『女工哀史』1925年発行 細井和喜蔵著 岩波文庫
『女工哀史』を久し振りに読みました。
著者の細井和喜蔵は、1920年から亀戸の紡績工場で女工と共に「一個の平凡な奴隷として多数の仲間と一緒に働いていたのであった。鉄工部のボール盤で左の小指を一本めちゃくちゃにして」「一日12時間」働きながら、争議にも参加し、この本を完成させた。1925年に出版したその一か月後に亡くなっている。28歳であった。
細井和喜蔵の妻「高井としを」の詩
「女工哀史」後五十年!
ああ 細井よ、あなたが死んで とうとう五十年目
私は七十二歳のおばあちゃんになった
よくも生きたと思います
あなたが死んで
悪妻の 代表のように云われ
この世の中が いやになったり
酒を飲んだり 男友たちとあそんだり
旧憲法では 相続権もなかった私
でも 私は ちゃんと相続できたのよ
それは あなたの考え方
それは あなたのしんぼう強さ
おまけについてた 貧乏神
みんな みんな もらったよ
そして 七十二歳の今日 このごろ
やっぱり 貧乏で 幸せで
若い人と一緒に 話し合ったり
学習したり
へんなばあさんになりました
あなたが死んで
細井から高井姓にかわった私は
細井家とは何の関係もないと思っている人たちに
思い知らせてやりたい
財産とは 金や物だけではないことを
その考え方や 生き方を
いつまでも いつまでも 守り抜くのが
本当の相続人だと 解らせてあげたい
親も 子もない 兄弟もなかった
どん底貧乏の和喜蔵は
何も 残さなくても
『女工哀史』とともに
いつまでも いつまでも 生きている
その心を そのがんばりを
私は みんな みんな もらっている
そして 若い人に受けついでもらう
私は 七十二歳でも 若い友人が 多勢いる
そして 『女工哀史』をテキストに
学習会も行ないます
貧乏なんて 何でもない
貧乏で 幸せな ばあさんの一人言
高井としを
<彼女は和喜蔵との死別後、労農党の労働組合活動家であった高井信太郎と再婚して、関西に移り住んだ。だが、夫の信太郎は何度も獄に入れられ、二人の生活は苦労の連続であった。高井家には、つねに特高の目が光っていた。彼女は、「高井は、“別荘”のほうが長かった」といって、笑っていたが、怒りと涙で過ごした日々もあったことだろう。
その信太郎も、空襲による火傷が原因で、昭和21年(1946)に死んだ。以後、彼女は「ニコヨン」(日雇い労働者)をしながら五人の子どもをかかえて、夢中で生きてきた。昭和26年5月には伊丹で全日本自由労働組合をつくり、初代委員長となり、三年間つとめた。多いときは、1200人も組織したこともある。それ以後も休むことなく、日雇い健保の制度化、教科書無償化闘争、福祉の闘いの先頭にたって、世の母のため、子のために日夜励んでいる。>
『労働者と農民~日本近代を支えた人々』(中村政則 小学館ライブラリー)