1978年1月、松屋和代さんの初個展がマルミツ画廊で行われました。
挨拶文は
「・・・この度、未熟ながら思いきって個展を開き、お目にとめて頂く決心をいたしました。・・・」
とあります。このあとこの画廊での個展は20回を超えることになります。
松屋さんは地方では珍しいプロフェッショナルな女流画家です。
3歳から手ほどきを受け、成長に合わせて3人の師の薫陶を受けています。東京女子美大在学中、小学校教師をしていた母親の強い勧めで北九州市の教員採用試験を受けるため若松に帰省しました。お母さんの作ってくれた弁当とカールトンを担いで元気に家を出ました。
試験日が過ぎ東京に帰っているとお母さんから電話がかかってきました。いつになく静かな声です。
「和代ちゃん、あんた採用通知ね、そちらにしているのでしょう?」
「・・・・・・」
「ぼちぼち知らせがあってるようよ」
まさか受験に失敗することはなかろうと思う母の気持ちが分かる優しい声。
「ごめん、受けなかったの」
「えっ」
2000キロ離れた電話の向こうの母の顔が手に取るように見えます。
「ごめん」と、もう一度小さな声で詫びました。
試験の当日は、母の愛と期待を裏切って終日映画館の中で震えながら決意を確認していました。教師で画家、この二足の草鞋に妥協しなかったのです。このとき22歳の小柄でチャーミングな女性。よくぞそこまで考え切ったと敬意を覚える筆者であります。
光安も気丈な松屋さんを知るに付け、何かとサポートします。多くの作家に会わせたり、あるときは苦言を呈します。
光安は若松高校同窓会の世話役をしていました。1980年若松高校同窓会総合文化展には、同窓の俳優・天本英世さん(2003年77歳没)の「スペイン巡礼」出版コーナーを設けました。それに、スペインの写真や民芸品なども送ってもらって飾付け、オープン前日となった時、突然天本さんが帰ってきて飛び入り参加した天本さんが加わった賑やかな前夜祭となりました。
西鉄ホテル(パークホテル)は天本さんのロルカ(スペインの詩人)の詩の朗誦に北御門さんがフラメンコギターを添えます。フランコの独裁政治が終わり、自由の兆しが見えてきた1979年のスペインを7ヶ月半かけて巡った「スペイン巡礼」の話は、その場にいた人たちを一度はスペインに触れてみたいという思いにさせました。そのなかに、松屋さんも光安も入っていました。
(この文章の一部は、1990年西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています。)
挨拶文は
「・・・この度、未熟ながら思いきって個展を開き、お目にとめて頂く決心をいたしました。・・・」
とあります。このあとこの画廊での個展は20回を超えることになります。
松屋さんは地方では珍しいプロフェッショナルな女流画家です。
3歳から手ほどきを受け、成長に合わせて3人の師の薫陶を受けています。東京女子美大在学中、小学校教師をしていた母親の強い勧めで北九州市の教員採用試験を受けるため若松に帰省しました。お母さんの作ってくれた弁当とカールトンを担いで元気に家を出ました。
試験日が過ぎ東京に帰っているとお母さんから電話がかかってきました。いつになく静かな声です。
「和代ちゃん、あんた採用通知ね、そちらにしているのでしょう?」
「・・・・・・」
「ぼちぼち知らせがあってるようよ」
まさか受験に失敗することはなかろうと思う母の気持ちが分かる優しい声。
「ごめん、受けなかったの」
「えっ」
2000キロ離れた電話の向こうの母の顔が手に取るように見えます。
「ごめん」と、もう一度小さな声で詫びました。
試験の当日は、母の愛と期待を裏切って終日映画館の中で震えながら決意を確認していました。教師で画家、この二足の草鞋に妥協しなかったのです。このとき22歳の小柄でチャーミングな女性。よくぞそこまで考え切ったと敬意を覚える筆者であります。
光安も気丈な松屋さんを知るに付け、何かとサポートします。多くの作家に会わせたり、あるときは苦言を呈します。
光安は若松高校同窓会の世話役をしていました。1980年若松高校同窓会総合文化展には、同窓の俳優・天本英世さん(2003年77歳没)の「スペイン巡礼」出版コーナーを設けました。それに、スペインの写真や民芸品なども送ってもらって飾付け、オープン前日となった時、突然天本さんが帰ってきて飛び入り参加した天本さんが加わった賑やかな前夜祭となりました。
西鉄ホテル(パークホテル)は天本さんのロルカ(スペインの詩人)の詩の朗誦に北御門さんがフラメンコギターを添えます。フランコの独裁政治が終わり、自由の兆しが見えてきた1979年のスペインを7ヶ月半かけて巡った「スペイン巡礼」の話は、その場にいた人たちを一度はスペインに触れてみたいという思いにさせました。そのなかに、松屋さんも光安も入っていました。
(この文章の一部は、1990年西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています。)