その期待通りであれば……『普通』と感じて時を過ごす。
密かに抱いていた期待に満たない場合人は不機嫌になる。
ま、『裏切られた感』を抱くのである。
その対象には何らの罪はなく、自分が勝手に『期待していた』だけに過ぎないのにである。
自分に寄せられる期待(あなたはこうだよね?そうしてくれるよね?)という『阿吽の要望』見たいなモノを感じ無意識に応えようとしている自分も居たりする。
『あなたには期待していたのに!』とか『信じていたのに!』なぁ~んて自分が勝手に盛り上がっていただけなんだけど……妙に責めてみたい気持ちに駆られたりもする。
期待値が大き過ぎる様になればそれは『依存』ともなり、それに応えようなんて無理を続ければ『共依存』なぁ~んてことになったりもする。
期待値には上手く行って欲しい!もあれば失敗すれば良いのに!なぁ~んて嫉妬を伴っているものもある。
人に対しても自分に対しても『あらぬ期待値を求めない!』という境地に達すると人生はとても軽やかに運ぶ様になる。
シャーデンフロイデ?なんて『人の不幸を望む気分』を自分に向けられた時……『止めて欲しい』とか?相手が『好意的な態度に変わらないか?』とかその当事者もまた期待値を抱く。
そんな弱気がまた火に油を注ぐ状態となって『ウンウン堪えているな?』と相手の期待値は大きくなっていく?という悪循環である。
僕は深刻なイジメにあった事はないけれど、陰湿な悪意に包まれた経験は何度となくある。
そんな時、有効なのは『相手の期待圏外』に逃れるという方法である。
先ずは物理的に相手の視野から姿を消す努力をすること。
嫌でも対面しなきゃならない場面があれば……相手の悪意の期待感に対して『不感症状態』に自分を逃してやること。
無表情、無反応。相手の期待感?そんなの知〜らない?ていう態度を貫くのである。
詰まり自分も、相手の改心?そんな『あらぬ期待感』を完璧に捨て去るのである。
話して何とか改善したい?……そんな理が通る相手ならそもそもそんな理不尽を働く筈などないのだから……。
自分が勝手に期待しては、それと違ったと勝手に怒る。ソレを承けて、相手もなんだ?その態度は?なぁ~んて苛立つ……。
『人の心はとても自分勝手』なものなのである。
いい歳になったら?
人間は『在るがままに在らしむ状態』を在るがままに受け容れて生きて行く努力をしなきゃならないんだと思う……。
長い引き籠もり状態。在らぬ期待をしながら待ち続けたのに?放っとかれただけ。
何で?助けてくれない?何で?話を聞いてくれなかった?……なぁ~んてそれでも期待を『諦められない人』は『誰でも良い!』と相手構わず復讐を実行に移しさえするのである。
この俺がこんだけ好きなんだぜ?何故分からないんだ!というストーカー君の怒りも『あらぬ期待』がもたらすのである。
そもそも、期待なんて端からとても身勝手なものなのである。
その自分の身勝手な期待を『諦め悪く持ち続けてしまう』とそれは依存・執着に成長してしまうのである。
あらぬ期待を抱いた自分の良し悪しの吟味に興味はついぞ向かわず、怒り満載の猛り狂った自分の感情の精算を相手に一手に背負わせるのである。
生きれば生きるほど『諦めることの大切さ』が分かる様になった。
そして諦めると『勇気が湧くこと』も分かった。
『自分が担当すべき問題、そのレベル』がハッキリすること。
そして自分が演るべきことを正面から取り組んでいるという安心感に包まれるからなんだと思う……。
『分を弁えること』って自分で卑屈に卑下したマイナスのイメージなんかじゃなかったんだ!
と理解すると新鮮な空気が訪れたのだった。
明日から村上龍の『ユーチューバー』を読もうと思っている。
人間にもっと『自由とセックスと希望』について考えて欲しかったから……と執筆動機を尋ねられて彼は答えていた。
そうだ!
僕も自分なりの『自由とセックスと希望』について貪欲に考えよう!
そう思ったのでした……。
彼の作品にしては不思議なことに珍しく女性にも人気があるという。
女性達はあんな無骨、無礼な作家(女性にとって)の何に共鳴したのか?……読み解いて見ようと……。