先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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浜松 日本楽器争議(その1)  1,300人100日間のストライキ 1926年の労働争議(読書メモ)

2023年02月09日 09時41分54秒 | 1926年の労働運動

ビラ・日本楽器争議団司令部と浜松市内各工場労働者(1926年)

浜松 日本楽器争議(その1)  1,300人100日間ストライキ  1926年の労働争議(読書メモ)
参照
「日本労働年鑑第8集/1927年版」 大原社研編
「協調会史料・日本楽器株式会社労働争議顛末」
「日本労働組合物語昭和」大河内一男・松尾洋
「日本労働評議会の研究」伊藤晃
「日本民衆の歴史 弾圧の嵐の中で」藤原彰編 三省堂

(評議会・浜松合同労働組合)
1925年頃から評議会の活動家・組合員の奮闘により浜松市内労働者の組織化と地域の工場の闘いが活発化した。1926年1月24日、市内の鈴木織機会社約100人の労働者は会社の組合脱退強要と全員解雇攻撃に怒り、一ヵ月にも及ぶストライキを敢行し、ついに労働時間短縮、最低賃金を1円50銭にするなどの待遇改善と労働組合の承認を勝ちとった。西遠染色会社では最低賃金を1円10銭から1円20銭にさせ、大正染色会社では解雇しても一円もなかった解雇手当を一人300円を勝ち取り、また労働者の月収を倍にさせた。その他の多くの工場でも浜松合同労組が交渉し賃金を上げ、解雇手当を出させた。この浜松合同労組の闘いと勝利に士気に感じた市内の労働者は、続々と浜松合同労組に加盟してきた。西遠染色、大正染色、飯田織機、帝国制帽、東洋タイル、日本氷糖など市内14工場に評議会・浜松合同労組が組織され、組合員の数はたちまち約2千名に及んだ。1926年4月までに日本楽器の労働者約1,200余名も評議会・浜松合同労組に加盟した。

(日本楽器)
1926年頃の浜松地方は、工場40、労働者数約1万5千人で、多くは中小工場であったが、中でも山葉オルガン(現ヤマハ)で有名な日本楽器会社は、飛行機のブロペラなど軍需品も生産し、三井・住友の資本も入り、浜松地方の銀行や会社の役員をかねる重役陣を擁する地域の独占企業であった。一方、警察署長などの経歴を買われ1916年から社長となった天野千代丸の独裁的経営のもと労働者1,272人(うち女性300人)の労働現場は実に悲惨な状態であった。

(劣悪な労働現場)
1926年4月21日、浜松合同労組の日本楽器労働者は嘆願書を会社に提出し、4月25日午前9時までの回答を求めた。
この嘆願書をよくよく見て欲しい。便所を!、洗面所を!、食堂を作って欲しい!。いかに日本楽器に働く労働者の職場環境が劣悪であったか、作業上どうしても必要なウエス(布)すら汚いままで使わせている。

17項目の嘆願書(4月21日) 
第一條(衛生設備)
イ、便所の無いところへ便所を作ること
ロ、洗面所の無いところへ洗面所を作ること
ハ、ウエス(布)を再消毒すること
ニ、食堂を作ること
ホ、昼休みを40分にすること
第二條
イ、相扶会の会計監査を各部職工より一人選出すること
ロ、会計袋、明細に記入すること
第三條
イ、正月の休日10日間を7日間と改正すること
第四條
会社都合の休日、早退は日給を支払うこと
第五條
兵事で休んだ場合は日給の半額を支払うこと
第六條
皆勤賞、年功賞与を支払うこと
第七條
退職手当を制定すること
第八條
最低賃金を制定する事
第九條
年2回昇給をする事
第十條
公傷で入院中の者、労働が不可能の者に日給を支給する事
第十一條
残業の歩合を増やす事
第十二條
年2回慰安会を開催する事

(天野千代丸社長)
この日本楽器の労働者の要求は、どれ一つとっても当たり前すぎる、ささやかな要求だ。むしろ世間に知られたら日本楽器の劣悪な職場環境が暴露されてしまい天野社長にとっておおいに恥となる内容だ。ならば天野社長は世間に知られる前に、すぐに改善しただろうか。否、天野社長は正反対の行動を起こしてきた。労働者のこのささやかすぎる要求に対し、彼は「評議会は共産主義者だ、共産党だ」「国体に反した労働組合だ」「過激社会主義者」「反国家的危険革命的陰謀団」「争議は国家革命の予行演習」「不逞の徒」「共産主義撲滅」と恥ずかしげもなく大騒ぎをして、だから「国家的見地よりこれを排除する」と手段を選ばない組合つぶし攻撃に出てきた。彼は「日本楽器の労働者が評議会と絶縁しない限り断じて要求に応じない」「あくまで反抗するのであれば、おれは軍隊でも警察でも自由に動かすことができるんだ」と豪語してはばからなかった。

(日本楽器1,300人ストライキ突入)
1,300人の労働者の怒りが爆発し、4月26日からストライキが決行された。100日以上に及ぶ大ストライキが開始されたのだ。浜松市民は争議団に大きな同情を寄せ、市民大会を開催し、声援し、カンパを集め争議団に届けた。一方天野社長の下にある浜松商業会議所の企業主たちは、日本楽器の労働組合攻撃を全面的に支持した。

評議会本部は、本部組織部長三田村四郎、教育出版部長鍋山貞親らを派遣し、ただちに大会を開催、争議団を発足させ、給料一日分を争議資金とし、「情報」「炊事」「訪問」「会場」「財政」「印刷」「教育」「遊説」「警備」などの専門部を設けた。争議団1,300人を13班に分け、各班ごとに評議会からの応援オルグを張り付け、工場を包囲する周辺に8軒の家を借り、それぞれに分宿させた。「労働講座」「雄弁講座」「婦人講座」等の学習会を連日開催した。また精鋭分子30人ほどで「特別研究講座」をつくり、小グループの細胞として編成した。細胞が集めた情報は、三田村、鍋山らで構成する秘密の最高指導部(アジト)に直結し討議され、次の行動方針決定に役立った。

(浜松市内総決起)
三田村四郎は浜松合同労働組合の執行委員長に就任し、さらに浜松の未組織の組織化につとめ、全組合員の応援で全市的な共同闘争を目指した。
「全浜松の労働階級は一勢に組合に入れ!! 楽器会社争議団を応援せよ!!」「労働者の勝敗この一戦にあり、全浜松の労働者諸君奮起せよ」の浜松合同労働組合のビラが市内労働者に手渡された。

(一人の労働者に加えられた迫害は、これ全労働階級に加えられた迫害である)
鈴木織機工場
飯田織機工場
杉増商会工場
中村氷糖工場
三立製菓工場
大正染色工場
南部染色工場
東洋染色工場
西遠染色工場
日本形染工場
帝国製帽工場
東洋タイル工場
龍西染色工場
遠州織機工場

上の各工場の浜松合同労組に組織された労働者は、「一人の労働者に加えられた迫害は、これ全労働階級に加えられた迫害である」と全力で日々浜松楽器争議団を応援した。また市内中からカンパを集め争議団に贈った。

(浜松で最初のメーデー、3千人日本初の「シュプレヒコール」デモ)
5月1日、浜松で最初のメーデーが3千名労働者の参加のもと開催された。500人の警官が警備する中、市内の竜禅寺に集まった3千人は市中に繰り出した。評議会本部の鍋山貞親を先頭に堂々たるデモが闘われた。デモの指揮者が「悪資本家を倒せ!」、「天野を葬れ!」などと叫ぶと、デモ隊は、いっせいに調子を合わせて唱和した。こうした「シュプレヒコールのデモ」は浜松メーデーに始まり、たちまち全国に拡がった。

連日、デモ、集会、演説会が行われた。51回開かれた演説会には毎回千人の聴衆が押しかけた。浜松合同労組はますます浜松市内全域の未組織の組織化に奮闘した。5月14日には日本楽器の下請けの工場の労働者で同情ストライキが勃発した。横浜分工場でも同情・連帯ストライキがあった。浜松合同労組に新しい組合員が加入した。争議団は全国から送られてきた米俵をその都度荷台に満載しては、200人で工場を一周する示威運動もした。

(争議日報の発行)
争議団は秘密のアジトで謄写版刷りの「争議日報」を毎日発行した。全組合員に、毎日の状勢や活動方針を伝えた。そのため団員の統制が一糸乱れないまでに高まった。〈毎日発行される謄写版刷りのビラ「争議日報」〉は、それまでの争議では余り例がなかった。この情報の共有がいかに1,300人労働者を励まし、団結を固める大切な武器となるかを示した。そのため警察は目の色を変えて「争議日報」が印刷される秘密アジトを探しまわったが、どうしても見つけることは出来なかった。浜松市民の争議団への同情と応援がアジト防衛に大きく影響した。在日本朝鮮労働総同盟も日本楽器争議支援を決議し、浜松現地に駆け付けた。

浜松市内では子供たちの間で「労働歌」の唱和が流行った。
(その2)に続く



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