狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

重要な事は未来において何が起こるかではない。如何なる未来を今日の思考と行動に織り込むか、何処まで先を見るか、それらの事を如何に今日の意思決定に反映させるかである。

2020年07月03日 16時17分29秒 | その他の日記
 以下の文は、アゴラ言論プラットフォームの内藤 忍氏の『東京の新規感染者数107人で「感染拡大要警戒」とはどういうこと?』と題した記事の転載であります。




『東京の新規感染者数107人で「感染拡大要警戒」とはどういうこと?』
2020年07月03日 14:00
内藤 忍



 昨日発表された東京都の新型コロナウィルス新規感染者数は、2ヶ月ぶりに100人を超えました。
 再び自粛生活が始まるのではないかと心配している人も多いと思いますが、東京都は「感染拡大要警戒」という曖昧な表現で都民の不安を煽っているようにしか見えません。
 そもそも、新規感染者数という数字だけを毎日追いかけるのではなく、その中身を私のような専門知識を持たない一般の人たちにも、わかりやすく情報開示すべきです。
 新規感染者数の増加が、実際に増えているのか、それとも検査数の増加によるものなのか明確にされていません。
 分母の数によって、意味合いは随分変わってきます。
 また、新規感染者は若年層の感染が多いと言われています。
 症状の出ない無症状感染者の比率が高ければ、隔離を徹底することで、医療機関への負担は小さくできます。
 新規感染者数の中で、重症者がどのぐらいいるのかも情報公開すべきです。

 小池知事の昨日の記者会見では、「“夜の街”要注意」と繁華街への夜の外出を控えるようにとコメントしていました。
 しかし、これでは感染対策をしっかり行っている飲食店まで、マイナスの影響を受けてしまいます。
 報道されているように、ホストクラブやキャバクラのような業態が大量感染者を出しているのなら、そこまで踏み込んで限定してコメントすべきではないでしょうか。
 もはや、補償金を追加で支払う財政的余裕はありませんから、このような自粛要請の影響で、今後さらに営業を断念し、閉店する真っ当な飲食店が増えていくことになるでしょう。

 新型コロナウィルスの対策は、新規感染者数をゼロにすることが目標ではありません。
 大切なのは感染者の重症者や死者を減らし、医療崩壊を防止しながら、経済との両立を保つことです。
 また過剰な自粛が始まり、経済にマイナスの影響が出ないか心配です。
                               転載終わり。




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エコノミストとは、昨日予測したことが今日起こらなかった理由を、明日明らかにしてくれる専門家のことである。

2020年07月03日 11時49分55秒 | その他の日記
 例えば、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と述べる者がいたとしよう。
 その者が『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と主張してその後にある主張をしたとしよう。
 そして、その主張には賛同できるものであったとしよう。
 その場合、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と述べる者を支持すべきか? 

 私は『否』と答える。
 例え後に続く主張に賛同できるものであったとしても、そのやり方は悪手でしかない。
 根拠のない数字を出して世間を脅して世論を操作するやり口を許すべきではない。
 それを許せば、同じやり口をする者が大量発生してしまう。
 その中には悪意をもって同じやり口を行う者がいるかもしれないのだ。

 経済学や社会学の専門家達はこのやり口で政府の中枢に潜り込もうとする者に慣れている。
 それ故に明らかに根拠のない数字が出てくると、当然の如く攻撃する。
 「その数字の根拠は何か?」と。
 これは当たり前の行為でしかない。
 そもそも、経済学や社会学は実験が出来ないので反証が難しい。
 それ故に論の根拠は重要になってくる。
 勿論、取るに足らない場であるならば、態々攻撃したりはしない。
 しかし、根拠の薄い数字を使って正規の手続きをすっ飛ばして政府の意思決定の中枢に潜り込もうとするならば、経済学者や社会学者は攻撃をする。
 意図や志や有能であるかどうかは関係ない。
 根拠のない数字を使った論で政治を動かすことは極めて危険な行為であることを知っているからなのだ。

 意図は分かる。
 しかし、あのやり方はやってはいけないやり方なのだ。

 
 『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と述べる者がいたとしよう。
 その者が『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と主張してその後にある主張をしたとしよう。
 そして、その主張に賛同できるものであったとしよう。
 しかし、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』という文言を使うとその人物は結局は信用されなくなる。

 その人物は、根拠を示すことが出来なかった。
 最も重要な係数の根拠を示すことが出来なかった。
 その時点で学術的にはアウトなのです。

 意図は分かる。意思も分かる。有能であることも確かなのです。
 しかし、あのやり方はまずい。
 あのやり方がOKならば、どんな数字でも当てはめることが出来てしまう。
 どんな数字でも当てはめることが出来るならばどんなことでも主張できるということなのです。
 同じやり口で反論されたらどうします? 
 例えば、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と主張する者が現れて真逆の政策を述べて政府の意思決定機関に潜り込んで政府の意思決定を動かそうとしたなら、どうします? 
 根拠は重要なのですよ。



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マイナスの想念の元凶となるマイナスの情報を遮断しなさい。

2020年07月02日 15時38分33秒 | その他の日記
 以下の文は、現代ビジネスの辻田 真佐憲氏の『「安倍は戦犯の孫」という低質さ…ネット右翼とネット左翼が似ている理由 問題は思想の左右ではない』と題した記事の転載であります。


『「安倍は戦犯の孫」という低質さ…ネット右翼とネット左翼が似ている理由 問題は思想の左右ではない』
2020.7.02
辻田 真佐憲





 「真の保守」「本当の保守」「まともな保守」――。
 こう言葉を使うと、SNS上では決まって、「そんなものはない」「妄想お疲れさま」と左派やリベラルとされる者に茶化され、バカにされる。
 だが、筆者は以前からこの反応に疑問を感じてきた。
 というのも、その左派も、スターリン、毛沢東、ポルポト、あるいは連合赤軍などと同類扱いされると、「あれは本当の左翼ではない」などと途端に同じような言葉づかいに走るからである。
 まさに不毛な左右の応酬。
 これを避けるためには、どうすればよいか。
 それは、思想の左右ではなく、クオリティーの高低で、ものごとを区別するように心がけることしかない。


  反安倍でも「戦犯岸の孫だから」は論外
 たとえば、自身が安倍政権に批判的だとしよう。
 それはまったく問題ないけれども、同じ思想信条だからといって、あらゆる「反安倍」を見境なく肯定するのでは話にならない。
 重要なのは、どういう理由でそう主張しているかだ。
 仮に「戦犯岸の孫だから」という低次元な理由であれば、その者から距離を取る必要が出てくるだろう。
 祖父と孫は別人格であるし、そもそも岸信介はA級戦犯ではないからである(容疑者として逮捕されたが、不起訴)。
 以上のことは、安倍政権支持側にも、何にでも、当てはまる。

 「教育勅語」を例にあげてもよい。
 自身が「教育勅語」を肯定しているならば、同じ肯定論者の意見でも、ちゃんと中身を真剣に読んでいるかどうか、精査しなければならない。
 得票や愛国ビジネスのため「スゴイ、スゴイ。復活、復活」と譫言のように唱えている不届き者は、むしろ積極的に批判すべき対象となるだろう。
 近年、「教育勅語スゴイ」と言っていた者が、何かのきっかけに「安倍は戦犯の孫」と言うようになり、これまでの「敵」から拍手喝采されるという事態も生じている。
 「なんでこの人が左翼/右翼の英雄になっているの」現象とでも呼べば、パッと誰かが思い浮かぶだろう。

 だが、良識ある者は、これを一顧だにしてこなかった。
 なぜならそれは、クオリティーの低い者が記号を弄び、脊髄反射する者たちを喜ばせているにすぎないとわかっていたからだ。
 こういう事例に一喜一憂しても仕方ない。
 右でも左でも、できるだけ質を高めることが肝心なのであって、「本当の保守」や「本当の左翼」を目指すことは、けっして嘲笑されるべきではないのである。
 クオリティーさえ担保されていれば、右も左も多様性のうちだし、両者のあいだで実りあるコミュニケーションも可能とさえいえる。

  「どっちもどっち論」ではない
 逆に、クオリティーが低ければ、箸にも棒にもかからない。
 昨今、「岸信介が731部隊の最高責任者」などというツイートが、安倍首相を批判したいリベラル系と思われる者たちの間で広がっている。
 よく知られるように、731部隊は、細菌兵器の研究・開発・運用などを行った日本陸軍の機関だけれども、最高責任者は岸ではない。
 そもそも文官の岸が陸軍を指揮するなどありえないわけで、これはきわめて初歩的な知識だ。
 ここで、「リベラルなアカウントが『731部隊は存在しなかった』並の歴史修正主義に走るとは」と驚くのは、まったくのお門違いである。
 両者は同じ穴の狢なのであって、クオリティーが低い者(インターネット・トロール)が、右や左の衣裳をまとって、適当なことを言っているにすぎないと理解すべきなのだ。
 SNSで四六時中暴れまわっている、いわゆる「ネット右翼」と「ネット左翼」が、その無理解、暴言、粘着ぶりなどできわめてよく似ているのは、まさにこれが理由にほかならない。
 あらためて強調するまでもないが、これは「右も左もどっちもどっち」という話ではない。
 ただ、「右だ、左だ」という議論は、ある程度の質が確保されてはじめて成り立つと言っているのである。

 これ以外にも、「岸信介が731部隊の最高責任者」レベルの意見は、SNSに山のように存在している。そこからはじまる議論の不毛なこと! 
 たまたま同じ政治的な傾向を持つからといって、低質な者を持ち上げてはならないし、またSNSのその手の揉めごとからできるだけ距離を取らなければならない所以もここにある。

  SNSと適切な距離を取る
 言われてみれば当たり前なのだが、ネットの左右対立は、あまりにも党派性を重んじて、クオリティーへの配慮を怠ってきたのではないか。
 こうなった背景には、SNSの存在も無視できない。
 SNSは「バズってなんぼ」の世界である。
 いま話題のテーマに食らいつき、炎上も利用しながら、刺激的な、わかりやすい物語を投下する。
 すると、大量の反応が即座に返ってきて、驚くほどの数字が計上される。
 今日、その数字は、しばしば人気や支持の指標と勘違いされている。
 ハッシュタグのトレンド入りが話題になるのも、その一環だろう。
 そのため、みな「バズること」に最適化しようとするのだが、そうすると、どうしても「岸信介が731部隊の最高責任者」みたいな、杜撰だが、インパクトのある情報が影響力をもってしまう。

 もちろん、SNSは生活のあらゆる面に浸透しているので、すぐに遮断とはいかないだろう。
 ただ、クオリティーに配慮するならば、適切な距離を模索することが必要になってくる。
 それが、アカウントを消すことなのか、1日のアクセス時間を減らすことなのか、それとも閲覧オンリーにすることなのかは、個々人の生活スタイルなどによる。
 中毒気味の人は、少し考え直してみてほしい。

  ネット右翼とネット左翼から離れて
 ここまで読んでもらえれば誤解の余地はないと思うが、本稿の目的は、「真の〜」「本当の〜」「まともな〜」を名乗りながら、みずからの党派に安住して開き直っている、事実上の「ネット右翼」や「ネット左翼」の類を肯定することではない。
 人間は誰しも完璧ではない。
 そのなかで、不断に努力して、みずからの質を高めていくことが肝心なのであって、そのために(SNS外で)試行錯誤しなければならないと言っているのだ。
 それゆえ、最後にもういちど強調しておこう。
 今日、われわれが本当に区別しなければならないのは、思想の左右ではなく、クオリティーの高低である。
 そしてそれは、「ネット右翼」や「ネット左翼」の不毛な議論を切り離した場所で追求されなければならないだろう。
                                転載終わり。






 これはSNSに限らず、テレビや新聞や雑誌やラジオなどのマスメディアにも言えることなのですよ。
 明らかなデマであるならば、それは議論の対象とすべきではないのです。
 明らかなデマは文字通りお話にならないのですよ。
 事実と異なることからは何も生まれません。
 マスメディアは多くのデマを世界中に拡散させて世論を動かしました。
 このやり方は戦前の日本のマスメディアが日本を戦争へと駆り立てたやり方です。
 このような行為を許すべきではありません。




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民主主義は他人の人権を尊重する。共存の感覚です。憎悪や猜疑やその他の悪徳は仕方がないこと。その悪徳を前提にして、お互いの人権を尊重していく──俗な言葉でいえば我慢しようということです。

2020年07月02日 13時10分33秒 | その他の日記
 以下の文は、現代ビジネスの林 智裕氏の『「福島の放射能は遺伝する」という誤解が9年経っても消えない現実 デマと偏見が固定化されている』と題した記事の転載であります。




      『「福島の放射能は遺伝する」という誤解が9年経っても消えない現実 デマと偏見が固定化されている』


 
  「次世代への影響」という偏見が根付きつつある

 まもなく、2011年の東京電力福島第一原子力発電所の事故から9年になります。
 たくさんの方々の善意と協力、努力で、福島の復興は大きく進んできました。
 もちろん、今も課題は多く残るものの、着実に前へと進み続けています。
 一方で、時間とともに話題となる機会が減っただけで、原発事故による風評や偏見の一部は、解消されずに定着したままとも言われています。
 その実情は、2年前の2017年時点で、三菱総研による福島や放射線リスクへの理解状況調査によって明らかになっていました(参考:筆者記事「『福島は危険だ』というフェイクが、7年経っても県民を傷つけている」現代ビジネス、2018年3月11日)。
 その状況は改善に向かったのでしょうか。
 前回調査から2年が経った昨年に行われた再調査の報告からは、
  ・福島の現状や事故による放射線の健康影響に対して理解は進んでいるものの、2年前と比べて大きな改善は見られない。
   ・2019年調査の時点においても、2017年調査と同様、約半数の東京都民が最新の科学的な知見とは異なり、放射線の次世代への健康影響を懸念していた。
   ・最新の科学的知見に反して、次世代への健康影響への懸念が続くと、国内の一部に差別や偏見の意識が根付いてしまうことが危惧される。
 という厳しい状況が見えてきます(参考:三菱総合研究所「東京五輪を迎えるにあたり、福島県の復興状況や放射線の健康影響に対する認識をさらに確かにすることが必要」2019年11月28日)。

  「世代を超えた影響」はない

 まず最初に、一般の方々への浸透が懸念される最も深刻な誤解について、明確に否定しておかなければなりません。
 人の遺伝について、放射線被曝による世代を超えた影響は、これまでの信頼性の高い調査では見出されていません。
 そもそも、東電原発事故によって、胎児の先天性異常が増加するようなレベルの放射線被曝をした方もいません。
 今後、福島を訪れた人や、福島で一般的な生活を送っている人に、東電原発事故由来の放射線の影響で何らかの健康被害があらわれる可能性も考えられません。
 これらは70年以上の時間をかけた広島と長崎の被爆者調査と、東電原発事故後の実測データから断言できることです。
 「福島での影響はまだわからない」などと言える時期は、とうに過ぎているのです(参考:早野龍五・東京大学名誉教授「特集 『遺伝的影響を心配する必要はない-福島への誤解』」日本原子力産業協会、2018年3月8日/福島レポート「福島第一原発事故による放射線被ばくの遺伝的影響は?」SYNODOS、2018年6月6日)。

 放射線による次世代への影響が実証されていないことについては、WHOの東電福島第一原発事故に関連したページでも確認することが可能です。
  10. Will future generations be affected?(次世代への影響はありますか?)
  A risk of radiation-induced hereditary effects has not been definitively demonstrated in human populations.(放射線が人の遺伝に影響を与えるリスクは実証されていません)
  “Frequently asked questions on health risk assessment”

 東電原発事故後には、避難した子どもたちが「放射能がうつる」などといったいじめを受けた被害も多数報告されています。
 放射線の性質について、唯一の戦争被爆国として被害の実態を語り継いできたはずの日本社会が、実際にはその基礎知識すら充分に共有できておらず、かつて原爆による被爆者が苦しめられた「ピカがうつる」に類する差別を繰り返してしまったことは、残念でなりません(参考:「『放射能がうつる』いわれなき悪口で傷つけ…相次ぐ原発避難いじめ 差別と偏見許さぬ社会に」産経ニュース、2017年2月7日)。

  「デマの否定」が不十分だった理由

 原発事故後に広がった誤解と偏見、それを誘発させた無責任なデマはあまりにも多く、中には被曝の影響が次世代の遺伝に影響するかのような誤った言説も見られました。
 当然ながら、これらの誤解に対し、福島県はじめ行政が「福島の今」や放射線関連情報の発信を怠ったわけではありません。「楽しいこと」「美味しいもの」をはじめとした福島の魅力は積極的に発信されてきましたし、官公庁などが用意したサイトでは、放射線の正しい情報を調べることもできます。
 しかし厳しい見方をすれば、それらはすでに正しい情報を充分知っている人や、福島に対して好意的な人々の間での消費や共有が中心で、そもそも強固な誤解や偏見を持ってしまった人々にはアプローチできていなかった、あるいは偏見を解消させる効果は限定的であったとも言えるでしょう。

 その原因のひとつは、個々のデマやその発信者に直接対峙・検証し、否定する動きがあまりに弱かったことにあると思います。
 福島県はこれまで、明らかに不正確なデマや悪意ある情報、およびその発信者については「個別の案件には対応しない」と静観する方針を続け、2014年のいわゆる「美味しんぼ鼻血騒動」などの例外を除けば、直接の反論や抗議をしてきませんでした。
 「ポジティブな情報に触れることで、誤った情報にもとづいた不安が払拭できる」人もいれば、「誤った情報を直接否定されなければ、ポジティブな情報は決して受け容れられない」人もいます。前者への対応に特化し、デマに直接反論しない方針が、風評被害対策として不十分であった点は否めません。
 なぜ、発信され続けた正しい情報が広まらず、誤解と偏見はここまで深く定着してしまったのか。
 事故から9年が経とうとしている今、その理由を考える必要があるのではないでしょうか。

  「科学的正しさ」と「政治的正しさ」の衝突

 福島に関する情報の更新が進まない理由は、第一には単純な時間経過による関心の低下と風化が挙げられるでしょう。
 これは、同じ三菱総研の調査データからも読み取ることができます。
 一方で、正しい情報の周知が進まなかった大きな原因として、これまでの風評対策には「『原子力』という技術そのものが政治的論争の中心にあること」への考慮と対応が欠けていた点が大きかったのではないでしょうか。
 原子力発電所は、単なる電力インフラ施設の意味を超えた極めて政治的な存在、ときには巨大な国家権力の象徴とされてきました。それが破局的な事故を起こせば、当然ながら政治問題化します。
 つまり、福島の風評と偏見の問題は常に、「科学的に安全かどうか」「情報が客観的に正しいかどうか」だけの文脈だけではなく、否応なしに政治的な利害関係やポジショントークの応酬、イデオロギー闘争に巻き込まれざるを得なかったということです。

 「科学的な正しさ」と、「政治的な正しさ」との間に乖離が生じてしまったことが問題を複雑化させ、原発事故被害を実態以上に悲惨であると喧伝する人々も出てきました。そのことが、社会での事実の共有(正しい情報が伝わること)を妨げ、広まったデマや偏見を温存させる作用をもたらしました。
 また、それらは大小さまざまなビジネスにも利用されてきました。
 「脱被曝」を謳った高額な食品や怪しげなサプリメント類の販売。
 大衆の不安や恐怖を煽る書籍出版や講演会、支持者を囲い込むセミナーなど、枚挙に暇がありません。
 そのようなビジネスで利益を得てきた人たちは、科学的な情報が広まることを歓迎しませんでした。
 残念ながら、一言でいえば、原発事故に「政治的・経済的な利用価値」を見出した人々があまりに多かったのです。
 そのような状況下では、「正しい情報や客観的事実が無条件で受け入れてもらえるわけではない」ことを前提としなければなりません。
 原発事故に関するデマがここまで拡散され、今も多くの誤解が残されている背景には、単に「正しい情報の発信が足りない」という理由ばかりでなく、こうした複雑な利害関係の影響があったとみる必要があります。
 
 特に、一部の大手メディアや政治家、教育関係者などが標榜する「政治的正しさ」と「科学的正しさ」との衝突は、深刻な問題でした。

 実際に、筆者の1年前の記事「正しい情報は邪魔? 8年経っても『福島の風評払拭』が難しい背景」(現代ビジネス、2019年3月11日)でも言及したように、昨年制作された「福島の今」を伝えるためのCMには全国のテレビ局から放映拒否が相次ぎ、最終的には3割程度の局で放映されるに留まりました。
 滋賀県野洲市では、放射線に関する正しい知識を学ぶための副読本が回収され、子どもたちの学びの機会が一方的に奪われています(参考:大石雅寿・国立天文台特任教授「『放射能副読本』はなぜ回収されたのか」論座、2019年7月2日)。
 多くの報道機関は、原発事故直後には福島の被害について過熱報道を繰り返したにもかかわらず、その後の「答え合わせ」ともいえるUNSCEAR(国連科学委員会)報告書については「ウケない」と判断したのか、ほとんど取り上げることがありませんでした。

 さらに一部メディアからは正しい情報の周知どころか、報告書が出された後も、誤解や偏見を誘発させかねない「ほのめかし」報道が繰り返されました。
 「報道ステーション」のように、環境庁が番組を名指しで注意した例もあります(参考:環境省「最近の甲状腺検査をめぐる報道について」平成26年3月/筆者記事「大炎上したテレビ朝日『ビキニ事件とフクシマ』番組を冷静に検証する」2017年8月10日、「『福島の11歳少女、100ミリシーベルト被曝』報道は正しかったか」2019年2月19日、ともに現代ビジネス)。
 
 もちろん、政府や当局が常に正しい判断や行動をしているとは限らず、批判や監視は必要です。また、示された政策に対して異を唱えるのも、健全な民主主義社会においては当然推奨されるべきことです。
 しかし、放射性物質の性質や影響といった「自然科学的な事実」は民主主義とは無関係であり、人の思惑に左右されません。
 たとえ行政や公的機関によって示された情報だからといって、それらを全て悪意に基づいた偽の情報と決めつけ、事実もろとも「反対」ありきの態度をとるのでは、ジャーナリズムや政治的主張の正当性や信頼を低下させるばかりではないでしょうか。
 なにより、社会がそのような終わりなき闘争に巻き込まれ、偏見や誤解が温存された結果、ダメージを受けているのは政府などの「権力」だけではありません。
 福島に住む人々の人権や尊厳、メディアの信頼性も大きく毀損されているのです。
 しかも残念ながら、そうした構図と害に気づいている関係者はいまだに少数です。

 このような状況下で、「間違った情報を抗議も反論もせず放置しても、正しい情報は浸透するはずだ」と期待してきたのは、楽観が過ぎたのではないでしょうか。

  「寝た子を起こすな」という意見もあるが

 一方で、デマや誤解に対して抗議・反論することには、被災した当事者の方々からも、否定的な意見が出ています。
 「風評を完全に無くすことなどできない。全ての人に理解されるのは無理なので、仕方ない」
 「差別だと騒ぐこと自体が、かえって状況を悪くする。『福島は面倒くさい』と思われて商売にも邪魔だ」
 「もう、そっとしておいてほしい。わざわざ寝た子を起こすようなことをしないで」
 それらの主張にも、確かに一理あります。
 わざわざネガティブな課題に触れることは多くの人にとって不快であり、実際に不利益が生じることもあるでしょう。

 しかし一方で、こうした素朴な主張の一部には、期せずして典型的な「反動のレトリック」、つまりたとえば「事なかれ主義」や「詭弁の正当化」と一致してしまっているものも含まれるため、注意を要します(参考:アルバート・O・ハーシュマン『反動のレトリック』法政大学出版局)。
 また、差別問題でしばしば挙げられる「寝た子を起こすな」論は、他のケースではすでに実効性が疑問視されています(参考:品川区人権啓発課「同和問題の理解のために(「寝た子を起こすな」という考え方)」/大阪府民文化部 人権局人権企画課「『寝た子を起こすな』?『知らぬが仏』?」/鳥取県人権文化センター「『寝た子を起こすな』を克服するために」)。
 
 それでもなお、「正しい情報の発信さえ続けていれば、デマへの反論は不要」なのでしょうか。
 これを考える際に忘れてはならない点が2つあります。
 ひとつは、「風評被害は経済的な被害だけにとどまらない『人権問題でもある』こと」。
 過去の公害病事例などでも知られるように、被災地への誤解や偏見が定着すれば、それが病気や遺伝に関わる内容なら尚更、差別などにも直結します。
 問題を掘り起こしてでも「呪いを解く」ようにしなければ、次世代の子どもたちにまでも悪影響を及ぼしかねません。
 自分の子どもが、誤った情報を鵜呑みにした他人から「オマエは将来ガンになる」「どうせ長生きできない」「子どもは生まない方がいい」などといった言葉をよってたかってぶつけられる日常を想像してみてください。
 これは福島で実際に起こったことです。

 また、すでに述べたように、デマは不安に乗じた大小さまざまなビジネスにも悪用されます。
 財産を失ったり、故郷を追われたり、家族が分断された被害者も少なくありません。
 これ以上の被害を食い止め、被害者を泣き寝入りさせないための行動が必要です。
 もう1つ注意しなければならない点は、「デマとその誘発を放置し対処を避け続けることは、復興を妨げ、社会の利益を大きく損なう」という視点です。
 かつて震災で生じた瓦礫を広域処理する際には、誤った危険性を煽る反対運動によって復興政策が妨害されたばかりでなく、被災地の人々の心も大きく傷つけられました。

   大阪の瓦礫焼却が始まり母の体調がおかしい。気分が落ち込む、頭痛、目ヤニが大量に出る、リンパが腫れる、心臓がひっくり返りそうになる、など。
   超健康生活の彼女はすぐ身体に反応が出る。
   また引っ越しか。
   国内避難民だな。
   — 山本太郎 住まいは権利! (@yamamototaro0) February 17, 2013  

 昨年秋にも、福島で台風19号によって犠牲者も出る深刻な被害が相次いだ非常時に、「除染廃棄物を保管したフレコンバッグが数袋流出した」という、住民の健康リスクに全く影響を与えないことばかりを熱心に報道する関係者もいました。
 しかも、この報道は海外大手メディアで事実と異なる内容に改変され、誤解と風評の再生産に利用されています。
 一連の報道は、いったい誰のためのものだったのでしょうか。

  デマの悪影響を過小評価してきたツケ

 さらに、原発事故について近年最も大きな政治的争点となっている処理水問題も、誤解と風評被害が拡大する懸念によって、諸外国と同様の処理が行えずにいます。
 このまま処理が滞れば数十兆円規模での追加予算が必要になるとの声もありますが、当然ながら、この莫大な予算には私たちの税金も使われることでしょう。
 こうした混乱に乗じて、国内の一部野党関係者や外国政府関係者によって、今年の東京オリンピックを「放射能オリンピック」と呼ぶネガティブキャンペーンまで展開されてきました。
 このような状況を許してきたのは、蔓延したデマとその悪影響を多くの国民が過小評価し、「あまり関わりたくない」と無関心のまま放置してきた日本社会にも、責任の一端があるといえるのかもしれません(参考:筆者記事「原発『処理水』を、なぜマスコミは『汚染水』と呼び続けたのか」2019年10月16日/「韓国・文在寅政権『日本は放射能汚染されている』プロパガンダのウソ」2019年8月29日、日、ともに現代ビジネス)。
 
 最後に、本文中でも触れたUNSCEAR2013報告書の概要を解説した記事を、改めて引用します。
 すでに何年も前に記されていたこの内容のどれだけが、みなさんに伝わっていたでしょうか。


   「UNSCEAR2013報告書」の8つのポイントを挙げる。
   (1)福島第一原発から大気中に放出された放射性物質の総量は、チェルノブイリ原発事故の約1/10(放射性ヨウ素)および約1/5(放射性セシウム)である。
   (2)避難により、住民の被ばく線量は約1/10に軽減された。ただし、避難による避難関連死や精神衛生上・社会福祉上マイナスの影響もあった。
   (3)公衆(住民)と作業者にこれまで観察されたもっとも重要な健康影響は、精神衛生と社会福祉に関するものと考えられている。したがって、福島第一原発事故の健康影響を総合的に考える際には、精神衛生および社会福祉に関わる情報を得ることが重要である。(注2)
(注2)精神衛生=人々が精神的に安定した生活を送れるようにし、PTSDやうつなど精神・神経疾患を予防すること。社会福祉=人々の生活の質、QOLを維持すること
   (4)福島県の住民の甲状腺被ばく線量は、チェルノブイリ原発事故後の周辺住民よりかなり低い。
   (5)福島県の住民(子ども)の甲状腺がんが、チェルノブイリ原発事故後に報告されたように大幅に増える可能性を考える必要はない。
   (6)福島県の県民健康調査における子どもの甲状腺検査について、このような集中的な検診がなければ、通常は発見されなかったであろう甲状腺の異常(甲状腺がんを含む)が多く発見されることが予測される。
   (7)不妊や胎児への影響は観測されていない。白血病や乳がん、固形がん(白血病などと違い、かたまりとして発見されるがん)の増加は今後も考えられない。
    (8)すべての遺伝的影響は予想されない。

                                  転載終わり。




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平和主義は、平和の実現ではなくて、戦争の実現になる。つまり、平和という名の下に進行する戦争行為である。

2020年07月01日 15時06分55秒 | その他の日記
 以下の文は、『アゴラ 言論プラットフォーム』の『日韓交渉で韓国を助けた岸信介と邪魔した朝日新聞』と題した八幡和郎氏の記事の転載であります。








『日韓交渉で韓国を助けた岸信介と邪魔した朝日新聞

 1957年に岸内閣が発足したが、岸首相は日韓会談の成功に意欲的で、就任の当日にフィクサーの矢次一夫と一緒に韓国の次期事務次官に決まっていた金東祚(戦前の高等文官試験に合格)と会い、「日本の過去の植民地支配を深く後悔し、早急な国交正常化をめざしたい」という意向を、李承晩大統領に伝えることを要請した。
 矢次氏の紹介の言葉に終始、微実を浮かべていた岸首相は、次のようにいったと金東祚の回顧録にはある。

 「帰国したら両国関係に対する私の意見を李承晩大統領に必ず中し上げて、冷却した韓日関係が打開できるよう額む」
 「私は西日本の山口県の出です。
 ご承知のとおり、山口県は昔から朝鮮半島と往来が多かったところですね。
 とくに山口県の萩港は徳川幕府時代の貿易船だった朱印船が朝鮮と頻繁に往来した寄港地でした。
 それだけに、当地人の血には韓国人のそれが少なからず混じっているのが事実で、私の血統にも韓国人の血が流れていると思うほどです。
 いわば両国は兄弟国といえるわけです。
 ですから、今日、面国が国交も結ばず、相互にいがみ合つているのはまことにやりきれないことです。
 私は、日本の過去における植民統治の過誤を深差省し、至急に関係を正常化するよう努力する覚悟です。
 なにとぞ私の意中を李大統領にお伝えください」

 これでも分かるように、岸信介が日本政界にあって突出した親韓派であったことが分かる。
 ちなみに、政治家を片端から在日朝鮮人だと言い募る一部保守派の困った見解のなかに、岸・佐藤・安倍一族が含まれることがあるが、それは上記の発言を曲解したものだ。

 古代は別にしても、戦国時代の守護大名である大内氏は、公式の系図において百済王室の男系子孫であることを主張し、朝鮮王国との交易を通じて行き来があった朝鮮国王に対して百済の故地を領地として欲しいと要求したくらいである。

 したがって、吉田松陰から明治の元勲に至るまでの人々がもっていた半島への関心には、上記のような歴史観が背景にあったし、山口県人であった岸信介にとっても同胞意識はそれほど突拍子もないものではないのである。

 余談だが、吉田松陰の杉家は大内氏の末流といわれるから、そういう意味では百済王家男系子孫だ。

 日韓会談で日本側主席をつとめた杉道助(ジェトロ理事長など)は、吉田松陰の兄の孫だし、朴正煕が吉田松陰を尊敬していたというのも偶然でないのかもしれないし、岸・佐藤家は吉田松陰との縁も深い。

 このあと、矢次氏は首相特使として韓国に招かれ、李承晩大統領と会談し、「日韓併合は韓国にとって迷惑であったろう」という口上を伝え、さらに矢次は「長州出身の伊藤博文の後輩として、後始末を着けたがっているのでないか」といったこともいい、李承晩は岸首相となら交渉妥結も可能だと言って喜んだ。

 ただし、この口上について、国会で社会党の今澄夫から追及された岸は「私の意見でなく矢次の意見」と答弁し、今議員は「日本と韓国との間をすべてのものを譲歩して取り持たなければならないということは日本の国民は望んでいない」と釘を刺した。
 何やら、令和の時代の論戦と立場が逆転しているのである。

 そこで、偽リベラル界隈は、岸らが利権目当てで日韓交渉で韓国に甘くピンハネしたとかいう。
 この時代、あらゆる政策と同様に、日韓双方でそれなりに利権とピンハネはあったかもしれないが、日本からの経済協力を活用して漢江の奇跡がなしとげられたことをみれば、利権目当てだったとか、採算性に影響を与えるようなものではなかったことが証明されている。

 また、このころ、日韓会談の沢田廉三首席代表が、「北朝鮮が半島を統一すれば日本はお先真っ暗になる。韓国の方が統一できるように武力では助けられないので日韓会談でできるだけ譲って韓国を援助する」と非公式に語っていると共産党が暴露し批判している。

 いずれにせよ、請求権問題については、岸政権が韓国に妥協しようとし、社会党などの野党や霞ヶ関が反対するという構図があったのは明らかだ。
 また、岸政権も朝日新聞も「本来は韓国にそれほど大きな金額を与える必要はないが」という点では同じ見解だったのである。

 これは、岸が安保改定を睨み、東南アジア諸国との賠償交渉をまとめ、蒋介石との関係を修復したのと同じ文脈である。

 そういう意味で言うと、韓国が請求権問題で安倍首相を攻撃するのは、まことに恩知らずの極みだし、朝日新聞はどの面下げてということではないか、といえば話が面白すぎか』
                             転載終わり。










 日本と韓国との問題を解決し両国の関係を未来志向へと変換させようとしていた勢力はどのような勢力で、日本と韓国との問題を蒸し返し捏造し問題を複雑化させてきた勢力はどのような勢力か? 
 「隣国と仲良くすべきだ」と主張しながら延々と問題を複雑化させ問題を作り出して隣国との仲を裂き続けてきたのはどのような勢力か?
 いわゆる従軍慰安婦問題を作り出し論点をズラしながら問題を長期化させたのは誰で、その問題を日韓合意で解決を図って日本と韓国との関係を未来志向へと向けさせようとしたのは誰か?
 その日韓合意を破ったのは誰か?
 日韓合意の破棄を支援して問題の蒸し返しを図っているのはどのような勢力か?
 真に日本と韓国との間を裂き続けているのはどのような勢力か?
 平和だとか友好だとか響きの良い言葉を使って人々を幻惑しながら日本と韓国との間を裂き続けているのはどのような勢力か?
 事実を無視してデマを拡散させて争いの元を生み出し憎悪を増幅させているのはどのような勢力か?
 韓国に親しみを持っている人達はよく考えてみるとよいです。

 相手の言い分を全て丸呑みする行為は友人の為になりません。
 自分の言い分を全て丸呑みしろと要求する相手とは友人にはなれません。

 いわゆる日本の左派勢力の嘘やデマや捏造によって日本と韓国の仲はズタズタに引き裂かれました。
 事実を無視し歴史を無視したいわゆる日本の左派勢力の主張によって日本と韓国の仲はズタズタに引き裂かれました。
 これを修復することは非常に困難な作業となるでしょう。
 そして日本と韓国との仲を修復する作業が出来る機運が起こっても、いわゆる日本の左派勢力は嘘とデマと捏造で日本と韓国との仲を修復する作業をぶち壊しにかかるでしょう。これは今までも何度も何度も繰り返し行われてきました。
 平和と友好を訴えながら、分断と不和を撒き散らす。
 このようないわゆる日本の左派勢力のような連中こそが、差別を生み出し人々を分断し事実を捻じ曲げ、そして戦争を生み出すのです。

 現状では日韓の仲を修復する作業は不可能です。
 残念なことでありますよ。




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memento mori

2020年07月01日 12時52分43秒 | その他の日記
 以下の文は、森田洋之氏の『人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える』と題した記事の転載であります。



  人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える
  森田洋之  2020/4/14



 「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」
 一人の医師としてこの言葉を聞いたとき僕はすべての思考がストップしてしまった。
 友人との会話中でなければ泣いてしまったかもしれない。 
 そうなのだ。
 不意に思いを言い当てられて自制が出来なくなるくらいには、僕はこの国の医療に対して思い悩んでいたのだ。
 僕は、僕がそんなに思いつめていたことに我ながらびっくりした。 
 おそらくその言葉は、僕がそれまでなんとなく感じていた「この国の国民と医療の世界に蔓延するモヤモヤ」をズバリと言い当てたのだろう。
 だからこそこんなにも僕の心をかき乱したのだ。 
    今回はそのモヤッとした空気感を自分なりになんとか言葉にしてみようと思う。
 自分の気持や空気感を描写すると言う作業に慣れていない僕にとって、これはかなり困難な作業になりそうだ。
 拙い表現になるとは思うが、しばしお付き合いいただけると幸いである。 
  
 皆さんがこのことをご存知なのかご存知ないのか、僕には分からない。
 しかし「人間の死亡率は100%」だ。
 僕の医者としての経験上それは多分間違いない。
 人間は必ず死ぬ。 
    新型コロナ肺炎だけでなく、インフルエンザでも、普通の肺炎でも、ガンでも心筋梗塞でも…原因は無数にある。
 人は死ぬのだ。 
 ちなみに、冬季の流行シーズン中は毎日100人くらい、年間で1万人くらいの日本人がインフルエンザ、もしくはそれに起因するざまざまな病態(インフルエンザ超過死亡という)で死んでいる。 
 交通事故で3千人〜5千人、インフルエンザで1万人、自殺で2〜3万人の日本人が毎年毎年死んでいるのである。
 ちなみにこれだけ大騒ぎしている新型コロナ肺炎は、この世に登場してから通算でまだ100人しか日本人を殺していない(2020年4月半ば現在)。
 もちろんまだ増える可能性はあるが、自殺のレベルにまで到達するかは疑問である。
 そういう意味では致死率が80〜90%にのぼるエボラ出血熱やコレラなどとは基本的に全く違う感染症と言っていい。
 当初から言われているとおりコロナ感染者の8割は軽症もしくは無症状。
 残りの2割は入院が必要なくらい重症、そのうちのわずかな人が死亡に至る。
 致死率はインフルエンザの10倍とも言われるが、死亡者の大半は高齢者や基礎疾患のある方である。 

 こんな言い方をすると必ずこう反論される。 
  
 「高齢者は死ねというのか!?」 
  
 それは間違いである。
 僕が言いたいのは 「高齢者は死ぬ」 だ。 
 いや、さっきから言っている通り正確には、「人は死ぬ」と言ったほうがいい。 
  
 こんな言い方をする僕は冷酷なのだろうか。
 人の死を数字で語る僕は非人間的な医師なのだろうか。 
 たしかにそうかも知れない。
 ただ、これだけは言っておきたい。
 僕はコロナで亡くなられた志村けんさんの人生を昔から知っていた分深く悲しんだ。
 しかし、それと同じくらいインフルエンザや肺炎やガンで亡くなられた多くの名もなき人たちの人生に寄り添い、悲しみを共有し、そして見送ってきた。 
 あなたはインフルエンザで亡くなられる人が毎日100人もいる事実をこれまで少しでも深く考えたことがあっただろうか? 
 あなたたちがいままで見てこなかった、あるいは知っていたとしても無視あるいは軽視してきたたくさんの死に僕は向き合ってきた。
 志村けんさんの人生の物語を知っている人はとても多い。
 だから日本中が悲しみに包まれ「コロナ憎し」という空気が出来上がった。
 でもね、これまでインフルエンザや肺炎や自殺で亡くなられた何万という人たちにだって、一人ひとり、それぞれに人生の物語はあったのですよ。
 僕に言わせれば、これまで高齢者医療にも終末期医療にも自殺問題にも殆ど見向きもしなかったあなた方、いまコロナで自分や家族の命が脅かされそうになって初めて大騒ぎしているあなた方のほうがよっぽど冷酷に映る。 
  
 そう、本当に残念なことだが、人はふとしたことで命を落とすものなのだ。
 これだけ医学が進歩しても、助けられない命は無数にあるのだ。 
  
 もちろん、助けられる命は全力で助ける。
 それが医療だし、それが医師だ。 
 しかしそれでも、リスクは決してゼロにはならない。
 なぜなら人は必ず死ぬのだから。
 いや、むしろ、リスクゼロを追求するべきではないと言ってもいい。 
 リスクをゼロにしようとする医療側の真摯な努力が逆に様々な弊害をもたらしてしまうことは、医療の歴史を鑑みれば容易に想像が出来るのだから。 



 「医療によるゼロリスク」の危険性 
  
      
 医療によるゼロリスクの追求は様々な弊害を社会にもたらしてきた。 
 その最大のものはやはり「高齢者」に対する医療だろう。 
 先程「高齢者は死ねというのか?」と言う意見に少しでも共感された方には是非この点を認識していただきたい。 
 批判を恐れずに率直に言う。 
 高齢者医療の現場である病院・施設は「ゼロリスク神話」による管理・支配によって高齢者の収容所になりつつある。
 誰しも高齢になれば自然に足腰も衰える、転倒を予防したければ「歩くな」が一番の予防策だ。
 今高齢者が入院する病院では、ベッドに柵が張られていることが多い。
 トイレに行きたいときは看護師を呼んで車椅子移動。
 行動を制限された高齢者の筋力・体力は急速に落ちていく、そして寝たきりになり、排泄はおむつになる。 
 また、誰しも高齢になれば飲み込みが悪くなる。
 食べては誤嚥し、肺炎を発症する。
 誤嚥性肺炎を予防したければ「食べるな」が一番の予防策だ。
 今高齢者が入院する病院・施設は、鼻から胃袋まで管を入れられる、もしくはおなかに直接穴を開けられて胃に栄養を送る経管栄養の高齢者で大賑わいだ。 
 こうして高齢者は入院・入所した途端に行動を制限され寝たきりになっていく。 
 多くの高齢者の願いは、「自宅で好きなものを食べて、自分らしく生活をしたい」という至極単純なものだ。
 それなのに、世間や医療のゼロリスク神話はいともたやすく高齢者の生活を奪ってしまう。
 リスクを恐れるあまり、多くの高齢者は今「かごの鳥」になっているのだ。(ちなみに僕は彼らを一人でも多く救いだすべく活動している) 
 この傾向は今回のコロナ騒ぎで確実に深刻化している。
 病院や高齢者施設はいま、完全に他者をシャットアウトしつつある。
 家族でさえ面会が困難な状況だ。 
 そしてその状況に至るまでの道程の片棒を担いだのは(もっと言えば先導したのは)我々医療従事者である。 
 「命を守る」「〇〇しないと死ぬ」という恐怖のメッセージは、我々の想像以上に効果的だったのだ。 
 今この恐怖のメッセージは、高齢者医療から新型コロナウイルス感染予防へ場を移し、猛威を発揮し始めている。 
 中国ではスマホの位置情報で個人の行動が管理されているという。
 韓国でもスマホの位置情報で感染者との接触情報が管理されているという。
 そして日本でもこの動きは少しずつ進展している。 

 (表示の都合上、自分のツイッターを貼っております。)
    感染防止にスマホ位置情報 政府検討、プライバシーは?
    :朝日新聞デジタル https://t.co/retIru5sx0 #新型コロナウイルス
        — 森田洋之@総合診療医・医療経済ジャーナリスト (@MNHR_Labo) April 14, 2020

 医療による死の恐怖は、まるで国民全体を徐々にカゴの中へ誘っているのかのようだ。 

 もちろん、今は緊急事態だから仕方ないのかもしない。
 ただ、一旦進んだ時計の針は戻せないのも現実。
 一度許してしまった権利の制限は、今後様々な形で進んでいくだろう。 

 もちろん、清らかな医療者は「医療による恐怖で世界を支配する」なんてかけらも思っていない。
 しかし、コロナパニックは「医療的な恐怖で世界を動かせる」ことをにわかに証明してしまったのだ。 
  
 これまで何百年もかけて人類が一つずつ獲得してきた様々な社会的な権利。
 それらを一時的にとはいえ一気にむしり取るという前代未聞の体験を、いま僕たちは「コロナ」を理由に経験している。
 医療は、これまで誰も持ち得なかった「国民の人権さえも制限できる巨大な力」を持ってしまったのだ。
 「命を守る」の殺し文句がこれほど効果を持つとは……。

 この力を利用しようとする勢力は確実に現れるだろう。
 それが国家なのか巨大資本なのかGAFAなのか、それともその全部なのか。
 それらが牙を剥いた時、果たして我々医療者はその巨大な力に抵抗できるのだろうか。
 いや、上手に牙を剥く彼らは、我々医療者が気づかないように…医療者を盾にして国民の目をそむけながら、手を進めるだろう。 
  
 もう一度言う。 
 「人は必ず死ぬ」 
 死はいつも身近にあるのだ。
 新型コロナ肺炎だけでなく、インフルエンザでも、普通の肺炎でも、ガンでも心筋梗塞でも交通事故でも…人は死ぬのだ。
 世界に目を向ければ、3大感染症(結核・マラリア・HIV)で一日7千人もの人が亡くなっているのだ。 

 自動車を製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。
 でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。 

 意識するかしないかに関わらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。 
 それなのに今、コロナによる恐怖と医療従事者による「ゼロリスク」の先導は世界中の経済を止め、生活を破壊し、人々は自らカゴの中に入ろうとしている。
 そして巨大な権力は近い未来、医療が持つ壮大な力を巧みに利用するだろう(もしかしたら今がその時かもしれない)。
 得るものに比べて失うものが大きすぎはしないだろうか。
 バランスが圧倒的に悪過ぎはしないだろうか。 
 その時になって我々は、「あ〜、あのコロナパニックが始まりだったんだ」と気づくのかもしれない。 
  
      
 そんな未来を子供達に残してしまうのか…しかも自分たちがその片棒を担いでいるのか…。
 漠然とそんなことを思っていた時に聞いたのが、 
 「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」 
 と言う言葉だったのである。 
  
 僕が感じている漠然としたもやもや感を拙い言葉で表現すると以上の様になる。
 いや、自分の今の気持ちをきちんと文字で表現できたかどうか…自分の拙い表現力に悔しい気持ちでいっぱいだ。
 でもこれが今の僕の限界だろう。
 仕方ない。
 僕は今ここで筆を置く。 

 最後までお読みいただきありがとうございました。 
  
 追記:
 これまで、BCGワクチンがコロナに効いてる?とか、圧倒的に低い日本の死亡率などの「安心材料」的な記事を書いてきたのは、そんな「医療的な恐怖で世界が動いてしまう」ことへのささやかな抵抗だったようにも思います。(もちろん、きちんとデータの裏付けをとった確からしい情報書いているつもりです。反発心だけで書いているわけではありません)


 追記2:
 決してコロナウイルスの感染拡大予防対策を否定しているわけではありません。
 高齢者医療に日々接している僕は、2月から旅行もキャンセルしていますし、多分誰よりも日々の手洗いをしています。
 ただそれは医師としてのモラルから、リスクがゼロにはならない前提で、出来る範囲のことを自発的に行動しているものです。
 決して国から指示されたものではありません。
 社会全体として「圧倒的にバランスが悪い」という主張の趣旨をご理解いただけますと幸いです。
                                 転載終わり。


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この世の中に共産主義ほど犯罪的で恐ろしいものはありません。共産主義思想を取り入れた国は途端に貧乏になって駄目になる。共産主義は人間を人間扱いしなくなります。

2020年06月29日 22時40分45秒 | その他の日記
 立憲主義を掲げるのならば、憲法を改正するか自衛隊を解散させるかのどちらかとなります。
 違憲状態ではあるけれどもそれを容認するというのならば、立憲主義ではありません。
 日本共産党の志位委員長は、「日本共産党は自衛隊が違憲であるという立場は変わっていないか?」という質問に対して、「変わってない。(しかし)今すぐは無くせない。日本を取り巻く環境が平和になって、9条完全実施しても大丈夫だとなったら着手できる。それまでは共存する関係である」と述べています。
 自衛隊という組織が違憲であるという認識であるならば、日本共産党は違憲状態を容認するということになり、憲法無視であり立憲主義に反しています。


 そもそも日本共産党は憲法を全面改憲することを目指している政党です。
 護憲政党ではありません。
 日本憲法が成立した時に憲法9条に大反対したのが日本共産党です。
 そして日本共産党の綱領を実現しようとするならば、日本共産党の理念と日本国憲法の多くの文言に反します。
 日本共産党の綱領を実現しようとするならば、日本国憲法を全面的に改憲するか日本国憲法を無視するか、どちらかとなります。
 日本共産党が日本共産党の理念を実現しようとするならば、今の日本の社会を根本から変えることになります。
 日本共産党の理念は日本国憲法の理念と真っ向から対立します。
 日本共産党が護憲政党を名乗るのは欺瞞です。

 そして日本共産党は戦後も多くの人を殺し多くのものを奪い多くの人を脅してきました。
 日本共産党はその反省をしたことはないし謝罪をしたこともありません。
 犯罪を犯しておいて反省も謝罪もしたことがない政党が平和を追求すると述べたところで私は信用できません。

 日本共産党は話し合いをしません。
 日本共産党の主張を一方的に相手に押し付けようとするだけです。
 日本共産党の主張を相手が受け入れなければ、その相手を悪と認定し非難して攻撃する。
 このような独善的な政党は民主主義とは考え方がかけ離れています。

 日本共産党は立憲主義ではありませんし護憲政党でもありません。
 日本共産党が立憲主義を掲げるのは欺瞞です。
 日本共産党が護憲政党を名乗るのは欺瞞です。
 そのような行為は選挙民を騙す行為です。
 欺瞞で選挙民を騙す行為は民主主義を破壊する行為です。
 選挙民が正しい情報に基づいて投票ができないならば民主主義が成り立ちません。

 日本共産党は選挙民を騙す行為を直ちにやめてください。
 お願いします。


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「革命」とは何か? 自分達の旗に記した自分勝手な主義の名の下に、権力を把握しようとする暴徒のことある。

2020年06月29日 17時58分46秒 | その他の日記
 以下の文は、アゴラ言論プラットフォームの高山 貴男氏の『立憲主義は守らなくてよい ~ 安保法制施行4年に考える』と題した記事の転載であります。



      『立憲主義は守らなくてよい ~ 安保法制施行4年に考える』

   誰も何も困っていない
 きょう3月29日(日)で集団的自衛権の限定行使を容認した、いわゆる「安保法制」が施行されて4年になる。
 安保法制反対派から言わせれば「立憲主義に反する」状態が4年を経過したわけだが、この4年間に「立憲主義に反する」ことが原因で日本社会に何か不利益があっただろうか。
 筆者は何も思い浮かばない。
 本当に全く浮かばない。
 安保法制反対派からも特には聞こえない。
 例えば「立憲主義に反する」として安保法制に反対した旧民主党の左派とも言える立憲民主党の支持率が頭打ちなのも別に「立憲主義に反する」ことが原因ではないだろう。
 筆者は立憲主義を守ることが個人の自由と平和に資するというならいくらでも「立憲主義を守れ!」と主張する。
 しかし、巷の立憲主義者の発言・行動を見ると立憲主義を守ると個人の自由と平和が害される危険性しか感じない。
 本当に立憲主義を守る必要性はあるのだろうか。

   国家権力を制限して平和になるのか?
 立憲主義者は「立憲主義とは国家権力を制限することだ」と主張し安保法制を否定する。
 彼(女)らの発言を聞くと国家権力を制限すれば論理必然的に個人の自由と平和が確保されるといわんばかりだ。
 もちろん、ことはそう単純ではない。
 個人は単体で自らを守れるとは限らないから国家を必要とする。
 「国家の役割とは何か?」とはそれ自体、深く重いテーマであるが、そこに「個人を保護する役割」は間違いなく含まれている。
 国家には個人(国民)を保護する義務があり、その義務を履行するためにも個人は然るべき権限・資源を国家に付与しなくてはならない。
 立憲主義の名の下、やみくもに国家権力を制限し国家の個人保護機能が害されるのなら本末転倒である。
 立憲主義を守ると個人の自由と平和が害されるなど実におかしな話である。
 安保法制反対派が主張する立憲主義論は「個人は立憲主義のために犠牲になるべきだ」と主張しているのに等しい。


   立憲主義を「最高の価値」とする神経
 立憲主義の問題は国家権力への姿勢に限られない。
 その排他性も問題である。
 例えば立憲民主党は結党当初、党綱領において立憲主義を「最高の価値」と規定しようとした。
 結局、これは見送られたが今でも立憲民主党関係者の各種発言から立憲主義を「最高の価値」と認識する姿勢は窺える。
 例えば立憲民主党の枝野代表は立憲主義を「当たり前」とか「当然の前提」と表現する。
 この枝野代表の立憲主義観については既に記した。
 立憲民主党関係者は直接的な表現こそ使用していないが、立憲主義を「最高の価値」と認識していると判断しても決して過剰な解釈ではあるまい。
 そしてこの前提に立った場合、立憲主義を守る必要性はなくなる。
 なぜならおよそ「最高の価値」ほど自由社会と相性の悪いものはないからだ。
 「最高の価値」は強力な引力、磁場を持ち各種権力を収斂させ「独裁」への道を切り開く危険性がある。
 独裁者とは常に「最高の価値」を標榜する。
 ヒトラーは国家社会主義運動の優越性を、スターリンは共産主義運動の優越性を唱え自らの「独裁」の正当性を唱えた。
 「独裁」に反対し自由社会の発展を望む者ならば「最高の価値」に警戒するはずだし、この警戒こそが立憲主義ではないのか。
 やや昔の話で「案」の段階とはいえ党綱領に「最高の価値」を規定しようとしたこと自体、立憲民主党が個人の自由と平和に無関心であることを示しているし、管見の限り立憲主義者を自称する者でこの立憲民主党の姿勢・行動を批判する者をみたことがないから日本では立憲主義者とは個人の自由と平和に無関心な者が名乗る立場なのだろう。

   立憲主義は守らなくてよい
 立憲民主党的立憲主義をこの日本で完全に実施した場合、間違いなく防衛力は弱体化するから常に独裁国家の恫喝、干渉はもちろん物理的侵略の危険に怯えなくてはならないし、立憲主義の絶対性を主張する者の顔も常に窺わなくてはならなくなる。
 要するに「立憲主義を守る」と全方位から個人の自由と平和は脅かされ、最終的になくなり、立憲主義が否定しようとした社会になるのである。
 今の日本で個人の自由と平和を根底から破壊する危険性があるものは自民党改憲草案ではなくヘイトスピーチでもない。
 それは立憲主義である。
 安保法制施行から4年を経過した今「立憲主義は守らなくて良い」と強く主張して筆をおきたい。


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権威に対する抵抗それ自体に既に価値があるとか普通でない意見は当然正しいはずと考えたがるのは、非常に危険であり有益な目的には何の役にも立たない。

2020年06月28日 13時20分45秒 | その他の日記
 以下の文は、アゴラ言論プラットフォームの八幡 和郎氏の『ゴーン事件で検察を利用した報いと愚かなマスコミの明日は我が身』と題した記事の転載であります。



『ゴーン事件で検察を利用した報いと愚かなマスコミの明日は我が身』
2020年06月28日 11:30
八幡 和郎


 アベノセイダーズといわれる安倍首相が大嫌いな野党やマスコミには、立派なインテリが多いはずなのだが、安倍首相に打撃を与えられることなら、それが彼らの本来的な主張と明らかに反し、彼ら自身の立場を危険にさらすことでも平気で主張する。

 外国政府の内政干渉を期待するなどは、これまでの保守政権に対してと同様であるから、それに彼らがなんの躊躇もないのは驚くに値しないが本当はひどい話だ。
 平成の御代にあっては、天皇陛下を安倍首相に対する抵抗勢力として位置づけ、内閣の決定や国会の議決した法律を否定する行動を陛下に期待した者さえいた。
 安倍首相が「解散がいつになるかは神のみぞ知る」といったら「ついに自分を神呼ばわりしだしたか」とツイートしたのは中野晃一上智大学教授だが、さすが、カトリック系の大学の教授でありながら「赤旗」で共産党を持ち上げるという器用な方だからびっくりするようなことでないかもしれない。
 そして、最近、驚いているのが、河井克行・案里夫妻の事件について、マスコミが検察リーク以外に情報源はありえない報道を小出しにし、強引な捜査を正当化する世論作りに協力していることだ。
 少なくとも、収賄側がほとんど起訴されないまま、その証言によって元法務大臣が贈賄に問われそうとというのは異常だ。
 朝日新聞に「(ひもとく)検察と政治 権力の逸脱を法で縛るために」という記事を宇野重規・東京大学教授が寄稿しているが、そのなかで、こんなことをいっている。

  『(略)…何より重要な著作は三谷太一郎の『政治制度としての陪審制』であろう。「近代日本の司法権と政治」を副題とするこの本は、近代日本における検察の問題に光をあてる。明治憲法体制において反政党勢力を代表したのは、「統帥権の独立」を掲げた軍部だけではない。「司法の独立」を唱えた検察主導の司法部もまた、政党政治の脅威であった。検察権力で政治に介入、司法界の法王として君臨し、首相となって右翼的な国家改造を目指した平沼騏一郎がその代表である。』

 平沼騏一郎というのは複雑な要素をもった人物だから単純に否定的な側面ばかり論じるのもどうかと思うが(終戦を実現するために決定的な役割も果たしている)、まったくそのとおりであろう。
 これについて、梶谷懐神戸大学教授は、「”明治憲法体制において反政党勢力を代表したのは、「統帥権の独立」を掲げた軍部だけではない。「司法の独立」を唱えた検察主導の司法部もまた、政党政治の脅威であった」とツイートしているが当然のことだ。
 検察の大ヒットと世間でいわれるような事件は、だいたいが、事実関係について隠れた事実を暴いたというより、法解釈の実質変更である。
 田中角栄のロッキードもそうだし、リクルート、ホリエモン、村上世彰などの経済犯罪などそういうことではないか。

 しかし、政治も自業自得ともいえる。
 カルロス・ゴーン事件は、日本経済にとって救世主といわれ尊敬されてきた外国人経営者を、経営立て直しが終わったから追い出したいという社内勢力と検察が組んで仕掛けた事件に、政府の一部が与したともいわれた。
 少なくとも、外国からの人質司法に対する批判に対して、日本には日本のやり方があるとか無茶苦茶な理屈で対抗するのに協力していた人たちが、今度は、検察もやり過ぎだというのは滑稽だ。
 私は検察はもっと多くの案件を起訴してもいいと思う。
 ただ、証拠集めのための人質司法と自白偏重主義、ルールがはっきりしないままの司法取引まがい、推定無罪に反する被告人の社会的地位剥奪や裁判中の拘留、長すぎる裁判と極端に高い有罪率などは、少なくとも世界的な常識に反するものだから、やめたほうがいいと思う。
 それから、検事総長人事に政治がいかなる選択も行えないとすれば、それは民主主義の否定であろう。
 そもそも、検察は行政の一部であって三権分立の司法部門ではない。
 それに最高裁の判事すら内閣が指名するものであり政治的判断で行われるのに、検事総長の人事は完全独立などありえないだろう。
 もちろん、官僚人事は専門性を考慮すべきであり、その範囲において政治の介入には慎重であるべきだ。
 そういう意味では、民主党政権において、駐中国大使に民間人をもってきてあまり結果は良くなかった。
 それと同時期に検事総長に民間人を起用しようとしたとされるのも乱暴だったのかもしれない。
 しかし、自分たちはまったくの外部登用まで検討していたのに、安倍内閣が2人いる現役検事の候補のうち片方を選ぶのすら許せないというのはひどい話だ。
 今回は、ゴーン事件で検察の絶対独立性を擁護した与党サイドが天に唾したかたちだが、そのうちにマスコミも野党も同様に後悔することになるのではないかと思う。
 そのあたりは『日本人がコロナ戦争の勝者となる条件』(ワニブックス)のあとがきでも少し論じている。
 あとがきでは、日本の政治の今後のめざす方向を全般的に論じたもので、ポスト安倍とかさらにその先を狙う人たちにも読んでもらいたいと思っている。

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相手の本音は自分に打ち明けたところにではなく打ち明けられなかったところにある。だからもし相手を理解しようと思うのなら相手が言ったことにではなく言わなかったことに耳を傾けなさい。

2020年06月28日 11時18分39秒 | その他の日記
 朝日新聞は、紙面上で威力業務妨害や恐喝未遂罪で延べ九十人近くの逮捕者を出した「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)」の宣伝広告を出しています。
 朝日新聞は、犯罪集団を宣伝したということになります。
 知らなかったとは言わせません。
 過去にも犯罪歴はあったのです。
 調べればすぐに分かることです。
 知らずに犯罪集団を宣伝したと主張するのならば報道機関として超無能ということになります。
 そして朝日新聞社は、「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)」が沖縄の在日米軍基地問題で極左側に資金を出し活動員も送り込んでいることを知っています。
 知らなかったとは言わせません。
 宣伝広告を出しているのですから。
 これで知らなかったと述べるのならばマスメディアとしては超ウルトラスーパー無能ということになります。
 

 朝日新聞グループは、「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)」の執行委員長が以前に何度も逮捕されていることも知っているはずです。
 しかし、朝日新聞グループは全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)が90人近くの逮捕者が出ていることや全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)が特定の野党の政治家や野党の政党に深く関わり合いを持つことや特定の政治運動を展開してデモや活動をしていてその中には犯罪行為が含まれていることを問題視して報道することはありません。
 これはスポンサーに対する忖度ですか?
 それとも応援する野党側の政治家に対する忖度ですか?
 それとも朝日新聞グループは自分達の主張と同じ主張をする集団ならば犯罪を容認し推奨し法を犯すことに問題が無いと主張するということですか?
 造反有理ですか?
 朝日新聞グループは自分達の主張と同じ主張をする集団ならば何をしようと構わないと主張するということですか?
 それはファシストと同じ考えです。
 


 朝日新聞は、関西地区生コン支部がどのような組織なのか知っていますよね?
 どのような活動をしているか知っているはずですよね?
 どのようにして資金を手に入れどれだけの資金を手に入れることができるか、知っていますよね?
 どのようなデモを主導していたのか知っていますよね?
 どのような政治活動を行っていたか知っていますよね? 
 どのような集団と付き合いがあるか知っていますよね?
 そして執行委員長が逮捕されたのは今回が初めてではないということを知っていますよね?
 どの政党を支援し誰に献金を送り誰のパーティ券を購入しているのか、知っていますよね?
 どこに人を送り込んでいたのか、よく知っていますよね?
 そしてどの国と関係が深いか、よく知っていますよね?
 どの国の支援を受けているのか? 知っていますよね?
 主体思想をスローガンとして掲げていることを知っていますよね?
 暴力団と関わり合いがあるということも知っていますよね?
 そして韓国の左派政治集団と連携していることも知っているはずですよね?
 北朝鮮と連携していると考えられている韓国の左派政治集団と連携していることを知っているはずですよね?
 沖縄で左派集団が犯罪行為を繰り返していることも知っていますよね?



 朝日新聞は暴力団とも関わり合いのあるとされる集団の広告を掲示し宣伝していたことになります。
 朝日新聞は、反社会集団の広告を掲示し宣伝していたことになります。
 朝日新聞社並びに朝日新聞グループには説明責任が発生しています。
 しかし朝日新聞はだんまりを決め込んでいます。
 説明をせずだんまりを決め込むということは朝日新聞は反社会集団の支援組織であるということになります。




 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)は、いわゆる森友学園問題で理事長夫人のメールで名前の上がった集団です。
 朝日新聞は、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)が、いわゆる森友学園問題に関わっていたと推測されている団体だということも知っていますよね?


 勿論、朝日新聞はいわゆる森友学園問題が、日本最大の暴力集団と日本に古くから存在する被差別利権集団と労組の名を借りた在日外国人利権団体の利権争いであることは知っていますよね?
 関西地区生コン支部がどのような組織なのか知っているならば、いわゆる森友学園問題の裏の裏まで知っているということになります。




 何故に朝日新聞グループは、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)が威力業務妨害や恐喝未遂罪で九十人近くの逮捕者を出したことを報道しないのですか?
 広告主に対する忖度ですか?
 それとも某国に対する忖度ですか? 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)に強い影響力がある某国に対する忖度ですか?
 それとも某野党議員(複数)に対する忖度ですか? 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)にお金を貰い選挙で支援してもらっている野党議員(複数)がいますもんね。
 反社会集団に支援されている野党議員連中に対する忖度ですか?
 それとも朝日新聞グループにとって都合のよい文化人達に対する忖度ですか? 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)に関わっている文化人も多いはずですもんね。
 それとも純粋に怖いからですか?
 怖いから全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)に忖度して全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)の宣伝をしているのですか?

 恐喝未遂容疑で執行委員長が逮捕された集団がどのような組織なのか、どのような活動をしていてどの政党を支援し誰にお金を渡しているのか、そしてどのような集団の支援を受けているのか、そもそも資金源はどのようなものなのか? これは本来ならば大スキャンダルとなるはずです。

 しかし主要マスメディアは何故か沈黙を守っています。
 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)から逮捕者が九十人近く出たという一件を報道しません。




 いわゆる森友学園問題では検察が土地取引の経緯を明らかにしています。
 主要マスメディアは検察が土地取引の経緯を明らかにしたことを当然知っています。
 しかし明快に説明できることを主要マスメディアは説明する気は一切無いようです。
 事実を知っていながら事実を説明する気が無い。
 そして自分達に都合の悪いことは報道しない。
 事実を無視する。
 そのようなマスメディアに意味はあるのでしょうか?
 疑問に思っているところなのでございます。


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もし、あなたが自分自身で思考せず、新聞や隣人や地域的な偏見があなたに代わって思考しているとしたら、あなたの人生はめちゃくちゃなものになるでしょう。

2020年06月27日 16時37分03秒 | その他の日記
 以下の文は、MBC NEWSの『新聞記者が強要の疑い 警察が告発状を受理 屋久島町』と題した記事の転載であります。
 
『新聞記者が強要の疑い 警察が告発状を受理 屋久島町』
6/26 19:00

 屋久島町の出張旅費をめぐり新聞記者2人らが取材対象の男性に自らの主張内容を認めるコメントをするよう強要した疑いがある問題で、住民が警察に提出していた告発状が26日、受理されました。

 告発状を提出したのは屋久島町の住民6人です。
 告発状などによりますと、南日本新聞と朝日新聞の記者2人は4月、屋久島町の出張旅費を巡る取材のため、当時、町内の旅行代理店の所長を務めていた男性を男性の上司とともに呼び出し、大声で怒鳴りつけるなどして、記者らの主張を認めるコメントをするよう強要した疑いがあるとしています。

 男性のその際のコメントは南日本新聞と朝日新聞に掲載されましたが、男性はMBCの取材に対し、「そういうふうに言わされた」として、記事の内容は事実とは異なると説明していました。

 住民らはこれが強要の疑いにあたるとして4月に屋久島警察署に告発状を提出していましたが、その後、追加資料などを加え、26日付けで受理されたということです。

 告発人らは南日本新聞と朝日新聞に当時の取材の方法などについて公開質問状を送っていて、届いた回答について記者会見を開く予定です。

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相手の本音は自分に打ち明けたところにではなく打ち明けられなかったところにある。だからもし相手を理解しようと思うのなら相手が言ったことにではなく言わなかったことに耳を傾けなさい。

2020年06月27日 13時06分36秒 | その他の日記
 朝日新聞の『この政党は保守か革新か 揺らぐ「常識」、若者のリアル』の記事で編集委員の真鍋弘樹記者は、20代の人達の政権与党への支持が高い理由がわからないとして、「教育のせいなのか。周囲から浮くのを恐れるのか。50代の記者も加わって議論したが、答えは出ない」としています。

 そりゃそうでしょ。
 貴方達は10代や20代や30代の人達が何を望み何を願い何を実現したいのかを徹底的に無視してきたではないですか。
 自分達の主張のみが正義であるとし、自分達の主張に賛同しない者は「心の病気だ。治らない」と述べる者を絶賛推奨し公の場で自分達の主張に賛同しない者を「殺す」とか「吊るす」とか「叩ききってやる」とか述べる人を応援してきたではないですか。
 「無知な若者は選挙で投票するな」と述べるような馬鹿を絶賛応援しているではないですか。
 自分達とは異なる意見を徹底的に無視し或いは攻撃してきたではないですか。
 自分達とは異なる意見を理解しようとは一切してきていないではないですか。
 自分達とは異なる意見に目を瞑り無視して自分達の意見のみを強要してきたではないですか。
 そして自分達の意見に都合の悪いことは無視し知らん顔をしてきたではないですか。
 自分達とは異なる意見に対してはデマを広めて潰そうとしてきたではないですか。
 そしてこの期に及んで自分達の意見に従わない者を何故に従わないのかと考えても、他者を理解しようとはしていないではないですか。
 教育のせいだとか周囲から浮くことを恐れているだとか、自分達に都合のよい言い訳に終始して、相手を理解しようとはしていないではないですか。
 ひたすら、自分達は悪くない、悪いのは他者だ、自分達の意見は絶対的な真理であり正義である、自分達の意見に従わない者の方がおかしい、という姿勢に終始して他者を理解しようとしていないではないですか。
 10代や20代や30代の彼ら彼女らが何を望み何を願い何を実現したのか。それを理解しようとせず無視して、それで支持が広まるとでも思っているのですか?

 そもそも何故に若者のみを槍玉にあげているのですか?
 そもそも40代や50代や60代や70代以上の人達の支持を得ていますか?
 野党連合が支持を固めている世代ってあるのですか?

 若者ならば理由も無しに叩きやすいという理由で記事を書いていませんか?


 民主党政権で民主党が公約破りをするさまを私達はまざまざと見せつけられたのです。
 選挙前は耳に心地よい公約を述べていながらその公約をことごとく破っておいて責任も取らないし説明も一切しないし選挙で国民の審判を受けるという真摯さもない。
 そのような浅ましい姿をまざまざと見せつけられたのです。
 そして旧民主党に所属した議員達はその反省を一切せず自分達は悪くないと開き直っています。
 旧民主党は政権を取る前は一応は具体的な政策を述べています。
 しかし今の旧民主党系の政党は具体的な政策を述べません。ふわふわとした漠然とした方針しか述べません。それをどのように実現するのかという具体性は皆無です。
 旧民主党の政党は旧民主党が政権を取る前よりもはるかに劣化しています。
 あの民主党政権よりもはるかに劣化した旧民主党系の政党をどのような理由で支持しろと?
 外交面では世界中から無視され内政面では経済を滅茶苦茶にし財政も滅茶苦茶にしておいて一切反省せずに自分達は悪くないと述べるような政党をどのような理由で支持しろと?

 他者を理解しようとしないのならば分かるわけはありませんよ。
 自分達の意見のみが絶対的な正義で絶対的な真理であるとし自分達とは異なる意見に目を瞑り無視して自分達の意見のみを強要するのならば分かるわけはありませんよ。
 自分達の意見とは異なる者を悪として攻撃するだけで自分達の意見とは異なる者を理解しようとしないのならば分かるわけはありませんよ。
 対立と分裂を煽るだけです。

 私達は私達を理解しようとしない人達と付き合う義理などないのです。
 私達は私達を理解しようとしない人達に時間や労力を割かねばならない義理などないのですよ。

 まずは他者を理解しようと努力することから始めてみては如何か?





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恐怖は、混乱し錯乱した想像から生じます。常に平静な判断力が働くように心掛けるべきです。

2020年06月27日 12時59分44秒 | その他の日記
 以下の文は、ニューズウィーク日本版のジェレミー・ファウスト(ハーバード大学医科大学院保健政策・公衆衛生部門講師)氏の『ダイヤモンド・プリンセス号の感染データがあぶり出す「致死率」の真実』と題した記事の転載であります。



 『ダイヤモンド・プリンセス号の感染データがあぶり出す「致死率」の真実』
 2020年3月11日


 新型コロナウイルスが、世界中でパニックを引き起こしている。
 薬局から手指消毒剤が姿を消し、オンラインではN95マスクがとんでもない高値で取引されている。
 そのどちらも、まるで1918年に数千万人が命を落としたスペイン風邪の再来のような騒ぎだ。

 確かに、現在報じられているCOVID-19(2019年型コロナウイルス感染症)の致死率は2〜3%で、スペイン風邪に近い水準だから、不安に駆られるのは無理もない。
 だが最終的にこの数字はもっと低いことが明らかになるだろう。
 米国立衛生研究所(NIH)と米疾病対策センター(CDC)が言及した1%という致死率さえも、このウイルスの威力を過大評価している恐れがある。

 新型ウイルスの発生初期に、推定致死率が過度に高く報じられるのはよくあることだ。
 2009年に流行したH1N1型インフルエンザは当初、最終的な致死率1.28%の10倍近い数字が取り沙汰された。
 今回も同じような現象が起きている。

 新型コロナウイルスの感染者が湖北省武漢で爆発的に増えたとき、致死率は4%超とされていた。
 やがて湖北省の他の地域に感染が広がると、致死率は2%に、中国全体に広がると0.2~0.4%に低下した。
 無症状者や軽症患者も検査対象に含められるようになると、より現実的な数字が明らかになってきた。

 WHO(世界保健機関)は最近の報告書で、世界的な致死率を3.4%と予想以上に高く示したが、パニックに陥る必要はない。
 最終的には、この数字が1%を大幅に下回ることを示唆する、極めて直接的かつ説得力のある証拠が存在する。
 それは豪華クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の感染データだ。

 語弊を恐れずに言うと、隔離されたクルーズ船は、ウイルスの性質を研究するには絶好の実験室だ。
 何しろ、通常はコントロールできない多くの条件がそろっている。
 ダイヤモンド・プリンセスの場合、乗客・乗員3711人のうち、乗船時に新型コロナウイルスに感染していたのはたった1人で、それ以外は基本的に旅ができるほど健康で、限られた場所(船内)でウイルスにさらされた。

 中国からは恐ろしい数字が発表されていたが、そのうち何人が別の病気を持っていたかは分からない。
 いったい何人が命に関わる別の病気で既に入院していて、そこで新型コロナウイルスに感染したのか。
 健康だったのに、このウイルスに感染して、重症化したのは何人なのか。
 一般的な環境では、こうした情報を知ることはできない。
 だから正確な致死率をはじき出すことが難しい。

 中国の年間死亡者数は900万人。つまり新型コロナウイルスがなくても、1日に2万5000人、この2カ月なら約150万人が死亡していた計算になる。
 このうちかなりの割合が「たばこ病」とも言われる慢性閉塞性肺疾患(COPD)や下気道感染症、そして肺癌による死だ。
 その症状は、COVID-19の重い症状と区別がつかない。
 中国のCOVID-19による死者は、長年の喫煙習慣によりCOPDを発症するのと同じ年齢層で急増した(中国では成人男性の半分が喫煙者だ)。
 中国の感染拡大のピークとなった1〜2月初旬、1日約25人のペースで死者が出たが、そのほとんどが一般にCOPDが幅広く見られる高齢者だった。
 また、死者の大多数が集中した湖北省は、肺癌とCOPDの罹患率が中国の平均よりも著しく高い地域だ。
 1日2万5000人の死亡者に占める25人のうち、新型コロナウイルスだけが原因で死亡した人と、合併症が原因で死亡した人を見分けるのは容易ではない。
 しかし重要なのは、新型ウイルスによって、通常より死亡者数がどのくらい増えたのかだ。
 そこで重要な視点をもたらしてくれるのが、ダイヤモンド・プリンセス号のデータだ。
 乗員・乗客3711人のうち、陽性と判定されたのは705人以上(船内の環境とウイルスの感染力を考えると驚くほど少ない)。
 その半分以上は無症状だった。
 そして死者は6人。
 つまり致死率は0.85%だ。

 患者の死因を見極めるのが非常に難しい中国などとは異なり、この6人は超過死亡(新型コロナウイルスがなければ生じなかったはずの死亡)だと考えることができる。
 何より重要なのは、この6人が全員70歳以上だったことだろう。
 70歳未満の乗客は1人も死んでいない。
 中国の統計が正しいなら、ダイヤモンド・プリンセスでも70歳未満の乗客4人が死んでいなければならない。
 だが、そうはならなかった。

 ダイヤモンド・プリンセスのデータは、70歳以上の致死率は中国の統計の8分の1(1.1%)、80歳以上の致死率は3分の1(4.9%)であることを示唆している。

 もちろんこれらの数字も懸念すべきものではある。
 だが、ダイヤモンド・プリンセスで陽性とされた人は、高ウイルス量に繰り返しさらされた可能性が高い。
 また、一部の治療は遅れた。つまり、きちんとした手順が守られていれば、ダイヤモンド・プリンセスでの致死率はもっと低かった可能性があるのだ。
 さらに、乗客はクルーズ船の旅に参加できるほど健康だったとはいえ、一般的な人口を反映して、多くの人が生活習慣病を抱えていただろう。
 従ってダイヤモンド・プリンセスのデータに基づく推定致死率は、合理的と考えてよさそうだ。

 これらの事実を合わせて考えると、新型コロナウイルス感染症は、ほとんどの若者にとっては比較的良性の病気である一方で、一部の生活習慣病を抱える高齢者にとっては、深刻な病気である可能性を示している(それでも報道されているほどのリスクはないだろう)。

 中国では10歳以下の感染者数百人のうち死者はゼロで、健康な成人感染者(高齢者以外)の致死率は0.2〜0.4%だ。
 おそらく検査を受けていない大量の無症状感染者を含めれば、もっと低くなるだろう。
 若者の致死率が低いことを考えると、私たちがいま集中して資源を投じるべきなのは、健康な人への感染を防ぐことではなく(いずれにせよ感染拡大は不可避だ)、重症化するリスクが高い人たちを守ることだ。
 対象となるのは、70歳以上の全人口と、この種のウイルスに対してもともと高いリスクを持つ人たちだ。

 つまり重点的に対策を講じるべきなのは、学校ではなく老人ホーム、飛行機ではなく病院だ。
 高リスクグループは比較的限られているが、彼らを適切に守らなければ、その致死率は悲劇的に高くなりかねない。

 幸いこのウイルスの感染力や潜伏期間、そしてハイリスク者の人物像や居場所は分かっている。
 食料やマスクを買い込む健康な人たちは、不安を的外れなエネルギーに変えているにすぎない。
 本当にリスクにさらされている人たちを守るのに役立たないなら、その行動は貴重な資源の無駄遣いになりかねない。

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自分が何者かは能力で決まるのではない。どんな選択をするかだ。

2020年06月27日 12時31分58秒 | その他の日記
 以下の文は、PRESIDENT Onlineの御田寺 圭氏の『「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会     「岩国トロッコ問題」が露呈した本音』と題した記事の転載であります。
 



       「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会     「岩国トロッコ問題」が露呈した本音


   5人を助けられるのなら、1人を犠牲にしてもいいのか。
   この思考実験「トロッコ問題」を取り上げた山口県の小中学校が謝罪に追い込まれた。
   その理由は保護者からの「授業で不安を感じている」という指摘だという。
   文筆家の御田寺圭氏は「ケチがつくことには挑戦してはならないという、現代社会を象徴している」と分析する――。


    たった数名の「授業に不安を感じている」で謝罪

  『山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
  (中略)
  授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。
  しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。
  両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。
  (毎日新聞「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」岩国の小中学校が保護者に謝罪」2019年9月29日より引用)』


 数百人を相手にした授業で、たった数名から「不安に感じている」といった訴えがあったことによって謝罪をする――まさに現代社会の教育現場を象徴する出来事のようだ。
 こんなことで謝罪をしなければならないのであれば、体育や音楽や算数など、他の授業で不安を覚えた生徒など山ほどいるはずだが、それらもすべて謝罪して回るのだろうか。

    「ある人を助けるなら、別の人を犠牲にしてもよいか」
 さておき、「トロッコ問題」とは倫理学における思考実験のひとつであり「ある人を助けるためであれば、別の人を犠牲にしてもよいのだろうか?」を問うものである。
 著名な政治哲学者であるマイケル・サンデルが「正義」についての考察において引用したことで、世界的に広く知られるようになった。
 簡単に解説しよう。

  線路を走っている一台のトロッコが制御不能に陥ってしまい、このまま進めば向かった先で作業をしている5人がトロッコにひき殺されてしまう。
  あなたは偶然にも、トロッコが走る線路の分岐切り替えレバーの近くにいる。
  レバーを倒してトロッコの線路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員がいる。
  5人を助けるためなら1人を犠牲にしてもよいのだろうか。
  あるいはこのままにするべきなのだろうか。

    大人たちが出した答えは「現場から立ち去る」
 「ある人が生きるためには別の人の死がともなうが、それは許されるのか?」という問いは古くから存在する。
 紀元前200年代に活躍した、古代ギリシャの哲学者であるカルネアデスも同じような問題を提起した――「難破した舟の壊れた舟板にしがみついた人が、別の人がしがみつこうとしたのを突き飛ばした。なぜならその人がしがみついていた舟板はふたりがしがみつけば沈んでしまう程度のものだったからだ。彼は生還後、罪には問われなかったが、果たしてそれはただしかったのだろうか?」と。
 この問題は現代でも「カルネアデスの舟板」として広く知られる思考実験である。
 この問題はカルネアデスの逸話だけでなく、類似のバリエーションがさまざまに存在しており、敷衍して実社会における倫理的・道徳的判断を広く問うものとして長らく議論されてきたテーマのひとつである。
 世の倫理学者や政治哲学者たちが侃々諤々と議論を続け、あるいはインターネットではインテリたちが「トロッコのレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員助かる」などと大喜利をしているなか、意図せずして岩国の保護者と学校教員たちのやりとりが、トロッコ問題の「答え」を導き出してしまった。
 ほんの数名の「不安の表明」によって謝罪させられる教員たちから得るべきトロッコ問題の答えとは「現場から立ち去る」ことだ。

    「ただしいこと」の追求より「リスクの回避」
 トロッコのレバーに触れる行為は、たとえ5人を救った英雄になれる決断であったとしても、必ずひとりの遺族には終生恨まれることになるものだ。
 「どうしてレバーを倒したのか」と。
 だが、レバーに触らなければ、さらに言えば一切関与せずにその場を立ち去れば「無関係な人」になれる。
 無関係な立場であれば、けっして英雄にはなれないかもしれないが、殺人者として恨まれるようなこともない。
 明日もきっと、いつもと変わらぬ穏やかな日々が待っていることだろう。
 今回の事例でいえば「トロッコ問題」などという思考実験を授業中に提起さえしなければ、「問題」や「クレーム」が発生することもなかった。
 「物事の当事者になる」という選択肢を回避しさえすれば「責任」が問われるようなこともなかったのだ。
 たとえ大勢にとって有意義な学びの機会が提供できたとしても、ごく少数者が(「不安」を覚えて)犠牲になるのであれば、当然ながらその代償は発生する。
 場合によっては犠牲を出したことの責めを負うことになる。
 たとえ動機がどのようなものであれ「ただしいこと」を追求するのではなく、だれかから「ただしくない」と論難・非難されるリスクを回避することに全精力を投入せよ――それが「トロッコ問題」から考えるべき答えだ。

     少しでもケチがつくなら、最初から挑戦しない
 岩国の学校教員の方々は、残念ながら「授業でトロッコ問題を扱う」という決断をした時点でトロッコのレバーに触れてしまったことになる。
 多くの子供たちには「人間社会における倫理的判断の難しさと社会正義の複雑な構造を学ぶ機会」を提供できたかもしれない。
 しかし同時に、少数の子供やその親からは「子供たちへ不安やストレスをいたずらに与える加害者」という誹りを免れ得なくなった。
 この社会では多くの善なることを成したとしても、ひとつでも汚点があればそれらの功績は帳消しにされてしまう。
 「よかれと思って」などという動機はほとんど斟酌されない。
 レバーには触れるな。なにもせずその場から立ち去れ。当事者になるな。「無関係な人」になれ――それが紀元前から繰り返されてきた問題に対して、現代社会が用意した解答だ。
 この件――名付けるのであれば「岩国トロッコ問題」とでもいうべきだろうか――は、この社会でなぜ停滞が起き、技術的革新がことごとく反対・規制され、才能ある若者が続々と海外へと流出するのかをメタ的かつ端的に示した思考実験のようである。
 「少しでもケチがつくのであれば、チャレンジしてはならない」というメッセージが伝わってくる。

    「不安なもの」の排除は社会の停滞を招く
 「トロッコ問題」に限らず、多くの人びとにとって、新奇性や画期性のあるものは「気持ち悪い」ものである。
 不安感や不快感を惹起するものである。
 子供たちにとってはなおさらだ。
 それでもあえて、子供たちには未知なる問いを立てていく意義がある。
 しかしながら、教える側が「加害者」にされてしまうくらいであれば、現場レベルでは「毒にも薬にもならないこと」だけを淡々と伝えていくことのインセンティブが最大化されるだろう。
 一方で自分にとってなじみのないもの、異様に見えるものと接触したときに生じる生理的な不安感や不快感は、人間をひとつの動物として捉えたときには合理的な側面を持つ。
 個としては非力であり、集団生活を営まなければならなかった人間にとって、集団の同質性が維持されることには一定の合理性があった。
 人間の集団内における「異質性」とか「新奇性」を恐れ、排除することによって自分たちのグループの安定性が担保され、生存の可能性が高まると期待されたからだ。
 「トロッコのレバーに触れないことが推奨される社会」は、不安感や不快感を誘発しない快適なものばかりが目に入るし、身の危険を感じさせない穏やかな暮らしが続くだろう。
 生きていくにはおおよそ不自由のない社会かもしれない。
 だがそれは最新の知見や技術を拒否し、社会が停滞する可能性と表裏一体でもある。
 緩やかにだが着実に、社会から活力や創造性が失われていく。

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私が許せないのは、「自分が理解できないものは迫害していい」と勝手に思っている連中の思い上がり。

2020年06月26日 20時04分30秒 | その他の日記
 以下の文は、河村鳴紘氏の『イチから分かる 香川県ゲーム規制条例を解説 「賛成8割」に飛びついたメディアの“反撃”に注視』と題した記事の転載であります。




『イチから分かる 香川県ゲーム規制条例を解説 「賛成8割」に飛びついたメディアの“反撃”に注視』
河村鳴紘 4/19



 18歳未満のゲームの利用を原則1日1時間に制限する香川県のゲーム依存症規制条例が今月1日、施行されました。
 ところがパブリックコメント(パブコメ)全文の情報公開を請求したメディアが、パブコメの不自然さを指摘し、ネットでは大きな話題になりました。
 条例の背景と問題点をよくわからない人にも分かるよう説明し、問題点を洗い出してみます。 

  条例の根拠はWHOのゲーム依存
 香川県ゲーム規制条例は、18歳未満の「ゲーム依存」を防ぐのが狙いで、「ゲームは平日1日60分まで」など具体的な制限が記されるのが特徴です。
 県や保護者、ゲーム会社などの責務を記していますが、罰則はありません。
 当初は、ネットとゲームの両方が対象でしたが、反発を受けてゲームに限定した経緯があります。 
 条例の根拠となる「ゲーム依存」ですが、昨年、世界保健機関(WHO)がゲーム依存を疾病として認定したことですね。
 ただし適用は2022年からの予定です。
 ちなみにWHOの認定には、アルコールやギャンブルなどの依存症を専門にする久里浜医療センターの樋口進院長の強い意向が働いています。
 WHOのプロジェクトの予算をセンターが拠出するなどの努力をしています。 

 ただ意地悪に見れば、WHOという“錦の御旗”をうまく使い、「ゲーム依存」をアピールしているとも取れます。
 「93万人のゲーム依存」という記事もあったりしますが、数字の根拠について識者からも突っ込まれており、厚労省も冷静なのが現状と言えます。

 また条例を推進した、対策条例検討委員会の会長・大山一郎議長は、テレビゲームをやり続けると大脳の前頭前野の活動が低下し、子供がキレやすく反社会的になると主張し「ゲーム脳」に対して、賛意を持っていることを新聞の取材に明かしています。
 そして「ゲーム脳」は、今では脳の専門家に否定され、疑似科学になっている状況です。

  条例に元首相も皮肉
 そして、大きな話題になった条例について意見を募るパブコメですが、期間を通常の半分程度の2週間に短縮、一般の意見は県内のみとしました。
 さらにパブコメの発表時は、賛否を問うのでないにもかかわらず賛成8割と強調。
 一方で2600件以上もの大量の意見が寄せられた点、反対意見(約300件)のボリュームの多さ(賛成1ページに対して反対80ページ以上)についてはスルーしました。
 そして疑問を唱えた議員がパブコメ全文公開を要請するものの、実質的に拒否しました。
 改めて振り返ると、その異様さが浮かび上がります。 
 他地域の議員は、管轄外の条例に口を出さないのが普通ですが、多くの議員がその姿勢に対してツイッターで批判を浴びせました。
 その中でも、鳩山由紀夫・元首相が痛烈な批判をして話題になりました。 
 ともあれ、今回の条例は、やり方が強引すぎました。
 そのため「何らかの“反撃”の動きはあるだろう」と踏んでいました。
 すると今月13日に早くも動きがありました。

 地元テレビ局「瀬戸内海放送(KSB)」が、パブコメの原本(A4用紙4186枚分)を情報公開請求し、条例に賛成した意見に“多数派工作”の疑いがあると報じました。
 ネットでは同じIPアドレスに注目が集まりましたが、そもそも同じような文章が大量に送られており、送信日時も連続、おまけに誤字やスペースも同じものが多数あった事実に加え、以前から工作の可能性は指摘されていました。
 その疑いを晴らす責任は、議会にあるのは言うまでもありません。 

  「8割の賛成」メディアも反省
 注目はこの疑いに対して、メディアがどう動くかです。
 3月のパブコメ発表時、ほとんどのメディアは「県民の8割が賛成」という見出しで報じました。
 つまり、“多数派工作”が事実であれば、「8割の賛成」がウソになるわけです。
 KSBもその点について反省の一文を入れています。 
  『ただ今回、一番問題なのはパブリックコメントで賛否を問うていないにもかかわらず、賛成と反対の数を集計して公表したこと。そこに引っ張られ、3月12日の発表時に、我々報道機関が「県民の8割が賛成」という見出しで報じてしまったことは反省すべきだと思います。』

 KSBの4月13日の報道を見て、背筋がぞっとした関係者は少なくないはずです。 
 私もパブコメが発表された後、多くのメディアの記事を拝見しましたが、残念ながらパブコメの件数に出た不自然な数字を指摘するものは、ほとんど見かけませんでした。
 だからこそ私は危機感から「パブコメの数字が不自然」という記事を書いたわけです。 

 そしてメディアにいた身から言えば、意図的に「だまされた」メディアは、完全に敵となります。
 既にその動きはありますが、追及の動きは強まるでしょう。 

 皆さんも真剣であるほど「だまされた」「利用された」と知ったら、笑って許せますか?……という話です。
 ノーコメントだったり、当事者も誤解していたら、考慮の余地はありますが、今回の件に関しては、とてもそう思えない状況です。
 今は「新型コロナウイルスでそれどころではない」というのも確かですし、「誘導されるメディアが悪い」という意見も一理あるとは思います。
 しかし、「賛成8割」と報じたメディア(特に記者)は、カチンと来るでしょうし、この疑いに対して納得のいく説明があるまで追求するでしょう。 
 ちなみに“多数派工作”疑惑について、大手では朝日新聞と毎日新聞、産経新聞、共同通信が報じています。
 有力地方紙でも北海道新聞や東京新聞がページを割いて掲載しました。
 なお、「ゲーム依存」防止のキャンペーン企画をするなど力を入れていた地元紙の四国新聞ですが、有料記事データベースを見ても、この問題を報じた形跡は見当たりません。 

  議会事務局の迷走コメント
 もう一つ、不思議なことがあります。
 この件に関して、香川県の動きがおかしいことです。
 公開資料で名前を黒塗りにして、一方でわざわざIPアドレスを公開し、“炎上”のネタを作ったわけです。
 「IPアドレスの意味、仕組みを理解しなかった」という見方も否定しませんが、むしろ個人的には「意図的に公開した」という考えが捨てきれません。
 なぜなら、条例の素案公開の段階でも、県の職員がネットで自身の意見を公開して批判しており、その文章は分かりやすく、丁寧な言葉を選んでいます。 

 そして議会事務局は、“多数派工作”疑惑について、興味深いコメントを残しています。
 それを伝えた共同通信の記事は、ネットで消えているのですが、有料データベースに記事は存在していますので、その一文を引用しましょう。
  『また賛成意見の多くは、県議会が意見公募用に指定したメールアドレスではなく、県議会のホームページ内にある「ご意見箱」に送られていた。議会事務局は「意見公募は適正に行われた。賛成や反対の数を知るものではなく、広く意見を聞く目的は果たした」としている。』

 驚く人も多いかと思います。
 そもそもパブコメの賛否「賛成8割」の論理を持ち出したのは、議会側なのです。
 明らかに答える気がないと思われても仕方ないでしょう。
 それにしても、条例賛成意見の投稿・内容も、本気であればもう少し隠せるはずですが、ネットの皆さんが指摘する通り、驚くほど雑でして、かえって裏がある?と考えさせられてしまいます。
 メディアがどこまで追求できるか。
 そして別の方法を取るか。
 今後の注目ポイントはそこになるでしょう。
 ですが今は、新型コロナの対策でそれどころではないというのも本心でしょうから、なかなか難しいところですね。 

  WHOがまさかのゲーム推奨
 ゲーム規制条例が施行される同時期のタイミングで、WHOが新型コロナウイルスの感染拡大に対抗するため、人々にゲームを推奨するキャンペーンを始めました。 
 ゲームを疾病に認定する方針を打ち出したWHOが、新型コロナ感染防止対策のためとはいえども、なかなかのはしご外しですね。
 ともあれ、個人的には、それに対する見解を条例賛成派の方に聞いてみたいものです。
                                 転載終わり



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