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サンチョパンサの憂鬱

昼下がりのサンチョパンサ(2)……自分と喧嘩しなくなった人は

この国の世相を説明するのに『同調圧力』とか
?『人の視線による管理』なんて言われる。

結果……とかく群れたがる癖を持つ人が圧倒的に多数だという世間がある。
その『群れ』は保護色の役目を果たす。詰まり何かに付けて『皆から浮く』ことを防いでくれる。

自分の中に絶えず『自己疑問』ってのを抱えている人は群れない。群れる暇があったら自分の事を整理し思考することに忙しいからである。

そんな人は一つの出来事に対して自分の中に『せめぎ合う対極』を抱える。例えば善と悪、正義と悪徳といったように。

『あの時の俺の態度は?』……卑怯じゃなかったか?イヤイヤ、あれが精一杯だった。誠意は尽くしたじゃないか?……などといった具合である。

だからそういう人は自己採点で満点など取ることはない。ともすれば楽に流れようとする自分と絶えず喧嘩状態だからである。
ま、それはかなりシンドイ生き方である……。

群れの中に身を潜めている人はその分、自己疑問を持たない。持たなくても何とかなる。
逆説的に言えばそんな人達は『必死で自分と喧嘩しなきゃならない』自己疑問なんてのが辛いから群れと同一化をはかるのである。

んじゃ『その群れ』って機能してるのかい?
ってな視点で少し注意深く見ると……個々人の表情はとても寂しいそうな事に気付かされる。

特にコロナ禍によって『仲良く演ってまっせェ〜』的な会社の飲み会なんてのが単なる今迄の惰性と習わしで演ってたんだ?……なんてことが明らかになった。

何を今更?なんだけど、『群れる為に群れてた』だけだった?

個々人は明らかに群れの中でそれぞれ孤立してただけだった。そんなシリアスな事実を有耶無耶(うやむや)にするセレモニーが飲み会だったのかもね……?

自分では断る勇気はなかったけれど……コロナ禍のお陰でサッサと帰れる様になったのである。

悪い癖の長い長い前段です。ゴメンナサイ。
やっと何が言いたいか?の本題です。

『群れずに早く帰る』という決断さえコロナ禍のお陰……。
そこに『自分の意志がない人』が圧倒的多数派なのだと言いたかった……。

こんな人は意志を持った行動をしない。
ならば?人と協調出来るかと言えば……哀しいけれど全く逆なのである。

自分と喧嘩出来なくなった人は化石の様にメンタルが変化がしなくなる。
注意を受けても『ハイ!』と応えて実際はNOを生きる様になる。

本人はそれを『我慢』と翻訳して自己満しつつあたかも悲運のヒーロー&ヒロインにでもなったか?の様な気分である。

自分の中に対立軸がないからそんな彼は、彼女は何時も主観を動員して『自分の独裁者』となって振る舞うのである。

必然的に……人に対してはその人のメンタルは『NOの態度』で面する。
その顔は何時も笑みを浮かべてはいるけれど……。
当然、世間からは、そういう人に対して肯定より否定が圧倒的に多くなる。

しかし当人は迫害の中を進むジャンヌ・ダルクかの様な『被害者の思い』ばかりが積み重なっていく。そしてまたより頑なに……という悪循環である。

否定から入っているのは自分だという事実。
それが全くの死角となるのは客観の目を持たないからなのである。
自分と喧嘩を続けない限り……客観の目は保てないのである。

『被害者気分』で実際は……人に対して
『自分100%』を強要して臨んでいる事にそんな人は…気付けないのである。

要するに『幼児のメンタル』のまんま大人を生きようとすることによる『無理』……それを自分にも、対する人にも強要する以外生きる術がない哀しい人なのである。

子供の幼稚はひたすらに可愛い。
しかし、大人の幼稚は法律の埒外にあるだけに殊更に『大罪』だと思うのです……。

時に……『その無邪気の強要』は人を自殺に追い込むことだってあるのだから……。

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