先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1926年主な出来事 1926年の労働運動 (読書メモ)

2023年01月27日 07時00分00秒 | 1926年の労働運動

孫文1925年3月12日「革命いまだ成らず」の言葉を残して死去

1926年主な出来事 1926年の労働運動 (読書メモ)
参照
「日本労働年鑑第8集/1927年版」 大原社研編
「日本の歴史(下)」井上清 岩波新書
「植民地朝鮮と日本」趙景達著 岩波新書
「社会・労働運動大年表Ⅰ」大原社研編 労働旬報社編

1、中国革命の大波
中国では1919年の5.4事件など反帝国主義、反軍閥、民族的統一の運動が昂揚する中で、1924年1月国民党と共産党の統一戦線が成立し、1925年の2月から5月の青島と上海の日本資本紡績会社で中国人のストライキ労働者を射殺した事件とそれに抗議した5月30日上海で大デモとストライキ闘争が起きた。日本軍も出兵した。孫文は1925年3月12日「革命いまだ成らず」の言葉を残して死去した。

圧倒的多数の中国民衆は孫文の中国共産党との合作(1926年1月4日国民党2全大会、宣伝部長代理に毛沢東選出)の革命的運動を支持した。中国労働者の決起に日本の労働者も呼応した。評議会は日本政府と資本の侵略主義に反対し、中国労働者との連帯運動を起こした。この時大阪の評議会が叫んだ「対支非干渉」のスローガンはこれ以降の日本の労働運動における反侵略、反戦の主要なスローガンの一つとなり全国に拡がった。総同盟においても6月に「(日本は)帝国主義を捨て英米の尻馬に乗るのをやめるべき」と日本の侵略主義を批判した。こうして中国革命の高まりは、日本の労働者の立ち上がりと労働組合運動に大きな影響を与えた。

1926年7月には国民政府軍による北伐が開始された。この時、上海・南京方面に進出していた三井系資本や政友会は〈中国革命への干渉をもっと強めろ〉と若槻内閣と幣原外相を「軟弱外交」と攻撃し、日本軍の一層の中国革命への妨害と侵略を要求した。

1月、徳永直の『太陽のない街』で描かれた58日間に及ぶ共同印刷のストライキがおこり、つづいて浜松の日本楽器では4か月におよぶ長期ストライキがたたかわれた。どちらも資本家による官憲とならずもの暴力団によるすさまじい弾圧攻撃があり、労働者側は全国からの支援態勢を組み文字通りの労資の決戦が展開された。農村では新潟県の有名な木崎村小作争議がここでも最終決戦段階に突入して、全小作対全地主対決の様相を呈していた。評議会が指導した共同印刷と日本楽器の両争議は資本家による官憲の大量検挙や暴力団などの暴力的弾圧のすえついに惨敗した。にもかかわらず、労働者側の長期強靭な大衆闘争は、日本全国の労働者、農民、学生、民衆に大きな感銘を与え、強い共感と同情が寄せられ、当局のねらいであった戦闘的労働運動の壊滅こその目的とは逆に、全国の労働運動全般の決起と戦闘化、左翼化を生みだした。その結果、この年の労働争議は内務省社会局によると争議件数1,260件、参加者数は127,267人で、スト495件、スト参加者は過去最高の67,234人にのぼった。

しかし、民衆の側がこのように闘う団結力も勇気も示していたにも関わらず、権力の露骨な弾圧攻撃に右派幹部はますます右傾化し、労働組合や無産政党の側は分裂を重ねていた。

2、世界
(中国)
1月広東で国民党2全大会開催。江兆銘・蒋介石ら実権掌握。国共合作、宣伝部長代理に毛沢東選出。
3月北京で3.18事件。反帝国主義デモが拡大し弾圧される。
3月20日には蒋介石、共産党員逮捕の「中山艦事件」。
7月9日中国国民革命軍北伐開始
9月5日万県事件、イギリス軍による中国への砲撃事件。
10月上海第一次武装蜂起失敗。

(朝鮮6.10万歳闘争)
4月25日大韓帝国最後の皇帝純宗が死去した。全国が「涙の海」となり、各地で望哭式が行われた。総督府の厳戒弾圧の中、斎藤実暗殺未遂事件もおきた。朝鮮民衆の慟哭の群れを蹴散らそうとする警官隊に、日本人・総督府への反感はたかまった。国葬とされた6月10日に第二の3.1運動が計画された。しかし、事前に察知した総督府当局は大量検挙で弾圧した。6月6日20万人が京城に集まり、学生らは「大韓独立万歳」を叫んだ。150名以上の学生が逮捕された。

(英炭坑ゼネスト)
5月4日イギリス炭坑労働者の賃下げに反対する闘いに同情した全国250万人のゼネストが9日間にわたって展開されたが、労働組合側の完全な敗北により、翌年にはゼネスト禁止、ピケット権の制限などを規定した労働争議・労働組合法が制定されてしまった。

3、社会
(京都学連事件)
治安維持法違反の国内初の起訴が、1月から4月の<京都学連事件>であった。京都帝大の岩田義道や慶応大学の野呂栄太郎、東京帝大の林房雄など学生38名が起訴された。事件の発端は軍事教育反対運動であった。弾圧されたのは学生だけでなく、河上肇や山本宣治らの教授などもいた。

(労働農民党結成)
前年1925年の普通選挙法成立を受けて、合法的無産政党結成の動きがにわかに活発化した。前年12月に結成された「農民労働党」は即日禁止されたため、26年3月に、まず左翼を排除した「労働農民党」が結成された。しかし、10月に総同盟など右派が労働農民党内の左派排除を要求し、受け入れられないとみるや一斉に脱退したため、労農党はあらたに大山郁夫委員長のもとで、左派に門戸を開放し活発に動き出した。総同盟など右派は「社会民衆党」を結成し、中間派の労組は「日本労農党」を結成した。

(治安警察法17条の削除と「暴力行為等処罰に関する法」と「労働争議調停法」の公布)
治安警察法17条は、ストライキの煽動を禁じていた。4月政府はこの17条削除を決めた。しかし、その代わりに登場したのが、暴力行為等処罰に関する法の公布で一層激しい争議弾圧が可能となった。また労働争議調停法は労働組合を争議当事者、調停の対象として位置づけることで、政府による強引・無理やりの<争議の強制的調停>ができるようにした。

(朝鮮総督府の新庁舎建設)
1916年6月から着工され、1926年10月に竣工。

(日本共産党再建大会)
1924年に自ら解党声明をした日本共産党は、1926年12月4日山形県五色温泉において秘かに再建された。しかし、堺利彦、山川均、荒畑寒村ら第一次共産党指導者らは相談を受けていなかった。佐野文夫や福本和夫ら7人が中央委員に選ばれた。

(朴烈事件の金子文子自殺と怪写真配布事件)
関東大震災の朝鮮人虐殺事件への世界からの非難をかわすために、天皇家暗殺という冤罪をでっち上げられた大逆罪で死刑宣告された朴烈と金子文子。金子文子が7月に獄中で自殺した。その直後二人が寄り添う獄中写真が世間に配布される事件もおきた。

(ファシスト労組の誕生)
10月、石川島造船所に「石川島自彊組合」が誕生した。<天皇の下で臣民は平等である>と謳う日本主義労働組合、ファシスト労組の誕生である。一番の目的はストライキに反対し資本家を喜ばせることにあった。

(水平社福岡聯隊差別糾弾闘争とでっちあげ弾圧)
1月以来全国水平社九州聯合会の福岡聯隊内の差別事件糾弾闘争、反軍闘争が激化した。11月、警察は〈水平社による聯隊爆破事件〉をでっちあげて、松本治一郎以下17人を逮捕してきた。

4、1926年主な労働争議と労働組合
1926年の労働争議件数1,260件、参加者数は127,267人で、スト495件、スト参加者は過去最高の67,234人であった。

1月共同印刷争議
博文館の組合は1924年の争議に勝利した。1925年12月、博文館と精美堂が合併した共同印刷株式会社が設立された。共同印刷は評議会に参加している労働組合を今度こそ絶対に潰さんと巻き返しを虎視眈々とねらっていた。1926年1月突如操業短縮が発表され、組合はストに突入した。会社はロックアウト、組合切り崩しに奔走した。2月4日、スト参加者2142人中380人が裏切り、スト破りをした。3月18日、金銭解決(13万円)と組合が1180名全員の解雇を受け入れことで争議は全面敗北して終了した。この争議は「太陽のない街」(徳永直著)で有名である。

1月日本労働組合総聯合結成
反総同盟の立場の関東の機械労働組合聯合会と関西労働組合聯合会が日本労働組合総聯合を結成した(3831人組合員、布施辰治会長)。

2月住友別子銅山ストの終結
住友別子銅山では前年12月から大ストライキが続いていたが、正月に住友邸や重役宅を襲撃・乱入した事件がおき、続いて2月の別子銅山の2カ所の変電所水路破壊が勃発し、事態は急変した。愛知県知事が調停に入り、2月16日、別子銅山と総同盟が争議終結の会見をした。

2月東京製綱団体協約締結
東京製綱と総同盟松岡駒吉主事は評議会組合員の排除を目的とする「クローズドショップ協定」を締結した。

4月浜松日本楽器のスト
評議会系の浜松合同労組に加入していた日本楽器工場の千人(全従業員1346人)が4月にストライキに突入した。官憲や暴力団の介入で激しい攻防戦が繰り広げられた。8月8日105日間に及ぶ争議は解決したが、解決金3万円と350人の解雇受け入れであった。

5月富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場ストライキ
東京メーデー会場で演説した富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場の女性労働者がメーデー直後に解雇された。これに抗議するストライキが6月26日まで続いた。

5月木崎村小作争議激化
日農が指導した代表的小作争議。1922年~30年に及ぶ長期の小作争議。1926年4月、土地返還を巡る強制執行で小作と官憲が大衝突し、全国的に農民・労働者が応援した。児童の同盟休校や無産農民学校も設立された。

6月秋田吉野鉱山スト
組合幹部解雇に反対してストライキ。40人鉱夫退山。

6月合法左翼戦闘的労働組合の中心「日本交通労働総聯盟」結成
東京市電、大阪市電、横浜市電、神戸市電約2万人が結集し、活発な活動を行うなど合法左翼戦闘的労働組合の中心として重要な役割を果たした。

7月東京モスリン亀戸工場2899名ストライキ
食事の改善等を要求しストライキ。8月10日労働者10名と工場長解雇で解決。

8月東京市水道局争議
60名が市電並の待遇を求めた争議(~10月)

9月日立製作所争議
東京南葛の日立製作所で転勤等反対で大がかりなサボタージュ闘争(~10月)

10月尾去沢鉱山1400人ストライキ
20日間のスト。組合加入の自由・最賃など要求の一部実現で妥結。

10月徳島県撫養塩田労働者2340人根待遇改善を求め争議(11月解決)

10月大阪市の森硝子工場朝鮮人150人賃下げに反対しスト、10人逮捕

12月総同盟第二次分裂
12月3日労働農民党を脱退し社会民衆党を結成する方針の総同盟中央委員会は、日本鉱夫組合の麻生久、加藤寛勘十らを除名した。総同盟の第二次分裂である。麻生久らは総同盟本部のかたくなな反共主義に反発し、中間派組合である「日本労働組合同盟」を結成し、総同盟の関東合同、兵庫県連合会、九州連合会など約1万3千人が参加した。麻生らは「日農」の三宅正一らと共に「日本労農党」を結成した。

12月東京市従業員組合500人解雇反対3日間のストライキ



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