また先般、ホスト君、キャバ嬢の『依存性疑似恋愛の哀しさ』についても書いた。
書いていて哀しくなるのは何故なんだろう?と考えた。
人は皆、とても寂しい。
だから?周囲に何が何でも人を配置しておきたい?となるのも無理はないのかも…?
目立ちたいのも?一人じゃ自分を支えられないから、人の視線と称賛を絶えず自分に集めておきたくなるんだろうなぁ?
華々しく大々的にパフォーマンスするユーチューバーとかの発信者。
そこに擦り寄っていくフォロワーという名のギャラリー達。
彼等はどちらも『とても寂しい心境表現の表と裏』をなしている。
疑似の恋愛、疑似の友人、疑似の信頼.、疑似の〇〇……etc
『取り敢えず』はと『急ごしらえの安心』を手許に確保しときたいとなるのも無理もない話だとは思うけれど…。
自前の動機じゃないけれど……取り敢えず『演ることがあるという安心』がほしい……ソレが受験となる人もいれば?ゲームに熱中となる人もいるし、SNSに入れ込む人もいるってことだろう?
一見バラバラに見えて動機は『人の底知れぬ寂しさと不安』だと思う。
だから?といって、仕方ない、仕方ないと理解を寄せて見ても……先送りになるだけなのである。
『一人ぽっち』となるか?『唯我独尊』となるか?……同じ自分一人でも百八十度違う心境って何が真反対に分けるのだろう?
その、心理を両極に分けるモノは?
『一人を演っているか?』、『一人ぽっちにされてるのか?』を分けるのは結局『自分の意思の有無』なのだと言いたかった。
一人でいる事が寂しい原因なんじゃなく、『自分の意志がないこと』が心を寂しくさせているのである……と。
幾ら群れたって『自分の意志がない』人ならば余計に寂しくなるだけなのである。
人は一人じゃ生きて行けない。当たり前の話である。
だから絶えず人は『何かを人に依頼して』生きている。しかしね?何かを他者に依頼するのは当然だけど、他者に『依存してはならない』と……遥か昔に書いたことを最近よく思い出す……。
何故ならば依存は『自分の存在のありかまで人に頼っている』からだと……。
『自分が依って立つ礎』となるのは自分の意志をおいて他に無いのである。
『自分の意志という足』で立ちさえすればソコからは何が出来なくても『人に依頼』すれば生きて行けるのである。
しかしね?自分がそこに存在する事だけは誰に代わって貰うことも出来ないのである……。
他者の目線に管理して貰っている時に想像する『一人ぽっち』のイメージと……自分の意志で唯我独尊を実行した時に得られるニュアンスは全く違う。
前者は『閉塞・疲弊』に行き着くけれど……後者の一人ぽっちは『自分の自由と開放』を導いてくれるのである。