歌舞伎「隅田川」に触発され、久々に鐘ヶ淵地域に出かけました。
正面の道が、古代の東海道。
真っ直ぐ進み、荒川を越え、葛飾区に入り、ほぼ直線のまま、小岩、江戸川堤に至る道。
※かつて歩いたことがあり、ブログでも紹介しました。
東武線「鐘ヶ淵駅」踏切をはさんで東西に伸びる。
東武線。
そのまま西に向かい、「堤通り」に出ます。通りの向こうに高層アパート群が。
白鬚東アパート(しらひげひがしアパート)
東京都墨田区堤通にある住宅団地。東京都住宅供給公社分譲の1号棟(東白鬚第一マンション)、都営白鬚東アパート(2~11・15~18号棟)と駐車場である12号棟、防災備蓄庫である13・14号棟の計18棟からなる。東白鬚公園と一体で墨田区西部の防災拠点として整備された経緯がある。
沿革
墨田区北部は、1923年に発生した関東大震災後に木造住宅が密集し始め、再び関東大震災級の震災が起こった際に、約4万人が犠牲となった旧本所区の陸軍被服廠のような火災旋風に見舞われる懸念があった。 戦後も1948年(昭和23年)に福井地震、1964年(昭和39年)に新潟地震という都市直下型地震が発生し、防災対策の機運が高まっていた。
そこで、1969年(昭和44年)に東京都は江東防災6拠点構想(ほか大島小松川公園・白髭西地区が完成)を策定し、災害に強い街づくりを推進する方針を固めた。当地区は「白鬚東地区防災拠点」として1962年(昭和37年)に操業を停止した鐘淵紡績東京工場跡地を東京都が買収、再開発が計画された。
1972年(昭和47年)9月に白鬚東地区再開発事業として都市計画決定され、1975年(昭和50年)に着工、1982年(昭和57年)3月に10年かけて完成した。施行面積は約27.6ヘクタール。
構造
高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置しており、ドミノ式に建てられた大規模団地は存在するが、1㎞以上一列に並んだ長大団地は国内に類を見ない。1棟ずつずらした配置となっており、棟と棟の間は完全にはつながっておらず、地震の揺れに耐えられるエキスパンションジョイントで棟と棟と接続している。上空からの写真では蛇のような形と形容されることもある。
縦に長い団地は、防火壁の役割を持っており、密集地からの火災を食い止める効果が期待されている。また、団地の5階部分には墨堤通りに向けて放水銃が設置されており、延焼を食い止める工夫がなされている。そのほか随所に防災拠点としての設備があり、13号・14号棟はまるごと防災備蓄庫になっている。 団地には災害時に閉鎖する防災ゲートが5つ設けられており、北から順に鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門と名付けられている。
バルコニー側(墨堤通り側)には大火に耐えられるよう防火シャッターが装備されており、団地屋上にはオレンジ色の巨大な水タンクが設置され、火災時にシャッターに散水するための水が蓄えられている。
同時に隅田川沿いに防災機能を有した東白鬚公園が団地に寄り添うように整備され、災害時には約8万人を収容するように設計された。 延焼しにくい常緑広葉樹が植えられており、防災樹と命名されている。公園中央部には火消の象徴である纏のモニュメントが置かれている。
完成後、訓練などでは各種防災設備は作動しているが、実際の災害はまだ発生していないため、本番での作動はまだ無い。
(この項、「Wikipedia」より)
※久々に訪問しました。防災拠点としては斬新な構造を持った団地ですが、老朽化、住民の高齢化など、今後が気になる点も感じました(平日の昼間のせいでしょうが、出会う人はお年寄り。保育園の子供の声も聞こえず、・・・)。
また、周辺地域(住宅密集地)の再開発も進み、防災面からの住宅環境の整備、公園、道路事情などこの40年で大きく改善されています(むしろ、火災よりも隅田川、荒川に囲まれ、地震、水害の方が危険度が高い)。はたして今後どうなるか、気になるところです。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
(「今昔マップ」より)
1890年代のようす。○が木母寺、↓が古代東海道。
○が「墨田川高校堤校舎」(現在は、都の管理地)。その南に移転した「木母寺」。
カネボウ・クラシエ
1887(明治20)年、東京綿商社として東京府下鐘ヶ淵に創立(5月6日)→創立記念日とする
(「<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/61/f83b7ee7b8805c1ac15a2673f333f463.png">」HPより)
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