組としての統一・総連合が目的でした。互いが資本や官憲に果敢に立ち向かっています。総同盟も同盟会も資本や官憲との抵抗で大量な解雇・検束・犠牲者もだしています。その上、この年の大きな労働争議が敗北に次ぐ敗北の中での「総連合」運動だったはずです。争議で資本に本当に勝ちたかったからこその「総連合」運動だったはずです。両者の労働者大衆もわかっていたと思います。だからこそ「結成大会」開催にまでにこぎつけたのです。それなのになんということでしょう。翌年の大弾圧を知っていたら(あり得ませんが)、両者はこんな決裂をしたでしょうか。原因は、大杉や荒畑ら両者の指導幹部のおごり(お山の大将? 組合封建主義?)、主導権争い?、でしょうか。

   翌年1923年の関東大震災時の残酷な朝鮮人虐殺と非道な大弾圧(大杉栄虐殺、南葛労働運動リーダーら10名の虐殺など)を知っている現代の私たちからみたら、あの時、闘う労働組合の全国統一を強固にやっておけば、どうだったろう。事態は変わっていたのではないか。「日本労働組合総連合」がしっかり成立できていたら、官憲は、アナ系のリーダー大杉栄や総同盟内最戦闘派の南葛労働運動活動家だけをねらい打ちにできたであろうか。こちらの対立、分裂が彼らの暴虐の判断の後押しとなったのではないか、私たちの時代の「内ゲバ」との通底は、今も心あるまじめな労組・ユニオンですら四分五裂して「総連合」できないのはなぜか、今こそ「決起も規律」を問われていないか、などなどつらつら考えました。

2、日本労働総同盟第11周年大会開催
 日本労働組合総連合運動がアナ・ボル論争の中で決裂した翌日の10月1日、その同じ会場で日本労働総同盟第11周年大会が3日間に渡って開催され画期的な新綱領へ改訂されます。

新綱領
《われらは、断固たる勇気と有効なる戦術とをもって、資本家の抑圧、迫害にたいし、徹底的に闘争せんことを期す》
《われらは、労働者階級と資本家階級とが両立すべからざることを確信す。われらは労働組合の実力をもって、労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す》
とうたいあげます。

主張として
一、8時間労働および一週48時間制度の実施
二、最低賃金の設定
三、夜業の禁止
四、治安警察法撤廃
五、労農ロシア承認
六、メーデーに全国的休業
七、経済的行動の全国的協力

 大会は、「日本軍のロシア全土の無条件即時撤兵と労農ロシアの承認」や「全国的産業別組合の建設」「国際労働会議の否認」に関する決議を行います。また「現在の政府の児童教育は、資本主義的にして我ら無産階級の子弟を毒すること大なるがゆえにこれを弾劾する」も可決します。

 日本労働総同盟がこの大会から、はじめて闘う労働組合化したと言われます。しかし、翌年の大弾圧でたちまち腰を抜かし「現実主義」労組として右転換します。  



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