
農民餓死「立禁」攻撃との熾烈な闘い 磐城村218人小作争議―1928年の農民運動
参照・日本労働年鑑第10集/1929年版(大原社研編)
場所 奈良県北葛城郡磐城村
地主 大地主4人とその他の地主24人計28人
小作農民数 218人
立ち入り禁止範囲 87町2段歩(磐城村全村)
争議発生日 1928年(昭和3年)5月
(この数年の農民側の勝利)
近年この地域で小作組合を組織した農民側は、村農会議員の絶対多数を占め、村農会長も小作人代表が当選した。村農会は完全に小作人の掌中になった。1928年度予算の賦課方法にも正面から反対し成果を上げた。更に政府制定の地租2百円以下の免税に対し、従来特別地租税を課していた欺瞞政策を暴露して、地租税廃止の決議もした。続いて郡村農会議にも小作側から議員を送って地主側をけん制した。こうした背景で毎年の小作側の小作料減免要求は勝ち取られてきた。1926年(昭和元年)は8割減要求勝利。翌年1927年も6割減要求勝利であった。1927年秋の県議戦の結果は全有権者620人中、小作側380人、地主側240人、更に春の議選でも小作側392人、地主側228人と地主側を惨敗させてきた。
(地主側の大巻き返し、農民餓死「立禁」攻撃)
1928年この年の小作側からの年貢米6割5分減要求に地主側は猛烈に反発した。しかも政府の3.15弾圧は農民組合や農民の先進的活動家の大部分を検挙している。好機来たれると大喜びした地主側は、たちまちこの数年の態度を一変させ、地主側は互いに全員手を結び、大巻き返し攻撃をはじめたのだ。1928年4月5日、地主側は小作農民に対しても一挙に87町2反歩にもわたる広大な田んぼへの「立ち入り禁止(立禁)を強行してきた。磐城村小作農民218人とその家族数百名が餓死しても構わないとする残酷非道な暴圧攻撃であった。
(農民の反撃)
しかし、農民たちは屈しなかった。立禁87町2反歩のうち、まず20町歩分の使用料を地主に納めて共同耕作の自由の権利とぎりぎりの生活の糧を手にした上、残りの土地は放棄することで、広大な田んぼをわざと荒廃させる戦術をとった。そもそも地主自身が田んぼを耕すことなどできはしない。その上広大な田んぼを耕してくれる多数のあらたな小作農民など簡単に雇えるわけがない。土地の返還を要求した地主側が大打撃を受けた。
5月20日八木町エビス館において、周辺地域の小作農民約800人以上も押し寄せた地主糾弾大演説会が開催された。続いて地主が所有している家屋の借家人が、みんなで「家賃不納同盟」を結成し家賃不納を敢行した。また税金不納同盟まで組織された。
(児童同盟休校決行)
小作農民の児童288人は第一弾とする二日間同盟休校に突入した。子供達は一人の脱落者も出さずに立派に団結して闘い抜いた。
(無産農民学校設立の準備会)
農民は学習と闘いを結び付け学習会を開きながら、自らで無産農民学校を設立しようと準備会を設けた。学習は農民一人一人の連帯意識と戦斗自覚を益々高めた。
(立禁強制執行攻撃近づく)
6月1日、「立禁」裁判が開始された。裁判所は必ず地主側に味方するだろう。いよいよ立禁強制執行攻撃が近づいた。地主側は立禁強制執行のため暴力団・反動団体の動員を準備し、田植え期には失業している朝鮮人に目をつけ集め出した。一方近づく立禁強制執行攻撃に農民側は家族ぐるみの大衆動員であくまで体をはって闘う体制と決意を固めた。県内、県外の農民たちも全力で駆けつける準備をした。
(調停)
7月28日、小作官、警察署長、県会議員、村助役らの調停、斡旋により争議は解決した。
(解決条件)
前年1927年の年貢は2割5分減とし、係争耕地はそのまま小作人に耕作させ、今後3年間の契約を結ぶこと。田植え未了の耕地は、直ちに田植を行い、本年は年貢無償とすることなどで解決した。農民の勝利だ。
以上