大久保製壜一族は何度も失敗するが、決してやめようとはしない。なぜか。資本家の考え方が根本的に間違っているからだ。つまり「労働者は、(特に"障害者"や"知的障害者"は)自分で考えることなどできず、ケチで臆病で怠け者で、まして人のために闘うことなどできっこなく、虫けらと同じで、一言で言えば無能なのだ」と信じ込んでいるし、またそうであってほしいのだ。
実際はどうか。労働者・大衆こそが最も仲間の事を思い、差別を憎み、搾取と闘う勇気を持っている。
仲間はすばらしいのだ。
教会籠城闘争から3年目の1978年(昭和53年)、大久保製壜闘争最初のパンフレットが発行されました。その中の「検査課労組闘争方針」、方針その一「仲間は素晴らしい」、方針その二「勝利の条件」は、私たちが闘いの中で苦しみ動揺した時、闘いから脱落しそうになった時、安易に外の支援の人々にのみ頼り、彼らの力や裁判だけで勝とうとして辛い地味な職場での活動や仲間との団結のための苦労を放棄しそうになった時、いつもこの「検査課労組闘争基本方針」に立ち返り皆で討論しました。21年9カ月にわたる大久保製壜闘争を貫く私たちの基本となる考え方です。1978年4月22日の大久保製壜検査課労働組合の秩父合宿で検労組員みんなで時間をかけて真剣に討議決定したものです。紹介します。
大久保製壜所検査課労働組合 闘争基本方針
方針その一 仲間は素晴らしい
1976年(昭和51年)9月以来の新勤務体制反対の闘いは、検労組員のみの闘いではなかった。できるだけ職場の仲間と話し合い、彼らの怒りに依拠し、"有志"を組織し、多数の署名を得ての闘いであった。課長・部長交渉そして9月25日の闘いも、できるだけ仲間と共に、あるいは大衆が見守っている中で闘われた。
御用組合の何人かの幹部は、会社側の暴力の尖兵として現れたが、私たちは職場の大衆のどまん中で、風呂に入っているとき、食堂などで正面きって追及して闘った。彼らにつく者はほとんどなく、大衆から完全に孤立した御用組合幹部は、今では私たちに指一本ふれることはできない。このような私たちの半年以上の闘いの中で、御用組合の内部矛盾は激化し、委員長は突然退社し、下部組合員は「君たちは勇気がある」「見てる人は見てる。あせらず頑張れ」と励ましてくれる。
1977年(昭和52年)に入っては、会社構内にダラ幹(堕落した御用労組幹部や管理職のこと)批判や社長に対する落書きがいたる所に見られる始末。これにあわてた会社は、御用労組の新委員長ポストに取締役の息子をすえ、検労組攻撃に露骨に利用しようと試み、一方で大衆に対しては「落書きをしたものは見つけ次第処分」の脅しの告示。ところが職場の仲間たちは逆に「取締役の息子に何ができる」、「検労のように闘わなければダメだ」と御用労組の新執行部を突き上げ、検労組合員が会社の嫌がらせで病気欠勤が認められないと知るや一斉に課長に抗議しついに撤回させたのだ。また、元工場長、社長の実弟が深夜酔っぱらって夜勤職場に入り込み、怒鳴りいばり散らしたとき、検労組員が先頭に立ち糾弾し追い払うと、その数日後に開かれた御用労組の代議員会で、良心的な代議員がこの元工場長への非難の声を上げた。数週間後、社長はこの弟の「取締役を解任、別会社へ出向」の貼り紙をだしてきた。もちろんその理由は何も明らかにはしていないが、私たちの捨身の闘いとそれを支持する仲間の怒りに恐れをなした結果であることは間違いない。
大久保製壜資本の汚らしい手口、この数十年に及ぶ労働者支配の方法が、「分断・分裂」政策であり、健常者と障害者、障害者と障害者を対立させ、けんかをさせ、そのことで全大久保製壜の仲間たちの不満、怒りを押さえ、極端な低賃金、劣悪な労働条件を強い、自分たちはぬくぬくと肥え太る。このやり口、この汚らしい支配の方法が、私たちの闘いの中で暴露され、今までのようには仲間もそう簡単には会社の手口にのらなくなってきている。
「"障害者"は弱い。だから弱い者は、がまんしろ」という今まで数十年続いていた大久保製壜所の職場の常識がくずれてきている。「障害者」であろうと「健常者」であろうと、仲間を信頼し、団結し、実力で闘うときにのみ強くなれるし、あの犬Ⅰのように筋肉隆々でいかにも「強そう」にいばり散らしていた男が、今では仲間から本気で相手にされず、会社にこびへつらうしかない姿は、誰の目から見ても「弱い」のだ。このことは仲間が一番良く見ているし、知っている。仲間全員が受けてきた長年にわたる労働者いじめ、搾取の数々は、そして現在の実際の生活は、会社のどんなごまかしやおどしによっても、決してだまされることはない。
検労組と支援の仲間の団結の力強さとそのすばらしさをも、また職場の仲間はばっちりみている。
雨の日も風の日もかけつける支援の仲間、そして社会をも動かす広範な支援を職場の仲間は知っている。だからこそ、会社は3直3交替制から4直3交替制にふみきらざるを得なかったのだ。会社は労基署などごまかすのは目ではなかったはずだ。しかし、職場の仲間たちの目をごまかすことはできない。このまま放っておけば、120名の仲間が検労組員のように立ち上がってしまう。このことを最も恐れたのが、今回の4・3制実施なのだ。
千葉君への不当解雇は、こういう状況で出されてきた。職場内外で孤立し追いつめられた大久保製壜資本が一大逆転をねらった彼らなりの「実力闘争」なのだ。しかも、なによりも今度のやり口が、今までの数十年にわたる大久保製壜資本の労働者支配、欺瞞と全く同じであるからこそ、逆にますます職場内外の仲間はすぐにその本質を見抜くことができたし、誰一人会社の言い分を信じる者はいなかった。
だから、今回の闘いも必ず勝利する。1975年冬の教会ろう城闘争の全面勝利、そして1976年新勤務体制を完全に粉砕し4・3制を獲得したことと同じように、一連の大量処分攻撃と千葉君不当解雇は必ず撤回できる。
しかしながら大久保製壜一族は、これからも何度となく組合つぶし(労働者搾取、障害者差別の目的のため)を試みてくるだろう。そしてそのたびに失敗するだろう。
彼らには検労組に組合員が増え続ける意味がわからない。たった8名になっていじめられている検労組に逆に6人もの仲間が入る。しかもその中には組長や班長もいる。御用組合の代議員をしていたものが2人もいる。一度検労組を抜けた者が2人も再加入する。
支援の労働者が、自分の休みの日も返上して一日も欠かさず雨の日も風の日もはせ参じてくるのがわからない。大久保一族にはどうしてもわからない。
彼らはこう信じている。一部の者が煽動しているだけだ。支援だって上から言われてくるだけだろう。よし、指導部を御用労組の牙城に配転させ、いびらせ、つぶしてやれ。金ならどうだ。連中はいつも競馬、競輪をやっているはずで、金には目がなかったはずだ。ボーナスを出さなければ少しは効き目があるはずだ。暴力ならどうだ。労働者なんて、いつだつて上司にペコペコしているもんだ。本当は臆病のはずだ。ところが、このすべてが失敗し、逆に検労組の力は強くなっていく。
大久保製壜一族は何度も失敗するが、決してやめようとはしない。なぜか。資本家の考え方が根本的に間違っているからだ。つまり「労働者は、(特に"障害者"や"知的障害者"は)自分で考えることなどできず、ケチで臆病で怠け者で、まして人のために闘うことなどできっこなく、虫けらと同じで、一言で言えば無能なのだ」と信じ込んでいるし、またそうであってほしいのだ。
実際はどうか。労働者・大衆こそが最も仲間の事を思い、差別を憎み、搾取と闘う勇気を持っている。
仲間はすばらしいのだ。
だから私たちは職場内外の労働者大衆を無条件で信頼し、今以上の団結を獲得し、あくまで実力で闘い続けさえすれば勝利できるということである。
このことは、私たちが「方針」を決定する時に忘れてはならない最も重要な点であり、このことこそが検労組結成以来、我々組合員ひとりひとりがまさに仲間から学んできた教訓である。
(1978年4月22日検査課労組秩父合宿)
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方針その二「勝利の条件」に続く