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舞い上がる。

日々を笑い、日々を愛す。
ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」を読みました。

2021-07-03 22:39:32 | Weblog
6月を振り返って7月は頑張るぞ!みたいな日記を最近たくさん書いていますが、今回もそれです。
6月に、自分の過去のトラウマと向き合うことになってしまい、その気持ちを長い文章にまとめるということをしました。



この日記の中に、僕が10代の時、何の夢も目標もなく過ごしていたことを今でも後悔している、ということが出てくるのですが、
ほんのちょっと困ってるちひろBLUES、一言で言えばね。





その話を母にしたら「それは虚無だね。『はてしない物語』に出てくる」と言われました。
それで思い出して、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を中学生の時ぶりに読んでみたところ、これが本当に面白くて、毎晩寝る前に少しずつ読んでいたのですが、最後は眠ることも忘れて一気に読んでしまいました。

結論から言うと、自分がどうして読書や物語が好きなのか、そしてどうして文章を書きたいと思うのか、そういう自分の気持ちにあらためて向き合うことになってしまうくらい、自分にとって本当に大切な一冊だなと気付かされてしまったのです。
なので、せっかくなので感想を書いていこうと思います。(原題の「ネバーエンディングストーリー」として映画化もされているくらい有名な物語なので、ある程度のネタバレは気にせずにあらすじは書いてしまいますが、重要なところや詳細までは書かないでおきます。)



物語は、バスチアンといういじめられっこの少年が、本屋に逃げ込み、何かに導かれたように一冊の本に出会い、盗んでしまう、というところから始まります。
バスチアンはお母さんが亡くなり、2人暮らしのお父さんともうまくいかず、学校ではいじめられ、勉強もスポーツも苦手で特技もなく、唯一の楽しみは本を読むことだけ、という少年です。(ちなみに、本では太ってカッコ悪い外見と描かれていますが、映画では最初から可愛い少年になっているのはよくないと思う!ハリー・ポッターとかもだけど、映像化されると美化されますよね)

バスチアンは授業をサボって学校の物置でその本を夢中で読み始めます。
本の題名は「はてしない物語」、この本と同じ本が、物語の中に登場するという入れ子構造になっていて、これがこの本の面白さであり、のちのち生きてきます。

そこからバスチアンが読む「はてしない物語」の内容が描かれていくのですが、それはファンタージェンという世界を巡る物語。
ファンタージェンは、妖精、怪物、魔物など、ありとあらゆる物語に登場するような空想上、伝説上の生き物が暮らしている、壮大な世界です。

そのファンタージェンの至るところで「虚無」が出現して広がり、世界が消滅していくという事件が発生し、同時にファンタージェンの中心的存在である女王、幼ごころの君は重い病気となり、このままだとファンタージェンは滅びるという危機が迫ります。
そこで、幼ごころの君の命により、狩人の種族のアトレーユという少年が選ばれ、ファンタージェンを救うための大いなる探索の旅に出ることになります。

旅の中で、アトレーユは幸運の竜フッフールと出会い(映画ではファルコンとなっていますが正確にはこの名前です)、何度もピンチに陥りますが切り抜けていきます。
そして、ファンタージェンを救うには、幼ごころの君に新たな名前を付け、ファンタージェンに新しい物語をもたらす存在が必要なこと、それはファンタージェンの外から来る必要があることを知り、ついに幼ごころの君に出会います。

その物語の中で、本を読んでいるはずのバスチアンの存在が、本の中の物語に登場するという不思議な出来事が何度か発生します。
最初は思い過ごしだと思っていましたが、ついにバスチアン本人のこととしか思えない内容が物語の中に登場し、同時に幼ごころの君もバスチアンの存在をずっと待っているようなことを言い出します。

その時、バスチアンは幼ごころの君の新たな名前を思い付き、その名前を呼ぶと、「はてしない物語」の本の中に吸い込まれていきます。
そして、本の中では現実のカッコ悪いいじめられっ子ではなく美しい少年となり、ファンタージェンの新たな創造主として新たな物語を次々と作り出し、ファンタージェンのあらゆる者達から慕われていくのですが、その度にバスチアンは現実での記憶を次々と失っていきます。

このことでバスチアンは思い上がり、これがバスチアンにとってもファンタージェンにとっても新たなピンチとなります。
果たしてバスチアンは自分を取り戻してファンタージェンを救い、元の世界に帰ることが出来るのか?とまあ、こんな物語です(長くなった)。

で、感想ですけど、まず冒頭、いじめられっ子で何の特技もないけど読書だけは大好きなバスチアン、これが僕も大体こんな子供だったので、共感してしまうわけです。
バスチアンが「はてしない物語」を読み進めるにつれて、要所要所に物語に熱狂するバスチアンの気持ちなども挟み込まれ、本当に本が好きなんだなあという気持ちが伝わってくるし、それがまさにその本を読んで楽しんでいる自分自身の気持ちとも重なるのです。





そして、物語の中でバスチアンが読む「はてしない物語」の装丁が、明らかに自分が(私、ちひろが)読んでいる「はてしない物語」と同じ本であることが示され、「はてしない物語」に熱狂するバスチアンの物語、の書かれた「はてしない物語」に熱狂する自分、という入れ子構造が(ちょっとややこしいですが)、まるで自分もバスチアンのように本の中に入ってしまいそうなくらい面白いんですよね。
さらにややこしいことに、バスチアンが読む「はてしない物語」の本の中には、さらに「はてしない物語」の本が登場し、そこにはこのファンタージェンの世界のすべての物語が書き記されているという非常にメタな設定になっていて、初めてここを読んだ時は物語の中で生まれた本を今まさに自分が読んでいるかのような衝撃を受けたのですが、この2重、3重の入れ子構想が、他の物語とは違う奥深さを感じさせます。(なのでやっぱり、映画も面白いけど本で読むのが一番面白い物語だと思います!)

また、物語の中のアトレーユの冒険は、登場人物も設定や展開もとにかく多岐に渡り、短い章の一つ一つが小さな物語のようになっているし、本筋以外の面白い展開が起こりそうになると「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別の時にはなすことにしよう。」という描写が繰り返し登場するように、ファンタージェンはいくつもの様々な物語の集合体として表現されています。
そんなアトレーユの冒険にバスチアンが熱狂するわけですが、アトレーユの冒険はそもそもそのために、バスチアンを物語に夢中にさせ、この世界に連れてくるために必要だったという、メタでありつつも「物語」というものの真理を表現した展開もなかなか引き込まれます。

さて、そんなファンタージェンの中で「虚無」が広がるという現象ですが、それは現実世界の人々がファンタージェン(=物語)を必要としないからこそ起こること、そして、「虚無」に吸い込まれたファンタージェンの生き物は、現実世界で「虚偽」や「妄想」となり人々を蝕んでいく、ということが明かされます。
つまり、ファンタージェンはあくまでファンタジー、フィクションの世界の存在であるが故に、人々から忘れ去られたら消滅してしまうこと、物語や創造力を忘れた人々は妄想や虚偽に囚われてしまうこと、「物語」と「虚偽」や「妄想」は同じ作り事ではあるがまったく異なる表裏一体の存在であることなど、作者エンデの「物語論」が展開するわけです。

そんなファンタージェンの危機を救うのは、ファンタージェンの外の世界、つまり現実世界の人間であること、彼らが新しい物語を生み出すことでファンタージェンは救われるという設定も、本を読み物語を愛した人間が、新たな物語を生み出すことで、文化は豊かになり、それはこの世界にとって必要なことだというメッセージが伝わります。
何の取り柄もない劣等感の塊だったバスチアンも物語が大好きだったからこそファンタージェンの世界を救うことができたわけで、物語に感動する体験は人を成長させること、もっと言えば好きなものがあることは一つの才能であること、それだけで人は生きる価値がある、という読み解きもできるわけです。

しかし、そんなバスチアンも本の中に入ってからは、最初は物語を作ることでファンタージェンを救ったもののの、思い付きで物語を作ってしまったことで思いもよらない形で色んな登場人物達を不幸にしてしまったりします。
これ、要するに、「物語を作る」ということは、本の中に一つの世界や新しい命を生み出すような重要な行為であり、同時に物語を読んだ様々な人達の人生を左右するという責任を伴うことだという、創作の難しさを表現していると思うんですよ。

さらに、バスチアンがファンタージェンの中で新たな物語を生み出すことで、現実世界の記憶を失っていくという設定も、先程の「物語」と「妄想」は紙一重の話とも重なり、物語を空想することは大切だが、それに囚われて現実を忘れることは危険である、というメッセージとも受け取ることができるのです。
また、バスチアンが調子に乗ってファンタージェンの支配者になろうとして悲劇を招くという下りも、どんな才能がある人間でも自分自身を見失えば身を亡ぼすという、分かりやすい教訓ともなっているわけです。

物語の後半、バスチアンが思い付きで作ってしまった物語の登場人物のせいで、自分自身がピンチになる展開は、一番乗り越えるべき敵は自分自身の中にいる、ということだと思うのです。
また、ラスボス的に登場するある魔女がいるのですが、それもバスチアン自身の心の中にある傲慢さの象徴のような人物に見えるし、彼がこの本の中で成長するために乗り越えるべき障害として登場したようにも思えます。

また、幼ごころの君は、ファンタージェンの世界の正義も悪も、美しいものも醜いものも、すべて平等に愛する、という設定が登場するのですが、それはやはり、物語の世界ではあらゆる出来事に等しく価値があるという、表現の自由、思想の自由という読み解き方もできると思うのです。
さらに、物語の終盤でバスチアンは大きな悲劇を引き起こしてしまうのですが、その体験ですらバスチアンに必要だったこと、つまり、人間にとって成功も失敗も、すべて意味のある必要な体験であるということが伝わってきます。

そして、何もかもを見失ったバスチアンを、物語の世界で出会ったアトレーユとフッフールが助けてくれるという展開も、物語の中で「友達」と出会えるほどの大きな体験はいつか自分自身を助けてくれる、という読み解き方もできます。
こうして、本の中で大切な体験をしたバスチアンは現実世界へと帰っていくわけですが、最後に彼が少しだけ成長したこと、そのことで彼の人生が少しだけ幸せになったことが描かれ、物語はハッピーエンドを迎えます。

こうして振り返ってみると、人間にとって物語が、もっと言えば文化や芸術が大切な存在であること、そしてその体験は人を成長させ、世界を豊かにしていくという、極めて前向きなメッセージが込められた物語なんだなあと、あらためて思いました。
この物語が描かれたのは1979年、日本では1982年に出版ということですが、冷戦という人々が希望を失っていた時代に書かれた物語は、今読んでも心を動かす普遍的な感動があると思います。

そして何より、僕自身が作家を目指していることもあるので、物語に感動して、新たな物語を生み出すことの価値そのものを教えてくれるようなこの本がまた読めて本当に良かったと思いました。
月並みな感想ですが、僕もこの物語と、もっと言えば今までの様々な物語と出会った体験を大切に活かして、これから先、自分の表現活動に生かしていきたいと思いました。

あと、余談ですが、中学生の時に初めて読んだ時は気付かなかったことで、物語の中に「大昔ファンタージェンに来た旅行者で、シェクスピール」という描写があるのですが、これ絶対シェークスピアのことじゃん!という発見がありましたね。
シェークスピアやミヒャエル・エンデほどの歴史的な大傑作を生み出すのはまあ普通に考えて難しいとしても、自分にできることを少しでも頑張れたらと思います。

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