そして今……競争の主戦場は肉体の物理的限界から『思考・創作そのものの合理化』へ急速に移りつつある。
工業品に限らず音楽、デザイン、絵画などの芸術分野へも奔流となって『機械化』が流れ込み自然人の能力を凌駕して見せる。
SONGSで大泉洋が唄っていた…。確かに上手い。
その後、スポーツヒューマンで車椅子テニスの17歳の小田凱人選手の特集を観た。
何の偏見も思い込みもなく勿論アナログ懐古趣味でもなく……脳に残る二つの番組のシーンの数とその印象の深さには違いがあった。
肉体を主役に繰り広げられるゲームは人の心の深い所に入り込む力がある?というより、人はフィジカルを通して得る波動見たいなものを無意識に求めているのかも知れない?
そんな事を考えさせられた。
んでね?
『売れるモノ』と『脳に刻まれ残るモノ』との違い?そんな事を思った。
売れるモノには『ハズシ』はない。キチッと計算され『善人の観念を犯すことはない』のである。
ベストセラーとロングセラーなぁ~んてよく言われる。
ロングセラーのモノは単に一時的に『売れた』んじゃなく『売れ続けた』のである。
だからロングセラーには人をタイムマシーンに乗せて過去に旅をさせる力がある。
コカ・コーラを初めて飲んだ時のシチュエーションを今も僕は明確に説明できる……。
良い例えが浮かばないけれど……。
Yoasobiのイクラの歌と美空ひばりの愛燦燦の印象の深さ?そんな違いについて思うのである。
世界に向けて売り上げてるイクラのダウンロードされる楽曲の数量は一曲で超短期間で美空ひばりの数年分を凌駕しているだろう。
同様に、コンサート一会場での動員数でも美空ひばりの数年分を積み上げることだろう。
詰まり『売れている』のである。
ここで勘違いして欲しくないのは……僕はYoasobiのコンポーザーAYASEのファンである。嫌いじゃありません……。
単なる好き嫌いじゃなく……ここら辺で一旦足を止めて自然人としての生き方とか?アナログ時間とデジタル時間の配分を組み直さなきゃ?と感じているのです。
逆に宮﨑駿さんの作品は世の中の評価ほど僕は好きじゃない。
けれども……CGの本家、アメリカが彼の手描きアニメの独特の魅力を評価したことは画期的だと思った。
今は!今は!今は!、コレからは!これからは!これからは!……という『機械力』が打ち出し続ける流れに……実の所、皆さん気付かない内に疲れちゃってるのかも知れない。
機械は疲れない。当たり前の話だ……。
人間の心身は生きて過ごせば必ず疲れる。
疲れるのは『人間の特権』なんである。
全豪で敗れた小田凱人選手の涙……その後の悪戦苦闘、そしてまた涙、涙……。
理屈抜きにそのシーンが深く心に食い込んでくる。
戦後が落ち着き、団塊の世代は雪崩を打って都会に集積し、煩わしい年代の軋轢を避けて核家族となり団地・マンションブームを作った。
人間関係は内外両面人を疲れさせる。彼等はそれを極限まで除去して見せた。
そして今、彼等は『孤独死を量産』し始めた。
彼等が求め作り上げた人間関係に疲れないシチュエーションはその人を寂しくさせ孤独にしたのである。
『私は……寂しい』と声を上げる勇気が欲しいよね?
少なくとも自分自身には嘘を付かない様に正直で在りたいと思うのである。
大家族を分断させた団地・マンションによる核家族を発明した高齢者達……。
若いモンは極度に疲れ始めたその高齢者達に向けて『人間の疲れ』を軽減する『装置と仕組み』そして『場』を創作しなきゃね?
これ、何も高齢者に限らず、『疲れている様々な年代の人間』に対応するものになる筈だという予感がするのです。
もし?それが出来たら?長い時間支持されるロングセラーなモノになると思ったのです。
デジタルの助けを得ながらも、人間でなきゃ出来ない役割ってソコに活路を見いだせるんじゃね?……って。