
12/5(日)、シネ・ウインドで一日限定上映、「ヴィタリナ」を観てきました。
夫の死を受け、妻ヴィタリナがポルトガルを訪ねる…
…という物語を、光と影が印象的な映像で、長回しを多用して静かに淡々と描きます。
台詞、特に説明台詞がほぼないため、この物語も必死で見続けないと分からない。
だから、能動的に映画に集中せざるを得なくなるという、ある意味「体験型」の映画でした。
映画が始まると、暗い夜道を人々が歩き家に入っていく…
そこには誰かが亡くなったらしき跡が…これは葬式なのか…?
しばらくすると飛行機が到着し、そこから女性が降りてくる…
女性を待っていた人が告げる、「ヴィタリナさん、夫は3日前に亡くなりました」。
これが最初の台詞で、やっと「こういうストーリーの映画だったのか」と分かるのですが、なんとここまで約20分!
この時点で、どれだけ台詞が少なくて、じっくり見ていないといけない映画なのか分かるのですが、それでも意外と集中力が持続してしまうという不思議な魅力のある映画でもありました。
その後ヴィタリナの独白や、ヴィタリナの夫と親交のあった神父の独白によって、少しずつ亡くなったヴィタリナの夫の人物や過去、背景などが浮かび上がってきます。
ちなみに、彼が神父であることも、しっかり見ていないと途中までまったく分かりません。
苦しみを抱えるヴィタリナ、神父が、映画の後半で、すでに夫の葬儀は終わっているけれど、あらためて簡易的な葬儀をする場面があります。
自分はキリスト教徒ではないけれど、どんな宗教や文化でも人が大切な人の死を受け入れるための儀式的な行為は必要なんだろうなと思いました。
難解な映画ではあるけれど、その難解さ自体が、人が人を理解すること、人の死を受け入れること、その難しさをを表現していたのかもしれないな…など思う映画でもありました。
例えば、夜の映像、暗い映像が多い映画だと思ったら、徐々に昼の場面が増えていくという構成になっていて、それが少しずつ夫の死を受け入れて希望を取り戻していく、ヴィタリナの心境の変化とシンクロしていたのかもしれないな、とも思いました。
ヴィタリナがポルトガルに着き、夫が住んでいた家に滞在する中で、ボロボロになっていた家を少しずつ修理していくという物語も、彼女が希望を取り戻していくこととシンクロしていたという受け取り方もできました。
また、一緒に見た友人が言っていたのですが、映画の冒頭では飛行機のタラップの階段を下りてきたヴィタリナが、最後の場面では家を修理するために屋根に上っていく、これが彼女の心境を表している、という解釈は、なるほどと思いました。