おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

墨田区鐘ヶ淵散策。その4。東白鬚公園。纏(まとい)。隅田宿跡。石枕の伝説(一つ家伝説)。

2023-07-18 18:35:49 | 隅田川

東白鬚公園。

「まといのシンボルタワー」

公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消し」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなかすすみませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相のしどうによって「町火消し」の設置が進められました。町火消しは、地域ごとに火消し組合を組織し、町が火消し人足を定置する消防隊、火事場で互いの勇敢さを競う火消し足の活躍は、文学や演劇の題材となり後世に語りつがれます。

        纏のシンボルタワー。

かつて、この地は、古代東海道の宿駅でした。

 

            ↓が、古代東海道。

当地は古東海道の渡河地で、平安の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承4年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという13世紀中期の歌には、多くの舟が停泊しにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』)また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、隅田種宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがわれます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一つ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。

石枕の伝説(一つ家伝説)ー浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)

東京都台東区花川戸に伝わる伝説一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。

浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができる。

用明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国下総国を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達した。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後、観音菩薩の力でと化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている

鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている

(この項「Wikipedia」より)

遠くにスカイツリー。

                

木々の多い静かな公園。

       

「明治通り」に出ます。「向島百花園」がすぐ近くにあるので、ちょっと寄ってみます。

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墨田区鐘ヶ淵散策。その3。墨田川高校堤校舎跡。木母寺境内。梅若権現縁起。三遊塚。梅若の秋月・雪月花 隅田。

2023-07-17 18:41:53 | 隅田川

墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「東京都立墨田川高校堤校舎」と呼ばれる校舎が存在しました。その後、どうなったのか? 久々に訪れてみました。
 生徒急増期。「堤校舎」は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となりました。17年間の校舎でした。

全館「プレハブ」。夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。

 10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校の話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。それから、20年。

校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。敷地内を見ると、整地され、広大な空き地となっている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか? 

            

         

全景。                 

          

「木母寺」に向かいます。右手に木母寺。

               

木母寺。 

  

木母寺由緒沿革

梅若権現縁起

平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が5歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は7歳で比叡山の月林寺というお寺に預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸とどちらが賢いかと稚児比べにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよった後、大津の浜へ逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ、東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年’(795)の3月15日、隅田川の湖畔で

尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと

と句を残し12歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りがかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き、柳を植えました。

梅若丸が亡くなった翌る年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へ向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り、渡し守より梅若丸の死を聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが、梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡が池に身を投げてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かび上がりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

木母寺境内之図『新選東京名所図会・隅田堤』。

明治31年(1898)、梅若塚の再興から10年を経た風景。

梅若堂。

都内第一の石碑。

       

三遊塚。

初代円生(1768~1838)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して三遊亭円朝が明治22年(1889)に建立。題字は「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。

・・・              

門前脇にある葛飾北斎「梅若の秋月―風流隅田川八景―」。

・・・木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探して彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲むつまじく舟遊びをしている姿を描いています。  

・・・公園内に、

葛飾北斎『雪月花 隅田』。

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。         

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墨田区鐘ヶ淵散策。その2。榎本武揚像。梅若公園・梅若塚。鐘ヶ淵陸橋・「鐘ヶ淵」のいわれ。

2023-07-16 13:37:32 | 隅田川

この地域にあった史蹟や寺社は移転しています。

「銅像榎本武揚」像。

本像は、榎本武揚没後の大正2年(1923)5月に建立されました。銅製で、標高は約3㍍あり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。・・・榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。・・・               

「梅若公園」。

この付近に移転前の「木母寺」があったようです。

正面のガラスに描かれた梅若堂。

明治期の木母寺境内。

江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に消失を免れたものです。「木母寺境内の図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。

「梅若塚」。

                 解説板。

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫の藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中、隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い、現在地に移転しています。

より詳しい解説板。

         

・・・「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはら(隅田河原)の 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年3月15日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

   

①「木母寺」は、「梅」の寺を分けて「木母」となったと言われています。

②「妙亀塚」は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求め、この地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園内にあります。

③「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現縁起」があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。

④謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。

梅の木と公園入口。残念ながら物寂しい広場になっています。

「(墨)堤通り」。

東白鬚団地。

鐘淵陸橋。「鐘淵のいわれ」。

鐘ヶ淵の由来には隅田川が子の辺りで直角に曲がり、それが工匠の遣う曲尺に似ているところから、また、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。

※右のレリーフ。

広重の木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を舟で出入りすることができました。

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墨田区鐘ヶ淵散策。その1。古代東海道。東白鬚団地。この地域の変遷。鐘淵紡績会社(カネボウ・クラシエ)。

2023-07-15 13:45:01 | 隅田川

歌舞伎「隅田川」に触発され、久々に鐘ヶ淵地域に出かけました。

正面の道が、古代の東海道。

真っ直ぐ進み、荒川を越え、葛飾区に入り、ほぼ直線のまま、小岩、江戸川堤に至る道。

※かつて歩いたことがあり、ブログでも紹介しました。

東武線「鐘ヶ淵駅」踏切をはさんで東西に伸びる。

東武線。

そのまま西に向かい、「堤通り」に出ます。通りの向こうに高層アパート群が。

      

白鬚東アパート(しらひげひがしアパート)

東京都墨田区堤通にある住宅団地東京都住宅供給公社分譲の1号棟(東白鬚第一マンション)、都営白鬚東アパート(2~11・15~18号棟)と駐車場である12号棟、防災備蓄庫である13・14号棟の計18棟からなる。東白鬚公園と一体で墨田区西部の防災拠点として整備された経緯がある。

沿革

墨田区北部は、1923年に発生した関東大震災後に木造住宅が密集し始め、再び関東大震災級の震災が起こった際に、約4万人が犠牲となった旧本所区陸軍被服廠のような火災旋風に見舞われる懸念があった。 戦後も1948年(昭和23年)に福井地震1964年(昭和39年)に新潟地震という都市直下型地震が発生し、防災対策の機運が高まっていた

そこで、1969年(昭和44年)に東京都は江東防災6拠点構想(ほか大島小松川公園・白髭西地区が完成)を策定し、災害に強い街づくりを推進する方針を固めた。当地区は「白鬚東地区防災拠点」として1962年(昭和37年)に操業を停止した鐘淵紡績東京工場跡地を東京都が買収、再開発が計画された。

1972年(昭和47年)9月に白鬚東地区再開発事業として都市計画決定され、1975年(昭和50年)に着工、1982年(昭和57年)3月に10年かけて完成した。施行面積は約27.6ヘクタール。

構造

高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置しており、ドミノ式に建てられた大規模団地は存在するが、1㎞以上一列に並んだ長大団地は国内に類を見ない。1棟ずつずらした配置となっており、棟と棟の間は完全にはつながっておらず、地震の揺れに耐えられるエキスパンションジョイントで棟と棟と接続している。上空からの写真ではのような形と形容されることもある。

縦に長い団地は、防火壁の役割を持っており、密集地からの火災を食い止める効果が期待されている。また、団地の5階部分には墨堤通りに向けて放水銃が設置されており、延焼を食い止める工夫がなされている。そのほか随所に防災拠点としての設備があり、13号・14号棟はまるごと防災備蓄庫になっている。 団地には災害時に閉鎖する防災ゲートが5つ設けられており、北から順に鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門と名付けられている。

バルコニー側(墨堤通り側)には大火に耐えられるよう防火シャッターが装備されており、団地屋上にはオレンジ色の巨大な水タンクが設置され、火災時にシャッターに散水するための水が蓄えられている。

同時に隅田川沿いに防災機能を有した東白鬚公園が団地に寄り添うように整備され、災害時には約8万人を収容するように設計された。 延焼しにくい常緑広葉樹が植えられており、防災樹と命名されている。公園中央部には火消の象徴であるモニュメントが置かれている。

完成後、訓練などでは各種防災設備は作動しているが、実際の災害はまだ発生していないため、本番での作動はまだ無い。

(この項、「Wikipedia」より)

※久々に訪問しました。防災拠点としては斬新な構造を持った団地ですが、老朽化、住民の高齢化など、今後が気になる点も感じました(平日の昼間のせいでしょうが、出会う人はお年寄り。保育園の子供の声も聞こえず、・・・)。

また、周辺地域(住宅密集地)の再開発も進み、防災面からの住宅環境の整備、公園、道路事情などこの40年で大きく改善されています(むしろ、火災よりも隅田川、荒川に囲まれ、地震、水害の方が危険度が高い)。はたして今後どうなるか、気になるところです。

                                                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                (「今昔マップ」より)

          1890年代のようす。○が木母寺、↓が古代東海道。

           ○が「墨田川高校堤校舎」(現在は、都の管理地)。その南に移転した「木母寺」。 

カネボウ・クラシエ

1887(明治20)年、東京綿商社として東京府下鐘ヶ淵に創立(5月6日)→創立記念日とする

(「<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/61/f83b7ee7b8805c1ac15a2673f333f463.png">」HPより)

                          

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歌舞伎鑑賞教室。隅田川。坂東玉三郎。木母寺。梅若伝説。

2023-07-14 18:40:57 | 歌舞伎鑑賞教室

木母寺には、平安時代中期の梅若丸と狂女となった母親の悲しい物語が伝わり、梅若塚と梅若堂が祭られています。梅若丸物語は古来、母子の愛情を示す悲劇として民衆の紅涙をしぼり、語りつがれてきました。

この伝承は、むかしの墨田村の口伝えというばかりでなく、種々の芸能・芸術として広く流布し発達してきました。

◆能楽◆

最初に、この梅若丸物語を芸道として大成させたのは、室町時代中期の能役者観世十郎元雅(1401?~1432)です。「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂ものをシテとした狂女物の代表的傑作とされています。

この演目が作られ、隅田川芸能がはじまったのです。

◆浄瑠璃◆

寛文元年(1661)以前の説教浄瑠璃や、宇治加賀掾や山本土佐掾の正本にも「すみだ川」があり、古浄瑠璃として取り入れられています。それをもとに、浄瑠璃作者中興の祖と言われている近松門左衛門が「雙生隅田川」を書きました。人形浄瑠璃(文楽)でも盛んに上演されています。能「隅田川」からは梅若丸と東門院の若松が兄弟に、忍の惣太は人買いから忠心に忍ぶの惣太がお家再興の金欲しさから主家の子供を誤って殺してしまうという因縁話が結びついた内容になっています。

近松門左衛門の「雙生隅田川」が、江戸期の世相や人情を反映していると言われているのはこのためです。

◆歌舞伎◆

元禄14年(1701)初代市川団十郎作「出世隅田川」が、中村座で初演されました。

その後、浄瑠璃の「雙生隅田川」の影響を受け、人買いに殺された悲劇の稚児として描かれるようになり、奈河七五三助作「隅田川続俤」や河竹黙阿弥作「都鳥廓白浪」などの隅田川物が描かれました。大正8年(1919)には東京・歌舞伎座で初演され、二代目市川猿之助や二代目市川団四郎らによって演じられました。上演された記録は多くの浮世絵からも知ることができます。

 

◆舞踊◆

舞踊では清元の「隅田川」がありますが、詞章がもの悲しく、清元の哀調をしんみりと聞かせます。また、一中節の「峰雲賤機帯」や長唄の「八重霞賤機帯」などは、能「隅田川」をもとに作詞されました。

(この項、「」HPより)

ここにもあるように、この舞台は、清元の「隅田川」。幕が開くと、青白い舞台が一面に広がります。

・・・

渡し守が出て名乗ります。「これは△△の○○にて候」と言います。
能や狂言の定番の始まりかたです。

今日は川の対岸で「大念仏(だいねんぶつ)」がある、という話をします。
念仏を唱えて供養をする集まりの、大きなものがあるのです。

狂女が出ます。歌舞伎だと「班女の前(はんにょのまえ)」という名前が付いています。能だと名前はありません。

笹の枝を肩にかついでいます。
幣(奉納用の布きれ)を結びつけた笹の枝は、能をはじめ、中世に成立した芸能に共通する「狂女」の小道具です。

「人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に 迷い(まどい)ぬるかな」

藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)の歌です。900年代の人です。

班女の前が出るところの謡の文句がこれなのですが、
親心の悲しくも愚かしい、しかし有難い真理をついた歌として江戸時代は非常に有名でした。
歌舞伎、というか浄瑠璃の文句に頻出するので覚えておくといいと思います。

子供がさらわれて、探して旅をしてきた。
親子の縁はこの世だけ、一世の契りです(夫婦は二世、主従は三世)。
その短い間すらいっしょにいられないさびしさをなげきます。

渡し守に船に乗せてと頼みますが、渡し守は、「狂っているならおもしろく舞え、でなきゃ乗せない」とひどい事を言います。

隅田川の渡し守と言えば都からの旅人に優しいものなはずなのに、あなたはずいぶんひどい、と怒る班女の前。

このあと、有名な、「あの白い鳥は何?」「カモメだよ」「隅田川の渡し守なのに都鳥と言わないの?」
のやりとりがあります。
感心して、反省した渡し守は班女の前をていねいに船に載せます。

川の対岸で、さっき渡し守が話した大念仏をやっています。この由来を語る渡し守。

人買いが子供を連れて都からやってきた。
子供は慣れない旅で疲れ果て、この場所で倒れてしまった。人買いは情け知らずで子供を捨てて行ってしまった。
どことなく上品な子だったので土地の人が心配して世話したが、運命だったのだろう、死んでしまった。
都の吉田少将の子、梅若丸といった。
父は早くに死に、母に付き添っていたのだが、それももはやできない悲しさよ。
都の人が恋しいので、都からの旅人が通るこの道端に埋めてください。
そう言って死んだ。悲しいことだ。
それがちょうど一年前。その供養の念仏だ。

ショックを受ける班女の前、船から上がることもできません。

改めて事情を聞いて、探しているのが、まさにその子供だと知った渡し守、
深く哀れんで、班女の前を船から上げ、墓である小さな塚に案内します。

この前後はセリフも極端に少なくなり、班女の前の一挙一動を息を詰めて眺めるような舞台です。

言われるままに鐘を叩いて念仏を唱える班女の前。
能だと、子役のひとが一緒に念仏を唱え、塚から子供の幻が現われますが、歌舞伎では出ません。
班女の前が子供を見たと思い込んで駆け寄るのですが、子供はいないのです。
泣き崩れる班女の前。
夜が明けます。子供に見えたのは塚の上の草でした。なまじ幻を見てしまったばかりに思いはいや増します。
何もないまわりのの景色が悲しみを深めます。

(この項、「歌舞伎見物のお供」(gooブログ)HPより)

・・・

           

船守:坂東竹三郎

        

              

班女の前(はんにょのまえ):坂東玉三郎。

            

              

            

               

          

                   

              

                    

こうして、静かに幕が下ります。

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