先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

大阪 東洋紡績三軒家工場争議 1926年の労働争議(読書メモ)

2023年03月01日 07時00分00秒 | 1926年の労働運動

写真・大阪紡績染物労働組合発会式1926年6月

東洋紡績三軒家工場争議
参照
「協調会史料」
「十二歳からの紡績女工の生涯-山内みな自伝」新宿書房

大阪市港区東洋紡績三軒家工場は、2,916名(内女性2261名)の労働者が働いている大紡績工場。沖縄出身の女性労働者が多かった。1925年7月下旬、東洋紡績四貫島工場で総同盟組合員9名がクビになり、1926年(大正5年)の2月と6月には評議会の組合員に強制配転が命じられ、これに反対する闘争が起きたがこの時は会社に押し切られた。評議会は、6月の争議の時に三軒家工場の労働者を中心に「大阪紡績染物労働組合」を結成し、本格的に闘いの準備を整えた。

(山内みなさん)
宮城県で生まれ、12歳から東京モスリンで12時間労働の二交替勤務の紡績労働者として働いていた山内みなさん。1914年6月東京モスリン工場の友愛会初めてのストライキに参加し、労働運動に目覚めた。1917年友愛会創立五周年大会に東京モスリンの代議員として参加。1919年東京モスリンは、友愛会で熱心に活動する山内みなさんを嫌い突然解雇してきた。その後女性解放運動や総同盟の活動を経て、総同盟の分裂で評議会の中で尽力する。25歳、1926年の大阪紡績染物労働組合結成に参加、執行委員・婦人部長に就任、また関西評議会婦人部長として東洋紡績三軒家紡績争議団の闘いを全力で指導・応援した。

(総同盟と評議会の共同戦線)
東洋紡績三軒家工場には、日本労働組合評議会大阪紡織染物労働組合三軒家支部約700名と総同盟紡績労働三軒家支部数十名の組合があった。

1926年8月2日総同盟紡績労働三軒家支部から職場の多数派であった日本労働組合評議会大阪紡織染物労働組合三軒家支部に「共同戦線」の申し入れがあり、8日、評議会支部は総会で「要求と意見が一致さえすれば喜んで共同戦線を張る」と決議した。両組合は共同委員会の設置、要求、応援、基金など争議に関する一切の方針を共に決定した。
また、
一、共同委員会は、会社が要求が拒絶してきた場合は、ただちに工場内で従業員大会を開きストライキを敢行すること。
一、ストライキへの応援として総同盟、評議会より最大限の応援団を動員すること。
等を確認しあった。

8月11日共同の要求書を会社に提出。
共同要求書
一、運送部員に工場法を適用(健康保険負担金は会社が全額払う)されたし。
二、寄宿舎女工の外出を自由にされたし、ただし夜間11時まで。
三、女工の強制送金制度を廃止されたし。
四、家族手当を増額されたし、但し現在の二倍。
五、社宅・寄宿舎の浴場改善。
六、年二回の定期昇給(一回最低5銭以上)。
七、日給の一割値上げ、但し即時実施されたし。
八、衛生設備の改善。便所・洗面所・湯呑場等。
九、工場療院(診療所)に各科専門医を置かれたし。
十、交代日勤務を廃止されたし。
十一、世話係の排斥。但し三、五、十号世話係。
十二、日常品廉売所の物品を2割値下されたし。
十三、食堂の改善及び差別の撤廃。
十四、社宅南門を昼間は開放されたし。
十五、炊事係に公休日を与えられたし。

(評議会非公然アジトの設営)
評議会はこの争議指導の主体として、非公然のアジトを作って応援の体制を整えた。アジトには谷口善太郎、国領五一郎、三田村四郎、鍋山貞親らが詰めた。

山内みなさんは評議会の連絡係(レポ)として職場労働者と非公然アジトを結ぶ大変責任の重い任務を負わされた。争議団の仲間たちからの報告や意見を聞き、まとめ、それをアジトに伝え、アジトからの「方針」や「戦術」を仲間たちに伝え、直接指示する。この中身を特高や会社に知られてはいけないので、文書ではなく記憶した言葉で伝え、そのため暗唱や練習もして行った。

(会社と暴力団と官憲)
会社は、女性たちの切実な要求を直ちに拒絶してきただけでなく、会社回答を聞きに行った従業員代表と中心人物数十名を、即時に解雇してきた。その上、凶器で武装した暴力団と大阪府特高警官隊が労働者を暴力的に抑え込もうと待ち構えていたのだ。工場内は騒然とした。工場の外には押しかけた評議会300名と総同盟50名の応援部隊の挙げる気勢とそれに呼応する職場労働者。一挙にストライキの敢行となった。しかし、会社の暴力団と大阪府特高課長の率いる百数十名の警官の暴虐な弾圧が始まった。こうして立ち上がった女性たちは無惨にも全員寄宿舎に押し込められてしまい、僅か百数十名の男子労働者だけが門外に飛び出してきたにすぎなかった。工場に押しかけようとする応援団も、暴力団の凶器と武装した警官隊の暴行と検束により、会社の監禁攻撃を突破することはできなかった。

(寄宿舎女性300名の決起と非情な弾圧)
工場内と寄宿舎では会社、暴力団、官憲に怒った多数の女性労働者が、寄宿舎に監禁されながらも外部と連絡を持ち、なんとかこの暴圧をはね返そうと必死にもがいていた。
8月14日早朝、寄宿舎の女性労働者約300名が寄宿舎裏門を破壊し、ついに工場を脱出した。山内みなさんら応援部隊と300名女性たちは一丸となって驚喜した。しかしその喜びも束の間、すぐに数百名の警官隊が自動車に乗って駆け付け、応援部隊の闘士たちをかたっぱしから約50余名も検挙し、また女性たち300名を無理やり十数台のトラックに引きづり込み検束し、警察に連行した。その後工場へ連れ戻された女性たちが寄宿舎の庭に着くやいなや、会社側職員共から往復ビンタを加えられ打ち倒された。会社側は、泥まみれになって泣き叫ぶ女性たちを、さらに踏んだり蹴ったりの暴行が続く。その後、寄宿舎と職場では、先進的労働者と一般労働者を離れ離れにし、隔離し、あるいは一番労働がきつい混綿現場に強制配転するなど、会社は虐めにいじめ抜き、先進的女性労働者を孤立させた。会社の虐めのあまりの辛さに田舎に逃げ帰る者も出てきた。ついに三軒家紡績争議団に残った者は、解雇されたわずか20余名になってしまった。白昼公然と資本家の手先となり御用機関となった大阪府警察部と暴力団の残酷な仕打ちの結果であった。しかし、残された20余名の労働者は争議団を再び組織し、歯をくいしばり闘いを継続した。

(総同盟共同戦線を破棄し、会社と妥結)
総同盟は共同委員会の席上、「総同盟は今後単独で会社と交渉する」と共同戦線の破棄を表明した。理由は14日の女性たちの寄宿舎脱出闘争とその後の総検束と混乱は総同盟が単独でやったことで、総同盟には「共同委員会の開催」の連絡がなかったと主張した。評議会側は、女性たちが自ら寄宿舎を脱出して来た時、即座に応援するのは労働組合として当然であり、共同委員会の開催まで女性たちをほっとけというのか。まして官憲や暴力団の弾圧の最中に共同委員会を開催することなどできるはずがないと主張したが、結局評議会と総同盟の画期的な共同戦線は失敗した。その直後、総同盟の西尾末広は会社と単独交渉して、解雇手当を日給200日分(会社65日分と山邊課長より135日分)支給で合意し、総同盟は8月16日に争議打ち切りを発表した。

(評議会妥結)
8月17日、評議会と会社は以下の条件で解決した。
一、運送部の待遇は来年の健康保険法の実施の時に配慮する
一、寄宿女工の外出は原則として自由である(風紀及衛生の点は考慮)
一、専門医を置くことはなるべく意に添うようにする
一、社宅・寄宿舎浴場、湯呑場、洗面、便所、食堂等は改善する
一、8月12日の解雇者に解雇手当世帯主100円、独身者に50円を支給
一、以前の解雇者以外にも尚20名を解雇する。但し解雇手当は以前の解雇者と同じとする
一、3年以上の勤務者で解雇された者に解雇手当以外に慰労金を支給する
一、その他待遇改善要求については会社が着実に実施する
一、別に争議団に対して会社が金一封をだす

以上



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。