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先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

少年労働者の要求! 東海堂書店争議―1928年の労働争議

2025年02月17日 09時00分00秒 | 1928年の労働運動

少年労働者の要求! 東海堂書店争議―1928年の労働争議
参照・協調会史料
  ・社会・労働大年表Ⅰ大原社会問題研究所遍

会社 東海堂書店
場所 京橋区月島
スト参加者 131名(この中には少なくない少年、幼年労働者がいたが、正確な数は明らかでない)
争議発生日 1928年5月19日
労働組合 出版労働組合

(児童労働)
1928年5月、京橋月島の東海堂書店131名の労働者が立ち上がった。その中には少なくない少年、幼年労働者が参加していた。少年たちの多くは会社の寄宿舎に入っていた。以下の「少年部員の要求」「寄宿舎改善の件」の二つの要求書は少年たちの置かれた劣悪な環境を赤裸々に暴露している。低賃金の上、病気手当なども大人と差別され、横暴な職制の存在や朝4時の早出命令、寄宿舎では汚い布団を他人と共有させられ、狭く押し入れもない不衛生な畳部屋に多人数が押し込められている。また少年たちの多くは、「働きながら学校で学べるから」という会社の甘誘を信じて入社したが、実際は会社が指定するろくでもない形だけの「夜学校」にしか通えず自分が学びたい学校には行かせてもらえなかった。少年たちは要求の二番目に「学校の選択は自由とすること」をあげている。会社糾弾演説会には、「全国夜学生聯盟」も同じ夜学生として駆けつけ少年たちを応援している。

東海堂書店争議の2カ月前の3月にも東京神田の厳松堂書店で年少労働者だけの42人が、「でっち奉公の改善」を求めて争議を起している(社会・労働大年表Ⅰ大原社会問題研究所遍)。同じ日岩波書店でも70名の店員(少年労働者も含む)が待遇改善を求め争議に突入している。4月には、本所業平の大日本自転車本所工場の224名のストライキでも少年工50名と女性40名が頑張っている。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/27f0d9956d05af2d800de03198f126bd

当時のアメリカでも日本でも紡績工場の「女工哀史」にもある「少女・少年・幼年」の児童労働酷使虐待は有名だが、印刷・出版・書店等においても同様であった。アメリカ映画「スミス都に行く」は1930年代の新聞印刷工場や新聞売り場の少年労働者が立ち上がり、暴力で弾圧されるシーンがでてくる。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/de7871ab26fedd52ccf4d74706a58914

日本でも多くの少女、少年労働者は立ちあがり幾多の闘いを起している。

(東海堂書店少年労働者の要求)
要求書
第一条 奥川,円山両氏を即時更迭いること
第二条 学校の選択は自由とすること
第三条 給料増額の件
 一、初任給は10円とすること
 二、昇給を3カ月毎に金一圓以上すること
 三、全員に二円増額すること
第四条 病気手当などの支給を大人と同額とすること
第五条 勤務時間は朝8時からとし終業時間を午後4時とすること
第六条 早出残業手当の増額
第七条 布団・畳を改善すること(布団は年二回洗濯すること、畳は年一回表替すること、三畳二人までとし一人寝とすること)
第八条 3年以上勤務した者、19歳に達したものは大人と同様な待遇とすること、大人同様な昇給、昇格をすること
第九条 今争議で絶対に犠牲者(解雇)を出さないこと
少年部員
東海堂会社社長殿

(寄宿舎改善の要求—上の写真参照))
要求書
一、寄宿舎設備改善の件
 イ、年一回の畳の入替をすること
 ロ、一人宛て畳2枚とし、押し入れを設けること
 ハ、布団は年二回洗濯すること、但し内一回は綿を打返すこと
 ニ、布団は一人宛て三枚をあたえること
二、通勤手当の増額の件
 通勤者に毎月手当二十円を支給すること
三、給料増額の件
 イ、店員一同に給料を現在より二割五分増やすこと
 ロ、給料は年二回に五円以上増額すること
 ハ、早出、残業を毎月三円を支給すること
 ニ、帳場計算員の早出、残業を認めること
四、賞与の件
 年二回本給に通勤手当を加算したものに一ヶ月以上の賞与を支給すること
五、退職手当を支給すること
六、店員病気中の給料支給の件
 イ、一ヶ月以内の病気欠勤者には給料の全額を支給すること
 ロ、一ヶ月以上三ヶ月以内のものには給料の半額を支給すること
 ハ、三ヶ月以上六ヶ月までのものには給料の三分の一を支給すること
七、本事件に対し、絶対に解雇者を出さないこと
昭和三年五月二十一日
昭三会
東海堂社長殿

労資交渉は決裂し、131名がストライキに突入した。

(元副支配人の自殺事件)
5月20日浜中元副支配人の自殺事件があった。会社は元副支配人の自殺は争議団のストライキに原因があると新聞やビラで大々的に宣伝した。21日争議団は声明書をだして反論した。

(労資交渉決裂)
5月23日、出版労働組合本部役員が会社を訪問して面会を求めたが、会社は「第三者・外部の者との交渉はしない」と拒否してきたが、争議団代表との交渉は受け入れてきた。この日の交渉は翌24日午前1時まで続き、朝10時から再開された。その後激論は5時間にも及んだが、ついに決裂した。交渉が決裂するやいなや会社は、たちまち「急進分子」19名の解雇を決定した。

(警察弾圧)
5月23日の労資交渉の最中午前9時頃、日比谷警察署は東京駅で職場の仲間に宣伝していた争議団員2名を不当にも検束し、拘留10日間もの処分をしてきた。

(131名全員の解雇)
5月25日、会社はストライキ参加労働者131名全員に対し解雇通告を内容証明書で送りつけ、同時に労働者や少年たちの父兄や身元保証人を呼び集め、争議団員の切り崩しを命じた。また会社はあらたに50人の臨時工を雇い操業を続けた。

(会社糾弾演説会)
5月26日午後6時より争議団は京橋区貸席橋樹亭で会社糾弾演説会を開催した。出版労働組合、無産者新聞、全国夜学生聯盟、新党準備会などの応援演説があった。全国夜学生聯盟代表は、同じ夜学生として少年労働者の闘いを断固として応援すると熱烈な応援演説をした。

(裏切者)
争議団の中に会社の意を受けて組合切り崩しを策謀するボス的人物八木明一らがでてきた。

(裏切者八木明一に対し、「自決要求」決議)
今回の争議に際し、貴殿のとりたる一切の行動は自身一個の利益のために、我ら百四十名の怒り絶頂に達す、依って我ら争議団一同はここにあくまで貴殿の自決を促すものである。
右決議す
五月二十七日 
争議団一同

(解決)
5月30日、
一、131名全員の解雇は撤回し、あらためて最小限度の人数を会社が選んで解雇する(6月1日、会社は争議団幹部27名を解雇した)
一、争議団に金一封(一千圓)を支給する
一、解雇者に給料一ヶ月分を支給する
等の労資合意で争議は終わった。

(警察の嫌がらせ検束)
争議解決当日の労資交渉が終わり、会社階下に待機していた争議団員全員が争議団本部へ引き揚げる途中、所轄月島警察署は、「争議団が革命歌を高唱して示威行動に出ようとした」といいがかりを付け、その場で争議団員17名を一挙に検束してきた。明らかに争議解決への官憲の腹立ちによる嫌がらせであった。

⁂追
(午前4時の早出出勤命令を拒んで解雇)
協調会史料(「東海堂書店従業員解雇ノ件 東京1928年12月6日」)によると、東海道書店ではこの年の12月にも、「午前4時からの早出出勤命令を拒んだ」という理由で臨時工5名を解雇してきたことで争議が起きている。この時も同僚の臨時雇用労働者10名が解雇された仲間に同情し出版労組に応援を求め、5名の復職などを要求したサボタージュ闘争がおきている。

↑クリック

(19世紀と変わらない資本家の無慈悲な搾取性・残虐性・残酷性・暴力性の本質)  渋沢栄一ろくなもんじゃありません! 夜勤を無くしたい!
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/97d1db9495b10780c8bb13fa0e87b569

ガラス壜製造メーカー大久保製壜所は現在も24時間操業、深夜労働もある三交替勤務です。この過酷な労働を1970年代には200名労働者のうち約半数の100名もの身体障害者や知的障害者が働いていました。数十名いた知的障害者は会社の男子寮、女子寮にいて、労働現場で職制などから「こども」と呼ばれていました。名前は呼ばれず、「おい、そこのこどもちょっとこい」などと言われるのでした。勿論、知的障害であることへの蔑視・差別による「こども」呼ばわりですが、戦前のガラス工場などで、児童労働者たちを「こども」と呼んでいた戦前の児童労働現場の慣習が、大久保製壜で僕らが耳にした「こども」呼ばわりとして残っていたのかもしれません。

<顔つきは鈍くなり、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬化して、みるも無残なありさまである。・・・この制度は、無制限な奴隷状態の制度、社会的にも肉体的にも道徳的にも知的にもどの点でも奴隷状態の制度である>(資本論第8章「労働日」)

いたいけな児童に、午前4時!からの早出命令!  なんという残酷残虐な資本家階級の本性でしょう。

以上


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