昔々。狐の足がお師匠様の御宅へ段々繁くなった頃の事。
ある日、お師匠様は突然、狐に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって來るのですか?」
「何でといってそんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なのですか?」
「邪魔だとはいいません」
成程、迷惑という様子はお師匠様のどこにも見えなかった。
狐はお師匠様の交際の範囲の極めて狭い事を知っていた。
其の頃、お師匠様と親しくしているお方はほとんど二人か三人しかいないという事も知っていた。
お師匠様と同郷のお方などには時たま座敷で同座する場合もあったが、何れのお方もみんな狐ほどにはお師匠様に親しみを持っていないように見受けられた。
「私は淋しい人間です」とお師匠様がいった。「だからあなたの來て下さる事を喜んでいます。だから何故そう度々に來るのかといって聞いたのです」
「それはまた何故なのです?」狐がそう聞き返した時、お師匠様は何も答えなかった。
ただ狐の顔を見て「あなたは幾歳ですか?」といった。
この問答は狐にとってすこぶる不得要領のものであった。しかし狐はその時其処まで押さずに帰ってしまった。
それから四日と経たないうちに狐はまたお師匠様の御宅を訪問した。
お師匠様は座敷へ出るや否や笑い出した。大爆笑であった。
「また來ましたね」といった。
「ええ來ましたよ」といって狐も笑った。
狐は他の人からこう言われたらきっと癪に触ったろうと思う。
しかしお師匠様にこういわれた時は、まるで反対であった。
癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は淋しい人間です」とお師匠様はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが事によるとあなたも淋しい人間じゃないですか? 私は淋しくっても年を取っているから動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう? 動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋しくはありません」
「若いうちほど淋しいものはありません。それならなぜあなたはそうたびたび私の宅へ來るのですか」
ここでもこの間の言葉がまたお師匠様の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたの為にその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
お師匠様はこういって淋しい笑い方をした。
私のお師匠様は淋しがりぶりっ子である。
きっと前世は兎であったに違いない。
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