1977年の長谷川健治の初個展以来、画廊主(光安鐵男)は、長谷川との付合いがどんどん深まります。それは、光安鐵男が1991年に「みちのくから来た絵かき」を著すまで続きます。
実は、長谷川は1986年に50歳の若さで人生を閉じるのですが、光安にしてみればその後の5年間を長谷川と本当に別れるために長谷川のことを書き続けました。できあがったのが「みちのくから来た絵かき」です。長谷川の人生をエッセイで記すページをめくれば、それを想起する作品が同時に見られるように構成してある120ページのしっかりした画文集です。僅か10年間の付合いだったのですがそれが濃密だったことがこの本から分かります。
長谷川と出会う前の生い立ちや家族のことをいつ取材したのだろうと不思議に思ったのですが、「ふり返れば四半世紀」を読んでわかりました。
長谷川が二度目の個展以降、作品はどんどん進化を遂げていきますが時には酷評を受けることがあります。作家は誰しも謙遜して「ご批評いただければ有難い」と言って案内状を書くのですが、文字通り酷評されては得体の知れない空しさを感じます。そんな時、長谷川が採る手段はある種の放浪です。本来底なしの酒好きですが、それを絶っているのですから彷徨うほかなかったのでしょう。やるせない気持ちを鎮めるため、見知らぬ町や村、山なみを縫ってどこまでも車を走らせるのです。光安はこの車の助手席にいました。
大分の国東からの帰りこと。日豊本線の椎田あたりでたいへんな渋滞に遭い長谷川はさも訳知り顔にわき道の農道に車を入れます。どこをどう走ったのか光安が目を覚ました時には全く方向違いの宗像街道を若松方面に向かっていました。こうした二人の彷徨うようなドライブは九州全県・中国地方に及びました。塗炭の笑みを浮かべて話す長谷川の生い立ちや破天荒な放浪生活のことを光安は助手席で聞いていたのです。
「みちのくから来た絵かき」は自費出版のためリンクできませんから、次回から幾つかを紹介しましょう。
(この文章の一部は西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀」光安鐵男文を引用しています)